2-2 流言
目を開けた瞬間、けっこう長く寝ていたと分かった。
壁の時計は正午。つまり三コマ近く寝倒した計算だ。
脇役行動規範に「保健室で寝るな」とは書いていないし、今の気分はやたら上機嫌。
カーテンを開けると、お団子頭で大人びたメイクの女性が丸椅子に脚を組んで座り、スマホをいじっていた。たぶん保健室の先生だ。
「やっと起きたのねえ。」
艶のある気だるい声。
「すみません、寝過ぎました。」
「カーテン開けたらあなたで、びっくりしたわ。最初にいた女の子、もう帰ったの?」
「ええ……ベッド、譲ってくれたんです。」思い出すと、やっぱり申し訳ない。
靴を履いてベッドを降り、余計な質問が飛ぶ前に退散しようとする。
「私がデートしてたこと、内緒ね~。」
先生は目を細め、いたずらっぽく笑う。「代わりに、いつでもここで休んでいいわよ?」
脚をくいっと組み替え、ハイヒールのつま先で僕を指す。その目は“取引成立?”と確認してくるが、僕は何を秘密にするのか分かっていない。
――さっき先生が不在だった理由、あまり殊勝ではなさそうだ。王郁靜が所在を濁したのも無理はない。
でも先生、彼女が口を割ったとでも? 人と人との信頼、ガーゼと一緒にゴミ箱行きか。
「分かってます。僕、空気の読める男なんで。」満面の笑みで返し、ドアへ。
何も知らなくても、目の前の利益は嫌いじゃない。
出入口でふと思い出す。「ところで、さっき誰か僕を探しに来ました?」
「え? ああ……」少し間を置いて、「来てないわ。」
「ふうん、そう。」
先生の“同情顔”を見ないために、僕は静かにドアを閉めた。
――
教室へ戻ると、もう昼食の準備。僕が戻ったことに、誰も反応はない。
……別に、悲しくなんてない。本当に。
廊下で給食の配膳に並んでいると、陳宏寬が、今日クラスで出回り始めた“蜚聞”を熱弁していた。発信源は、彼自身。
要約すると――“運動系”の林千柚が、先日の休日に沈辰澤の家へ行ったらしい。
内容の大小はともかく、沈辰澤が絡めば、キャンパス全域で爆発する火種だ。今はまだクラス内で熟成中、という段階だが。
「ホントだって。あの時、林千柚、腰に沈辰澤の上着巻いてたんだよ。」
自分の目撃“特ダネ”を小声で興奮気味に語る陳宏寬。
そのおかげで彼は一時的に人気者。通りすがりが次々と裏取りに来る。――当の二人以外、全員で。
「で、マジで沈辰澤ん家、入ったの?」
「そのまま……寝た、とか?」
小さな噂は、脳内補完でどこまでも膨張する。これが人間の想像力。
その時、ちいさな影が僕の前をシュッと横切り、ためらいなく陳宏寬のネクタイをつかんで引きずっていく。
ツインテが空を描いて波線を刻み、ふわりと落ちた。
「何て言ったの、アンタ? 知ってること全部、正直に吐きな!」
可愛い体に似合わない荒っぽい口調――隣クラスの“幼なじみ”こと夏欣柔。もちろん、沈辰澤の。
「こ、こないだの日曜、公園の横で、林千柚と沈辰澤が、一緒に彼の家に入るのを……」
「誰の家。」
「し、沈辰澤。」ネクタイに引っ張られ、彼のメガネは斜め。
「何しに?」
「知らないって。入っていくの見て、俺はそのまま買い物に……」
ツインテの主はふっと手を離すと、スライムみたいに表情を変え、清純可憐な顔つきで――僕たちの教室へ。
「アザー――待たせちゃってごめんね!」
甘ったるい声。左手でウサギ刺繍の保温バッグを振り、沈辰澤の机に当然のように弁当を置く。
「この前、酢豚好きって言ってたから、今日は多めに入れたよ!」
僕は給食を受け取り席へ戻る。チラ見した沈辰澤の弁当は、六十元食べ放題の給食が急に心もとなくなるクオリティ。
「いつもありがとう、小柔。でも負担だろう? 毎日はいいよ。君に疲れてほしくない。」
沈辰澤の“優しい”キャラに、無害な微笑み。夏欣柔はさらに沈む。
「阿澤のためなら、毎朝の弁当なんて全然平気。阿澤に給食なんて、食べさせられないでしょ?」
