第3話:異端の噂 ―王都、筋肉にざわめく―第1場 噂の発生 ―「北の筋肉令嬢」―
王都の昼下がり。
陽光が差し込む庭園の奥、白薔薇の香るティーサロン。
貴族たちの笑い声と、銀のスプーンが触れ合う音が心地よく響く――はずだった。
だが今日、その空気には妙な緊張が混じっていた。
「聞きました? 北のグランツ領では、民が毎朝“祈るように”鍛えているそうですわ。」
「なんでも、お嬢様の号令ひとつで――全員がスクワットを始めるとか。」
「……鍛錬で飢饉を乗り越えた、などと。まさか筋肉で?」
紅茶を口に含んだまま、数人の貴族が噴き出しかけた。
しかし笑いは途中で止まり、互いの顔を見合わせる。
――笑っていい話では、ない。
なぜなら実際に、北のグランツ領は他のどの地よりも早く豊かさを取り戻していたのだ。
税収も上がり、病も減り、民の士気は高い。
理由を問えば「鍛えたから」と答えるという。
王都では、その異様な繁栄が“筋肉による支配”などと呼ばれ始めていた。
一方、王城の執務室。
アラン王子は窓際に立ち、報告書を片手に苛立たしげに眉をひそめていた。
「……あの女が、また妙なことを。」
紙面には冷たい筆致で記されている。
『グランツ領、領主代行エリザベート・フォン・グランツ。
民の自助を促し、身体鍛錬による自治を導入。
結果、労働効率および治安の向上を確認。』
「鍛錬による自治……? 馬鹿げている。」
彼は声を荒げるが、その視線は報告書から離せない。
ページの端には、視察官の走り書きが残されていた。
『領民の姿勢、極めて良好。統制が取れている。』
アランの手が止まる。
報告書を閉じながら、ふと、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
――なぜだ。
机に肘をつこうとした瞬間、
背筋にわずかな違和感が走る。
(……姿勢が、悪い?)
彼は無意識に立ち上がり、鏡の方へ歩いた。
そして自分の姿を見つめ――ゆっくりと、肩を引いた。
「……フン。こんなこと、意味はない。」
そう言いながらも、彼の背中は先ほどよりわずかに伸びていた。
その頃、街角の露店でも。
職人がハンマーを振り上げながらつぶやく。
「北の領主様は言ったんだ。“立てば血が巡る”ってな。」
その言葉に、周囲の労働者たちが思わず姿勢を正す。
小さな変化が、王都の隅々へと広がっていく。
まだ誰も知らない。
この日、王都全体が――
“無意識に筋肉を意識した最初の日”であったことを。




