1.ゲーム・スタート
それは、十二歳上の姉のものだった。
二〇〇〇年代前半に出たインディーズビジュアルノベル。同人恋愛ADV――いわゆるエロゲと呼ばれていたパソコンゲームだ。18禁という看板さえあればどんな設定でも受け入れられていた時代の遺物ともいえる。
姉は、モノで溢れかえった惨憺たる自室を放置したまま上京した。それからちっとも帰ってこなかったので、わたしは毎日のように姉の部屋を〈探索〉するようになった。使わなくなった姉のものは、妹のものになる定めである。
姉の部屋は完全に物置として扱われていた。姉のものと思しきバッグ、スポーツ用品、本、服。実家で持て余された安物のハンガーラックやカラーボックスまでもが放り込まれていた。
なんとか足の踏み場を探して、壁付けされた学習机に到達すると、そこは宝の山だった。異常に絵の巧かった姉のデッサンや建築関係の下絵がたっぷり詰まっていた。それらを引き出して整理したあと、そのさらに奥へと隠されるように仕舞われていたパソコンゲームをいくつか見つけた。
そこに交じっていたのが、このゲームだ。
タイトルは『社内恋愛』。CD-ROM版。引き出しの奥に、紙箱つきで丁寧にしまわれていた。
怖いもの見たさで『社内恋愛』を起動したわたしは、まんまとハマってしまった。
今とは異なる価値観、言葉遣い、緻密なドット絵、デート時の絶妙にダサい私服。激しくのめり込むようなゲームではなかった。惰性と呼んで差し支えないようなゲームの進め方だったが、抜け出せない奇妙な魅力があった。
次第にわたしは、『社内恋愛』をモチーフにしたイラストや掌編――二次創作を書きまくって投稿サイトに上げるようになった。しかし、同年代はまず手に取らないゲームだ。同志はいなかった。わたしを含めてわずか三人しか描き手がおらず、すでに二人とも新たなジャンルで楽しくやっていた。
オタクの親友にさえ、『社内恋愛』の話はしなかった。まず、プレイしてもらう手段がなかった。CD-ROMは劣化してデータが飛んでしまい、代わりを買おうにもオークションにさえ出ていない。
そもそも、ハードとソフトを手渡してまでプレイしてほしい傑作かと言われると、ちょっと考え込んでしまう。何せ、バグも多いインディーズの作品だ。掲示板――攻略板や雑談板でミーム化するようなゲームではなかった。粗製乱造の中にさえ怪作が紛れていたような、とかく尖った作品が多すぎた時代の作品でもある。
語り合える友達はいなかったが、創作にいそしむのは楽しくて、十六歳から二十一歳までの六年間、ひたすら『社内恋愛』の二次創作を続けていた。就職後は、「仕事が忙しくなったから」とか「他にも面白い作品がたくさんあるから」と何度も理由をつけるうち、創作から離れてしまった。
それからあっという間に四年が経ち、わたしは二十五歳になった。
今の会社も、入社四年目だ。
タイムカードを押していつも通り席に着くと、向かいに座っていた同僚が「おはよーございまーす!」と元気よく挨拶してくれる。同じ部署の後輩だ。わたしも「おはよう」と返してから、PCの電源を入れる。
四年目ともなれば、新人の顔はできない。何度か昇給したが、プロジェクトを任されるほどではない。代わりに、ダブルチェックを通される回数は減り、自分の裁量で回せる仕事が増えた。キャリア形成にいまいち興味のないわたしにはちょうどいい、気楽なポジションかもしれない。
朝一番のタスク処理も、すっかり慣れてしまった。メールをざっと確認し、社内チャットの未読処理をする。カレンダーで当日MTGの予定をチェックし、事前に資料をさらっておく。
ルーティンは気楽だ。何も考えなくていいから。
画面の中央にふわりと出た半透明のポップアップも、どうせセキュリティソフトあたりの通知だろう。ろくに読まないまま閉じようとして――閉じるボタンが、どこにも見当たらなかった。
「あれ?」
訝しく思って、やっと本文を読む気になった。
そこには、こう書かれていた。
ゲームクリアまで、めくるめく世界をお楽しみください。
※社内恋愛は自己責任でお願いします(当サークルは責任を負いません!)
