第3場 “筋肉日誌”の流出
グランツ領の朝は静かだ。
雪解けの風が吹き抜け、鍛錬の掛け声が低く響く。
その片隅で、侍女メイは今日も帳面を開いていた。
几帳面な筆致で、淡々と記す。
『お嬢様、今朝の鍛錬:腕立て三十回、沈黙の礼十回。
村民の姿勢、改善傾向。呼吸、整う。』
墨の香が漂う。
それは報告書というより――まるで祈祷の記録のようだった。
書き終えたあと、メイはそっと手を合わせる。
「どうか、皆の背筋が、今日も真っ直ぐでありますように……」
やがてその帳面は、物資とともに王都へ送られる荷に紛れた。
誰の手も悪意もなく、ただ偶然に。
けれど、それは王都の信仰を揺るがす“偶然”だった。
――数日後。
王都大聖堂の書庫。
静まり返った石造りの部屋で、神官ルーカスは古文書の整理をしていた。
そのとき、見慣れぬ革表紙の冊子が一冊、目に留まる。
タイトルもなく、ただ“グランツ領記録”とだけ記されている。
ページを開いた瞬間、彼の呼吸が止まった。
『神は沈黙する。
だからこそ、我らもまた、沈黙の中で鍛える。』
――沈黙の中で、鍛える。
その言葉が、彼の胸を打ち抜いた。
それは理屈ではなく、信仰の中枢を貫く響きだった。
神が応えぬなら、
人が応えるまで己を磨く――
まるで神学の到達点に、肉体で辿り着こうとする思想。
ルーカスの手が震える。
指先に汗が滲む。
「……これは、祈りだ。」
彼は呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
長椅子を押しのけ、祭壇の前に進む。
聖堂の空気が張りつめる。
静かに息を吸い、吐き――
ローブの裾を整え、
そして、床に手をついた。
腕を曲げる。
押し上げる。
再び曲げる。
その動きは滑稽ではなく、荘厳だった。
まるで、ひとつひとつの腕立て伏せが
神に捧げる祈りの動作であるかのように。
蝋燭の灯が揺れる。
影が壁に映る。
そこには、一人の神官が――
ひとつの信仰を、筋肉によって体現していた。
こうして、“筋肉日誌”は偶然の福音となり、
王都の信仰は、静かに形を変え始める。




