2-1 流言
今日の体育は午前の二時間目。例によって、準備運動のあとにトラックを二周。
僕は体力が強いほうではないが、クラスでは中の下くらいは保っている。だから、いちばん体力のない徐亞鈞が僕の横まで突っ込んできた時、嫌な予感がした。
「リー……リー……」
息が上がりすぎて、喉をつままれたみたいに途切れ途切れ。それでも僕を呼んでいるのは分かった。
彼女がクラス初の「体育で嘔吐」にならないよう、僕はスピードを落として合わせる。
――そこまでして、今言わなきゃいけない話?
「その……件……きみは……ほ、ほんとに……そう……思ってるの……?」
命を削ってしゃべってるな、これ。
でも肩に手を載せて体重を預けないでほしい。引っ張られて転びそう!
「“『知之為知之』は空欄でも点になると思った”って件?」
陰気とコミュ障は別物だ。僕はよく混同する。
感情の光を欠いた井戸みたいな彼女の視線が、僕の冗談を続ける勇気を飲み込んでいく。
今さらこれを確認? まさかバレた? それとも探り?
――とりあえず、こう返す。
「ずっと考えたけど、どう考えても僕の推測どおりだよ。」
彼女に腕を引かれて体が斜め。地味にきつい。「……違うの?」
「う……」吐くのかと思って身構えたが、違った。「そ……そう。君の……言う……とおり……」
言い終えると、彼女は泥のように力が抜け、列の最後尾へ戻っていった。
本気で気にしてたんだな。――言わなくてよかった、真相は。
「“透明インク”の件、何か隠してるでしょ?」
顔を上げると、先頭にいたはずの葉子薫が、いつの間にか隣に。
その一言で、僕の四肢は制御を失った。
正確には、神経命令を配る中枢プロセッサが一瞬ショートして、体内の信号が四択問題みたいに四分裂。
結果――盛大にすっ転んだ。
「オーシン! 大丈夫!?」
葉子薫が起こそうとしたが、痛みで尻もちに戻る。「ま、待って――いっっった!」
ズボンの裾を上げると、膝が擦りむけて血がにじんでいた。
ついてない……
「保健室へ行こ。立って。」
差し伸べられた手――罪悪感か、たまたま近かっただけか。
「イェンカイ。」
騒ぎを見て寄ってきた呂彥凱に声をかける。「保健室、頼む。」
「ドジだな。転ぶとか。」口は悪いが、肩を貸してくれる。
「先生に説明、お願い。」
差し出しかけた手を引っ込めた葉子薫に言う。
彼女の顔は、心配……あるいは――
その先を、呂彥凱の声が断ち切る。「これでバスケ、人数どうすんの?」
「お前も保健室の前で転べ。偶数、そろう。」
僕の提案は当然、却下された。
保健室に着くと、先生はいない。トイレかな。
「今、先生いないみたいだな。」
「……」“それは見れば分かる”を飲み込んで、優しい声で、入口で固まる彼に言う。
「今なら邪魔、入らない。――“アレ”、やっとく?」
「ど、どれ……?」
眉間にしわ。むしろ警戒モード。僕が近づくと、胸の前で腕を組む。
僕は舌で唇を湿らせ、さらに一歩。
「俺、奇数対偶数でもバスケできると思う! 回復したら自分で戻ってこい!」
捨て台詞を残し、彼は逃走。僕はついでに扉を閉めた。
人生でこんな日が来るとは。
先生不在の保健室を独占――つまり「ケガで先生待ち」を口実にサボれる。ベッドで寝るまである。
自分がどれだけニヤけていたか、たぶん自覚がない。
上機嫌で鼻歌交じりに跳ねながらカーテンを開け――“人生級”に後悔した。
ベッドの上の女子が、布団をはねのけ、起き上がる途中の姿勢で目が合った。
シュッ、と音を立ててカーテンを閉める。遅れてやってくる呆然が、僕を足元から固める。
――さっきの鼻歌、いや、それより前の耳を塞ぎたくなる台詞。全部、聞かれた?