「……え?」
製作陣の声が垣間見える、冗談交じりのテキスト。さながらインディーズゲームのreadme.txtや、クリア後に解放されるデバッグルームで読めるような。
懐かしさが先に来て、その次に血の気が引いた。混乱は確信に塗り潰され、心臓がバクバクと跳ねはじめる。
「なんで、これが……」
知っている。忘れるはずがない。
これは、あのゲームの「挨拶」だ。
――『社内恋愛』を起動するたびに出てくるメッセージだった。
わたしは反射的にマウスを動かした。クリック。右クリック。左手でEscを連打する。だが、帯は消えない。閉じるボタンも、スキップもない。
(そもそも――ちょっと待って。これはなに?)
わたしはモニタから視線を離し、椅子を引いてデスクの上を見渡した。
モニタは厚みのあるブラウン管ディスプレイ。その後ろに押し込められるように、電話線やLANケーブルがぐちゃぐちゃと這っている。隅に薄いステンレスの灰皿がひとつ。そして、フロッピーディスクが二枚。もはやパーティションめいた箱型のPC本体には、フロッピーディスクの差し込み口がある。
冷や汗が、背中を伝った。
(冗談でしょ……?)
時代錯誤がすぎる。こんなもの、小学生の頃に学校の『パソコン室』で見たのが最後だ。
再び目の前のポップアップに視線を戻した。やはり、そこにある。幻覚ではない。わたしは、向かいの席で挨拶をしてくれた後輩に、なるべく自然な声で聞いた。
「ねえ。パソコン立ち上げたときに変なの出たんだけど、そっちも出た?」
「え? 出てないっすよ。いつも通りっす」
後輩はひょいと立ち上がって、わたしの隣にやってくる。その明朗そうな横顔を見て、思わず息を止めてしまった。
見たことがある。同僚としてではなく――『社内恋愛』の中で。
主人公が内心で〈後輩くん〉と呼んでいた、二つ下の同僚――攻略対象の一人だ。懐いてくるカワイイ後輩枠といったところか。爆速で距離を詰めてくる、甘え上手の……。
「どうかしました? 形桐さん? ……せんぱ~い?」
後輩くんが少し甘えたような声で呼びかけるので、わたしは思わず苦笑してしまう。
どことなくゴールデン・レトリバーを彷彿とさせる容姿で「せんぱい」と甘えられると、つい言うことを聞いてしまいたくなる。
〈後輩くん〉の名前は、現原 詠斗。
だらしないわけではないが、見栄をほとんど見せないキャラクターだ。二〇〇〇年代初頭、バブル期の華やかさがまだ価値観にこびりついていた時代の男性像にしては珍しい。先輩とはいえ、女性に財布を開かせて平然としている男性に、表立った賛同が得られたとは考えにくい。だが、こういう人も確かに存在したはずだ。インディーズだからこそ、堂々と描けたのかもしれない。
とにかく、おねだりが上手な男だ。それで何度も奢らされた。
そんなわけないのに。
ここはゲームの世界だ。少なくとも、完全な現実ではない。それなのに、奢らされた記憶がある。――〈後輩くん〉は、架空の存在であるにもかかわらず。どうやら、わたしの認知も、少しずつ替わっているらしかった。
わたしはほとんど呆然としながら、画面のポップアップを直視した。
――ゲームクリアまで、めくるめく世界をお楽しみください。
(ゲームクリア……まで?)
クリアすれば終わるの? 終われば、戻れるの?
そんな都合のいい話がある?
(……ある。あるに決まってる)
そう信じるしかない。都合がいいのは当然だ。だって、ゲームなんだから。
わたしは深呼吸をして、口を開く。
「わかっ、た……」
ポップアップに向けて返事をすると、ウィンドウはすうっと消えた。少し遅れて怖さが来たが、もはや怖がっている場合ではなかった。
――誰かを、攻略しなければ。




