1-7 異香の彼女
僕はカバンを肩にかけたまま葉子薫の横を通り抜け、徐亞鈞の席の前に立った。
「最初の前提が間違ってたんだ。」
「どういうこと?」
葉子薫は興味津々で後ろにつく。
僕は彼女には答えず、カバンから透明な小瓶を何本か取り出し、そのうちの一本のフタを回して開けた。
「この匂い……」
葉子薫が鼻先をわずかに動かし、言葉を詰まらせる。
僕は身をかがめ、斜めから光を当てる角度で机の木目をざっと観察し、瓶の透明な液体を少量フタに移してから、机の左上へぱらりと垂らし、綿棒でのばした。
ほどなくして、机の上にうっすら青紫の数字が浮かび上がる。
――8、9、12、13……。
この下にも続いていそうだが、そこまでやるつもりはない。
「なんで……? どうやって出すの?」
葉子薫が背伸びして視界に割り込んでくる。僕は眉をひそめ、軽く退かした。
説明するより見せた方が早い。
僕は残りの瓶も開け、隣の呂彥凱の机で実演する。
一本目で小さく塗り広げ、二本目で「XD」と書き、三本目でその「XD」を拭い去る。
「……消えた?」
彼女は今度は邪魔をせず、独り言のようにつぶやく。
最初と同じように、一番最初の瓶の液を、いま“文字が消えた”場所に垂らす。
「また出た!?」
疑問というより、“面白いものを見つけた”表情だ。
「この褐色の液はヨウ素液。中のヨウ素は、発泡錠で作ったビタミンC水溶液(=アスコルビン酸)に出会うと――」
と僕が落ち着いて口を開いたところで、彼女がテーブルに手をつき、身を乗り出してくる。
「還元されてヨウ化物イオンになって無色化、だから二原子ヨウ素の色が消える、で合ってる?」
……そうだった。彼女は学年トップ系。化学Ⅰレベルとはいえ、もう先生に返却済みの人が多い内容だ。
「じゃあ、この最初の瓶、ただの水じゃない。過酸化水素(双氧水)でしょ?」
彼女は一本目を指さす。
「最初は消毒液の匂いかと思ったけど、違った。」
――徐亞鈞に傷はない。消毒液の匂いがするはずがない。
「なるほど……ヨウ化物イオンは無色だけど、酸性下で過酸化水素を加えると再び二原子ヨウ素に酸化されて可視化。
でも、なんで青紫? じゃあ最初に塗った“水”は……」
長々説明する手間は省けた。
「そう、“デンプン試薬”だよ。ヨウ素とデンプンの呈色反応。木の机は隙間が多くて、ヨウ素液だけだと染み込みで発色が弱くなる。先にデンプン液を塗れば、木の地の褐色に紛れにくい青紫がはっきり出る。」
まとめると――
最初にデンプン液→その上にヨウ素液で青紫に可視化→ビタミンCでヨウ素を還元して無色のヨウ化物イオン=“透明化”→最後に過酸化水素で再酸化=最初に書いた文字が“再び見える”。
彼女は黙った。ここまでで十分だろう。
片付けに移ろうとしたところで、葉子薫がもう一つ。
「ちょっと待って。じゃあ“香り”は? それじゃ、彼女の体から時々香りがする理由にならないよね?」
あ。忘れてた。
教室後方のゴミ箱から、さっき捨てられたウェットティッシュを拾い上げ、彼女の前で軽く振る。
「さっき徐亞鈞が使ってたウェットティッシュ。嗅いでみる?」
僕も鼻先を近づける。――今日は花の香りだ。
葉子薫は反射的に半歩下がり、僕とティッシュを交互に見る。
僕はお構いなしに続ける。
「市販のウェットティッシュは香料入りが多い。たぶんそれ。
ヨウ素で可視化 → それをウェットティッシュで拭き取る。木に多少は染みるけど、どうせ机は近々入れ替えだし、この程度は気にしない。――僕の机の“スマイル”も、まだ残ってるしね。」
その時、彼女の目の意味が分かった。
……今、僕、女子の使用済みティッシュをゴミ箱から拾って、鼻を近づけて嗅いだな?
