1-6 異香の彼女
朝七時十五分に教室へ入り、朝の自習が終わったら購買部へ――余計な会話はなし。
今日も「脇役行動規範」を完璧に遵守できた一日……になるはずだった。
午後、最後の授業が終わるまでは完璧だった。
うちのクラスの体育は、週のうち一コマがいちばん最後の時間に入っている。
多くはそのままカバンを持って体育へ向かうが、僕は外に置いて汚れるのが嫌で、教室に置いていくタイプだ。
最近、徐亞鈞も偶然同じタイプだと気づいた。
彼女は運動後に汗だく、顔面蒼白になる。自席でティッシュで額と首の汗を拭き、それからウェットティッシュでもう一度拭く。
今日も同じ。僕が教室へ戻ると、彼女は拭き終わり、使った紙をゴミ箱に捨て、涼しい顔で去っていった。
自分の席に戻ったとき、馴染みの香りに振り向くと――葉子薫が、いつの間にか目の前に立っていた。
「携帯、忘れてたから。」
わざわざ僕に説明するみたいに言って、彼女は自分の席へ戻る。
あの日、僕が「人との距離が近いのは苦手」と言ったせいか、読書会以降、彼女は一切僕に話しかけてこなかった。
冷淡? それとも無視? 区別の仕方が分からない。
温苡蓉とのやり取りを思い出して、僕は自分が“人付き合いそのもの”を嫌っているわけではないと気づく。
正確には、それが嫌なのではない。
あの件がなければ、この心の正体に気づけなかっただろう。
僕は、きちんと彼女から“報酬”を受け取っている。
今、葉子薫は目の前にいて、周りには誰もいない。
もし言うべきことがあるなら――今しかない。
勇気を振り絞り、声を出す。
「さっきの言葉、訂正したい。」
彼女が首を傾げて顔を上げた瞬間、僕は自分が支離滅裂だと悟る。
言い換える――「その、“人との距離が近いのが苦手”って話、僕の認知の誤りに基づく、偽りの発言だった。」
彼女は凛として立ち、笑わず、他の表情も見せず、ただ静かに僕を見つめる“聞き手”になった。
「中学の頃の僕は、場を盛り上げるのが得意で、みんなが腹抱えて笑うようなことばかりしてた。どこへ行くにも僕が誘われた。自分は人気者だって思ってた。」
みんなの笑顔を、僕は“僕自身が好かれている証拠”だと受け取っていた。
「二年の時、いつも距離の近かった女子に告白した。振られたら次、また次――みんなダメ。もちろん辛かったけど、今思えば、恋に憧れすぎて乱射してただけかもしれない。相手をちゃんと好きでもなかったのかも。なら、相手に恋心がなくても当然だ。」
それでも、告白に敗れるたび、泣いて夜を明かした。
「ある時、皆で“嫌いな先生にイタズラしよう”って相談になって、僕が“実行役”に押し出された。先生の水筒の水を、鼻を刺す酢にすり替えた。
先生は犯人が掴めず、個別に事情聴取。クラス全員を一巡しても情報が出ないと、二巡、三巡……何週間も続いた。」
“誰も売らない”と皆で決めていた。もうすぐ先生も忘れる――そう思っていた。
「『李奧辛だ』――先生は、誰かが僕の名を挙げたと言った。僕が否認しても無駄で、審問の巡回が進むほど、僕の名が頻出するようになった。
ついに先生は『犯人は君だ』と断言し、罰を受けろと言った。」
罰そのものは構わなかった。やったのは事実だ。
疑いようもない。
「でも、その瞬間、僕はやっと見えた。みんなが本当に集まっていたのは“主役”の周りで、僕はただの“盛り上げ用の脇役”。僕がどうなろうと、誰も気にしていなかった。」
語り終え、沈黙。
長い沈思ののち、葉子薫が口を開く。
「あなたが嫌うのは、“与えたのに、心からは扱われない”こと、なのね?」
嫌な記憶に心が波立ち、彼女の言葉をうまく咀嚼できない。
「脇役がどれだけ頑張っても、誰も本当に好きになってくれない。」
だから僕は、繋がりを切って、妄想をその場に置き去りにする。
「人の心は試されることに耐えられないかもしれない。試すたびに代償が要る。
でも、一度の挫折で自分を信じなくなったら、その弱いあなたを、他人はもっと好きになれない。」
葉子薫の言葉は鋭い。彼女が言うとは思っていなかった。
図星を刺され、僕は何も返せない。僕は逃げて、逃げて、そして居心地に甘えてきた。
嫌いなのは、人付き合いじゃない。
期待が砕ける、その刹那だ。
「すべての“与える”に、見返りがあるわけじゃない。」
彼女はいつもの微笑を浮かべ、自分の引き出しから白い封筒に入った小カードを取り出し、僕へ差し出す。表には「To:李奧辛」。
受け取って開く。端正な文字で、こう書かれていた――
「このような形でお礼を伝える非礼をお許しください。
あの日、あなたがくれたパンと牛乳――それがあなたの朝食だと知っていました。
それを口にしなかったのは、あなたの心を踏みにじりたくなかったから。でも、ずっと覚えています。
私にとって、あなたは自分が空腹でも、見返りなく他人を気遣える人です。
そんなあなたがクラスメイトであることを嬉しく思います。
もし可能なら、私はそんなあなたと友だちになりたい。
――葉子薫」
頭が真っ白になって、言葉が出ない。
「もし“人との接触が苦手”って性格なら、私はそれを尊重して、気軽には話しかけないつもりだったの。」