――給食が何した。
とはいえ、彼女が弁当のために毎日手間をかけているのは事実。
食材を持って早登校→許可のある調理室で調理→冷まして冷蔵→昼にレンチンして届ける。
彼女が料理部に入ったのも、このためだろう。
「君は僕にこんなにしてくれるのに、僕は君に何もできてないね。」
その笑みは色っぽい系ではなく、ふんわりと胸の奥を温めるタイプ。
――要するに、母性をくすぐる笑顔。
「そんなこと言ったら怒るよ? 私たち、損得で動く仲じゃないでしょ?」
唇を尖らせて甘え、肩をちょんと当てる。――甘え半分、宣言半分。
とりわけ、今注目の的・林千柚に向けて。
彼女はバドミントン部。消耗が激しいから、食べる量も桁違い。
弁当箱の中に“山”を築けるのは彼女だけ。
このあからさまな“縄張り宣言”は、運動脳な林千柚でさえ分かる。
だが彼女も、他の“沈辰澤ファン”も、反応しない。
――僕の推測だが、今はまだ対抗できる材料がない。
可愛さ=女子としての武器、胃袋を掴む=女としての武器、そして“幼なじみ”の肩書き。夏欣柔は、他を大きくリードしている。正面衝突は愚策。下手をすればチャンスを失う。
……ということは、今のところ、彼女が有力株?
背中を指でトン、とつつかれ、振り向く。
葉子薫が、笑顔のまま目が笑ってない視線を向けていた。笑顔が濃いほどに、僕は怖い。
「その噂、本当かどうか見極められる?」
僕にだけ聞こえる声量。今は皆の視線が沈辰澤と夏欣柔に集中している。教室で話しても安全だろう。
「林千柚が沈辰澤の家に、って件? 知るかよ……」妙なことを聞くな。
「じゃ、真相を調べる方法は?」
「ない。」
「お願い……私たち、“本気の友だち”でしょ?」
両手を合わせ、にっこりウィンク。
「……君、そんなにゴシップ好きだったっけ。」
「知己知彼、ってやつ。」
僕が反応しないのを見ると、彼女はすっと席を立って教室を出た。
怒らせたかと思ったら、何事もなかったように戻ってきて、購買部で買ったリンゴ牛乳を僕に差し出す。
「これ、好きでしょ?」――前に僕がリンゴ系を買ったのを見て、勘違いしたらしい。
「違う。」
僕はそれを彼女の机に戻す。
腕を組んで「うーん……」と考え込む彼女。
この調子では昼休みが終わる。僕は口を開いた。
「好きなのは“ロングライフ牛乳(保久乳)”のアップル味。正確には、いろんな味のロングライフ牛乳。」
“高いほど良い”みたいな偏見はあるけど、僕が好きなのは“保久乳”の味。
「こういう“生乳ベースの調製乳”は、あの味じゃないんだ。」
大事なので目を見開いて強調。「分かった?」
長年の信仰を一言で砕かれたみたいに、彼女は言葉を失う。
これで終わりかと思ったら、僕が数口食べたところで、彼女が再び戻ってきた。
今度は“モルト味のロングライフ牛乳”を僕の机に置く。
「これでいいでしょ?」
彼女は席に戻り、最初のリンゴ牛乳を飲む。
――彼女が素直に“買い直した”のは、従順だからじゃない。
徐亞鈞の時と同じ。“ライバルの情報”を、一つでも多く集めたいのだ。
可笑しい。ロングライフ牛乳一本で、僕が真相を探ってくるとでも?
「日曜日に見たこと、教えて。林千柚と沈辰澤が家に戻る“経緯”。できるだけ詳しく。」
食後、僕は黙って陳宏寬の横に立ち、詰問する。
彼が発火点。彼の流した噂がなければ、葉子薫に平穏を乱されることもなかった。
「はぁ、今日だけで何回言ったか……」
「じゃあ、もう一回くらい平気だろ。」
「日曜に買い物へ出たら、林千柚が腰に沈辰澤の上着を巻いてて、二人で彼の家に入っていったのを見た。」
「以上?」
「家の前で張り込みなんてするかよ。」
――他の“沈辰澤ガールズ”なら、やりかねないが。
「何時頃?」
「時間までは……朝メシ買いに出た時。」
この程度の手がかりじゃ、真偽は判別不能。
だから翌朝いちばんで、彼が言った場所へ張り込みに行くことにした。