どうする……謝る? 冗談だって説明? でもわざわざ弁明も変だし、黙ってるのも誤解を呼ぶし。
……いや、知らない子だ。ってことは向こうも僕を知らない。
なら、今すぐ出れば、ノー接触で終了。よし、今だ、今――
シャッ。
「その……もし具合悪いなら、ベッド、譲るよ。」
――間に合わなかった。人生、詰み。
カーテンの向こうの彼女は黒縁メガネをかけ、靴を履いてベッド脇に腰を下ろしていた。
パッと見は、ショートヘア版の徐亞鈞。ただし目はしっかりしていて、突然早口呪文を唱えたりはしなさそう。
共通点は、一つ。――自信のない声。
「具合は悪くない……ただ、誰もいないと思って。」正直に。
「ごめん……私、人と接するの、ちょっと怖くて。」
おぼつかない視線は僕の顔に落ちず、指は胸元でぎゅっと握られている。
「君も、電話に出られなくて、切れるのを待つタイプ?」
許してほしい。僕も、こういうタイプは……ちょっと怖い。
「君も!?」
同士を見つけたみたいに目を見開く。「さっきは……怒られるのが怖くて、声が出なかっただけ。」
さっき黙っていた理由を説明してくれた。
「悪いこと、してないよね。怒られる心配、いらないでしょ?」
即座に疑問をぶつける。
彼女はまた目を逸らす。「分かってる……でも、理由もなく怒られた経験があって。
誰かにきつく当たられるのも、軽い悪意も、怖い。大げさなのは分かってるけど……」
痩せた体がさらに小さく縮こまる。――このままだと、親指姫になるぞ。
「大丈夫。僕の“設定”は――小事では怒らない。大事でも殴らない。」
「設定?」
説明しようとしたら、「待って、まず座って!」
彼女は僕の傷に気づいたらしく、慌てて立ち上がって促す。
あ、そうだ。ここへ来た本来の理由。
あわてて棚から道具と軟膏を出し、僕の前にしゃがんで、丁寧に消毒してくれる。
左人差し指には絆創膏。動作は柔らかいのに、常に僕の反応を確かめている。
制服の名札に「王郁靜」――隣のクラスの同学年。……記憶にはない。
「保健室の先生は?」
気まずさを和らげたくて、話題をひねり出す。
「黄先生が『ベッドで休んでて』って言って、出ていった。」
(別に知りたくはなかったが、会話が死ぬのは早い。まだ消毒中だし。)
視線を動かすと、ベッド脇の机に本と開きっぱなしのノート。
「それ、部活の読書レポート。まだ途中。」
「君も読書部?」
某氏のせいで、読書レポート=外回り、の連想が生まれてしまった。
王郁靜は軟膏を手に。「知ってるの? 人数少ないし、地味な部だよ。」
「クラスメイトがいる。温苡蓉って知ってる?」
その名を聞いた瞬間、飾り気のない笑みがこぼれる。
「じゃあ、二年の子だね! 蓉は同じ一年だけどすごくて、部長にも褒められてるよ。」
(名札にクラスと名前、書いてあるけど……僕、見えてない扱い?)
「部でも、ああいう喋り方?」悪意はない。純粋な興味。
「ふふ、たしかに“ああいう”時がある。でも図書館では静か。いったん本を開くと、もう本の世界の小妖精。」
――サイダーをこぼさなければ、もっとね。
「図書館、よく一緒に行くの?」
「私たち、図書委員でもあるから。」
「それはすごい。」(入部条件=図書委員?)
彼女のノートへ身を乗り出す。「読書レポート、見せてもらっていい?」
半分も伸ばさないうちに、膝に鋭い痛み。まるで綿棒で血管を突かれたみたい。
「ご、ごめん……」
痛みに仰け反る僕に、彼女は謝りつつガーゼで手当て。「字が汚いから、あれは自分用の下書きで……」
“女子の字が本当に汚い”のは、あまり見ない。
でも本人がそう言うなら、ちっぽけな好奇心でこれ以上は踏み込まない。
僕はスマホを取り出し、適当にスクロール。無言の気まずさを回避する最適解。
学校の非公開フリマグループでは、先輩たちが参考書やノートを出品している。
たまにスニーカーやキーボード、化粧ポーチみたいな関係ない物も。
数ページ流して、いくつか妙な“買います”投稿に目が止まる。
『歴代バスケ部の大会ユニ買い取ります 価格相談可』
――験担ぎ? 戦衣加護は信じない派。
『三年一組・白瑾芸に告白します! 愛してる!!』
――誰だ。てかフリマで告白、消されないの?
『昨年度・羽樹国中の卒業アルバム、求む』
――うちの後棟が国中部だし、需要はあるか。指定は去年=今の高一世代。買いそびれた口だな。僕じゃない誰かの後悔。
手当てが終わると、彼女は僕の裾を下ろしてくれた。初対面でここまでやってくれるのは、初めてだ。
「ベッド……使って。具合、悪いんでしょ?」
「いや、急な低血糖で来ただけ。戻れば、もう水泳も終わってる頃だし。」
「今日みたいな気候なら、水泳、気持ちよさそうだけど。」
「えっと……」王郁靜は指をいじりながら、はにかむ。「水着、買う余裕がなくて。」
罪悪感が刺す。さっきまで“サボりかな”とか疑ってごめん。
彼女は丸椅子に腰かけ、ポケットから白い小チューブを取り出す。歯磨き粉サイズの何かを少量手に取り、塗ると、淡い香りが広がる。
僕の視線に気づいたのか、微笑んで言う。
「ハンドクリーム。デパートの試供品、よく配ってるでしょ。しばらく置いておくと、またくれるの。ノートもね、頑張ってゴミ箱を探せば……」
もうやめて。泣きそうだ。
家の事情はそれぞれ。僕は評価しない。彼女にとっては、生きるための手段。
手を拭き終えると、彼女は本とノートを手に、もう一度笑う。
「ここのベッド、すごく気持ちいいよ。タイルの硬さが背中に来ないから。」
「あ……」引き留める間もなく、彼女は保健室を出ていった。
……もしかして、貴重な“お楽しみ”を奪った?
保健室のベッドが家のより快適? どうやってこれまで耐えてきたんだ。
横目でベッドを見て、さっきの言葉を思い出す。
――ちょっと、横になるだけ。
保健室のベッドがそんなに……信じない。
……で、身体がやわらかな布に沈み、羊水に還ったかのような包まれ感(羊水の記憶はないけど)。
学校で堂々と横になる背徳感のせいか、これは本当に……気持ちいい……目を閉じたら、そのまま……
――寝た。僕は、寝てしまった。