好感度が数値化される世界なら、ゼロまで落ちてる。
その蔑みの視線がすべてを物語っていた。
「他に質問は?」
平然を装って、ティッシュをゴミ箱に戻す。
「この“数字”は、何を表してるの?」
机の数字を見返し、彼女の眉間にしわが寄る。
「よく考えれば分かる――」
その時、ドアが開き、青ざめた徐亞鈞が現れた。
「な、なに……何してるの?」
「「あ。」」
まさか戻ってくるとは。
……いや、戻る可能性は考えてた。だから急いで片付けたんだけど。
「亞鈞……」
葉子薫がそっと僕の脇へ寄り、肘で小突く。
――僕が言うの?
徐亞鈞が近づいてくる。さっきの“仕掛け”を解かれたことは、もう分かっている顔だ。
言うべきか……言わざるべきか……
「徐亞鈞、その……ときどき君の席から“消毒液っぽい匂い”がして、気になってさ。だから葉子薫を巻き込んで、手掛かりを探してた。」
嘘……ではあるが、半分は事実だ。
「そ、そう……なの?」
――え、信じた?
「ごめん、机を汚しちゃった。僕がちゃんと拭く。」
「じゃ、じゃあ……分かったの?」
驚きというより、怯え。僕の仮説は、これで確かになった。
「うん。この数字が何か。」
片方には好奇心いっぱいの葉子薫。
もう片方には、震える徐亞鈞。
僕はゆっくり告げる。
「これ、漫画の“ページ”だよね。君が読書会で言ってた、あの漫画――落ち込んだ時に勇気をくれる台詞や場面が載ってるページ番号。」
徐亞鈞を見据える。
「だよね?」
「え~~、そうなの?」
視線が彼女へ集まる。
徐亞鈞は目をそらし、恥ずかしそうに小さく頷いた。耳まで真っ赤で、今にも泣き出しそう。
「普段は内向きで陰のある彼女が、ときどきそういう言葉に支えられて、日々をやり過ごす。――この件は、今日限りの秘密で。忘れよう。」
早くこの場を離れたい。
「亞鈞……辛い時は、私も一緒に背負うよ。」
葉子薫は、まだ動揺の残る徐亞鈞をやさしく抱きしめる。青春、友情、尊い、の図。
この調子だと、二人は少し残るだろう。
僕はその隙にカバンを背負い、教室を出た。
――ごめん、葉子薫。さっきのは嘘だ。
覚えてる? あの日、戴安が答案を配った時に言ってたよね――「徐亞鈞は最近伸びてる」って。
それに、君自身が言ってた――問い直すと彼女は「分からない」って言うのに、答えは合っている、と。
『最近成績が上がると、お母さんからお小遣いが増える……』
徐亞鈞が机に“透明インク”で書いていたのは、自己鼓舞の名場面じゃない。
――戴安指定の国語小テスト「出題範囲のページ」だ。
カバンから教科書を出して照合する。
さっき浮き出た数字は、どれも指定ページ。
ファストフード店でも、彼女は“数字で思い出す”芸当を見せた。
『数字を見たり聞いたりすると、中身を思い出せる……』
写真を見れば、その時の記憶が蘇る。図形から内容を連想することもある。
数字による連想記憶は理論上も実例上もアリだ。
行きつけの店で、席番号が「101」「102」「203」「307」……と決まっていれば、店員でなくても、座り慣れた番号を見ただけで店の情景が浮かぶ――そんな感じ。
放課後も教室に残っていたのは、“透明インク”を仕込むため。
明日の国語小テストの本番で、タイミングよく過酸化水素で可視化して答えを引き出す。
連想記憶が強いなら、数字を見ただけで該当ページの内容が呼び出せる。
仮に“透明インク”が見つかっても、「出題範囲のページ番号」とは誰も思うまい。
――こうして彼女は点を伸ばし、母からお小遣いを得る。
これが顛末の“ほんとう”。
僕は、この真相を葉子薫に言えない。
彼女を信じていないからじゃない。
ただ……
そう、僕は徐亞鈞に報復されるのが怖い。
僕のNPCライフが壊れる。彼女がどうなるかなんて、関係ない。
――うん、それでいい。
階段を降りながら、自分に言い聞かせた。




