11.雨の日の取り違え
十七時を過ぎたばかりだというのに、窓の外は夜みたいに暗かった。ガラスに当たる雨が大きな音を立てている。
土砂降りの日に、スーツで外に出るなんて、考えただけでも憂鬱だ。帰ると決めたらちゃっちゃと荷物をまとめてしまう同僚たちも、この日ばかりはだらだらと居座っていた。
窓際の席にいた維木課長が、すっと腰を上げる。椅子の背に掛けていたジャケットを取る手つきが、周囲の視線をなんとなく引き寄せる。ふだん静かなこの課長は、黙って立つだけでフロアの音量を一段落としてみせる。
維木課長は傘立てを確かめ、窓の雨脚に一瞬だけ目を向けてから、こちらを見た。
「お前たちも早く上がれよ」
「はあい。お疲れさまです!」
わたしが返すと、課長は振り返りもせず去っていく。
現原くんが「おれも、先に上がります!」と言って、自分の引き出しを閉めた。勢いでデスクが少し揺れる。
「形桐さんも、無理しないでくださいね。雨ヤバいっすよ」
「うん。切りのいいところで終わるよ」
現原くんは軽く会釈して、先にフロアを出た。
わたしは最後に、机の上の紙の向きをそろえて、赤ペンをペン立てに戻した。社員証を確認し、鞄の口を閉じる。
一階まで降りてエレベーター前の廊下を曲がり、エントランスへ入ると、雨の音がいっそう大きくなる。扉の向こうから、外気の湿った匂いが入ってきた。
共用の傘立てがあるだけの風除室に、現原くんがいた。困った顔で頭を掻いている。わたしを見つけると、目を少し見開いた。
「あ、形桐さん! お疲れさまです!」
「お疲れさま。どうしたの?」
「傘がないんですよ~」
そう言って、現原くんは傘立てに向き直った。一本ずつ、柄を確かめるみたいに指で触った。やはりそこにはないようだ。現原くんの肩が落ちる。
「マジでどうしよう。誰か間違えて持ってったのかな。駅まで行ったらもう終わりっす。全身びしょびしょ確定」
マス目で区切られた大きなスチール製の傘立てには、似たようなビニール傘が刺さっている。取り違えが起きても不思議ではなかった。
「うーん、似た傘、いっぱいあるもんねえ。どうしようか」
わたしは守衛室をちらりと見た。傘を貸してもらえないか、聞いてみようか? そんな思い付きが頭をかすめる。
考え込んだわたしを見て、何を思ったか現原くんはへらっと笑った。
「ま、気にしないでください。おれのミスっす。どうにかして帰りますんで」
「現原くんのミスじゃないでしょ」
そのとき、風除室の扉が開いた。先に帰ったはずの維木課長だった。手に持った傘は濡れていたが、ネームバンドできれいに閉じてある。
「あ……」
現原くんのつぶやきに、維木課長が顔を上げる。
「現原。これ、お前のだよな」
そういって差し出した傘の柄を現原くんに向ける。そこには、〈現原〉と印字されたテプラが貼られていた。
「はい! そうです!」
「取り違えてしまった。すまない」
維木課長の声は変わらず淡々としていたが、現原くんは背筋を伸ばした。
「とんでもないっす! わざわざありがとうございます!」
現原くんが両手で傘を受け取るのを見届けて、維木課長は傘立てに手を伸ばす。現原くんのよりも長いビニール傘を取った後、チラッとわたしの手元を見たが、特に何も言わなかった。
「お疲れ」
それだけ言って、維木課長は踵を返す。雨音が一段大きくなって、扉が閉まるとまた静かになった。
「よかったぁ。これ、コンビニで買ったばっかりだったんすよ」
「よかったね!」
現原くんは傘を胸に抱えるみたいに持って、はしゃいだように笑った。
言いながら、現原くんの視線がわたしの手元に落ちた。鞄しかない。
「あれ? 形桐さん、傘は?」
「あー……」
わたしはといえば、よりにもよってこんな日に、傘を忘れてきていた。
わたしの目が泳ぐ。
現原くんはそれだけで察したようで、小さく息を呑んだ。ガラス越しの土砂降りに目をやった。だが、彼が迷ったのはほんの一秒足らずだった。すぐに、決意したように傘の柄を握り直す。
「じゃ、これ、使ってくださいよ!」
「え? いや、いいよ。さっき戻ってきたばっかりじゃない」
「いいっす。おれ、走るの得意なんで。駅まで三分で着けます」
現原くんは、ビニール傘を押しつけるみたいに渡してきた。反射で受け取ってしまう。
「えっ」
「先輩が風邪引いて明日休んだら困りますよ。課長に怒られるの、俺もう勘弁っす!」
現原くんは鞄を肩に掛け直した。照れをごまかすように、小さく笑う。
「じゃ、お疲れさまでした~! また明日!」
「濡れたら風邪引くかもなのはそっちも同じでしょ! こら、現原くん! 待ちなさい!」
わたしの制止も聞かず、現原くんはそのまま外へ出た。彼の靴が水たまりを踏み、ぱしゃりと水が跳ねる。少し屈むように、ビジネスバッグで頭をかばいながら走るその背中は、雨でけぶってすぐに消えてしまった。
「……ほんとに走っていっちゃった」
声に出すと、変におかしかった。安っぽいビニール傘の柄に、手の熱がわずかに残っている。頼りなくて、温かかった。わたしはそれを握り直して、外に出た。




