第5場 撤退と余韻
王子の指先が、わずかに震えていた。
その震えを隠すように、彼はマントを翻す。
「……もういい。出る。」
その声には、もはや威厳も確信もなかった。
ただ、何かを見失った人間の、乾いた音があった。
彼は足早に会場を後にする。
その背を、誰も追わない。
ただ、マリアだけが――
迷いながらも、彼の後を追おうとした。
扉の前で、一度だけ振り返る。
その瞳に映るのは、静かに立つエリザベートの姿。
マリアは小さく息を吸い、
震える声で言った。
「あなたのようになれたら、と……思いました。」
その言葉は、まるで祈りのように空気に溶けた。
エリザベートは何も答えない。
ただ、胸の前で両手を重ね――
深く、静かに礼をした。
その一礼には、怒りも誇りもなかった。
ただ、礼節だけがあった。
そして、音もなく歩き出す。
ドレスの裾が床をかすめるたびに、
その場にあった混乱の気配が、
ひとつ、またひとつと鎮まっていく。
貴族たちは、口々に噂を交わし始めた。
「本当に筋肉で……?」「いや、比喩では……ないのでは……?」
「怒ってなどいなかった……ただ、強かった……」
だが、その声は不思議なほど小さかった。
彼女の足音が遠ざかるにつれて、
その音量は自然と――静かになっていく。
まるで、
誰もが自分の声で、この静謐を壊したくなかったかのように。
最後に残ったのは、
磨かれた床の上に映る、彼女の背筋の余韻。
その一本の線だけが、
王城の中に長く、静かに残った。
そして――
その夜を境に、王都の礼儀作法教本に新たな一文が加えられることになる。
『姿勢は、感情より雄弁である。』
誰が書いたのかは、
今もわかっていない。