そう言って彼女は手を上げ、首の後ろでヘアゴムを解く。
ポニーテールが指の間からほろりとほどけ、髪先が二度揺れて、斜陽は舞う毛先に小さな光の粒を残した。
「だからせめて、このカードで気持ちを伝えようと思って。……でも、今となっては蛇足だったみたいね?」
彼女は“携帯を忘れた”と装っただけ。口実だ。
手を伸ばしてカードを取り戻そうとするが、僕は背に隠す。彼女は小さく笑って、すぐ手を引っ込めた。
「どうして今まで見せなかったの?」
「“あなたがどんな人か”を、勝手に決めつけるのは失礼だと思ったの。
お礼を伝えるだけでも、もっとふさわしいやり方があるはず。
だから――あなたの“ほんとうの理由”を聞いてから、決めたかったの。」
彼女は軽く机に身を預けるが、腰は下ろさない。
僕の一言で、ここまで考えていたなんて知らなかった。
この感情をうまく言葉にできない。
ただ、激しい思考が暴風雨のように体内を駆け巡り、目が回る。
「ありがとう。そう思ってくれるだけで、すごく嬉しい。」
ここまで言われたなら、ぞんざいに終わらせるのは失礼だ。
彼女の心に応えるため、ちゃんと答える。
「僕は君を“今後も交流できる友だち”だと判断する。ただし、現時点では――君だけ。」
僕はまだ怖い。
心の片隅の弱さが、他人を簡単には信じさせてくれない。
「私だけ?」
葉子薫の表情にいたずらっぽさが宿り、微かな揺れで瞳に紅の光が走る。
「うん。“普通”の友だちとして、ね。」強調しておく。
「もう二人、友だちがいるんじゃなかった? 呂彥凱と……陳宏寬?」
“ぼっち”回避のための表面上の友人。二人には失礼だが、いつか本当に距離を縮めたいとは思っている。
「いや……踏み込めるのは、今のところ君だけ。」
君にだけ、過去を話したから。
しまった、考えてから喋れ。
「おお~、ふむ、ふむ、ふむ。」
得意顔で僕を眺めるのをやめてほしい。弱点を握られた人質の気分だ。
「先に言っておくけど、僕は君を“友だち”としか見てないから。」
話は逸れたが、不要な誤解は未然に断つ。曖昧さを刈り取るのも、脇役生存術の要点だ。
「分かってるわ。」当然のように頷く。「はいはい、事情は理解。
もし“無理だ”と思う相手なら、私が間に入って繋がりを切る。
でも、私と同じように“信じられる相手”が見つかったら教えて。私が橋渡しする。いい?」
彼女の一語一句には、ちょうどいい温度の笑み。社交辞令には聞こえない。
――これが、僕が「この人は深く付き合える」と認めた後に作動する“絶対信頼”ってやつか?
「君の言葉を信じる。君はイレギュラーだけど、僕はこれからも『脇役行動規範』で生きたい。」
「脇役行動規範?」
頭がぼんやりして、説明の面倒な単語を口走ってしまった。
「要するに座右の銘。たとえば――七時十五分に教室、朝自習後に購買部、放課後は人が半分になってから帰る、主人公に好意のある女子とは深入りしない、無用な争いは避ける・小事では怒らない・大事でも殴らない。」
「ふふ。」――僕の生存規範を笑ったな!?
「面白いじゃない。で、その“主人公”って……辰澤のこと?」
「そう。だから本来、君は避ける対象だった。」平常心に戻って、淡々と答える。
「そっか~。私は例外、ね?」
彼女は隠そうともせず、くすりと笑う。
「例外は一人で十分。……それと、用がなければ話しかけないで。僕は――脆いから。」
「でも、私があなたに“本気”で向き合うなら、あなたも相応の態度を見せるべきじゃない?」
彼女がふたたび、まっすぐ見つめる。
「“本気”は、見返りを求めない。」
「ええ……」
「冗談。もし本当に困りごとがあるなら、僕は――」
自衛のため、言い換える。
「状況を見て、手伝う。」
その瞬間、彼女はようやく“正体”を現した。
口角が上がるその笑みは背筋が寒くなる種類のもの。――ああ、承諾するんじゃなかった!
「この前の件だよ。亞鈞の“好きな人”が誰か、って件。」
“用がなければ来るな”って言ったよね?
選択的健忘症かな?
……でも、この件なら、もう見当はついている。
僕自身、今日、席で実験してみたから。
「僕の読みが正しければ――徐亞鈞の好きな相手は、やっぱり沈辰澤だ。」
「じゃあ、“香り”はどう説明するの?」
彼女の言う“香り”――好きな人の前では、自分をよく見せたい。そこには“匂い”も含まれる。
学校では時々いい香りのする彼女が、より近づける勉強会では、なぜかその香りがなかった。
だから、彼女は“ほんとに辰澤が好き?”と疑っている。
「分かった。もう少し分かりやすく説明するよ。」
台湾の高校では、次のような流れが一例として見られます(学校や学年によって違いがあります)。
07:10–07:30 登校
07:30–07:50 早自習(静かな自習・連絡)
08:10–09:00 第1時限
09:10–10:00 第2時限
10:10–11:00 第3時限
11:10–12:00 第4時限
12:00–13:20 昼休み(午休)
13:30–14:20 第5時限
14:30–15:20 第6時限
15:30–16:20 第7時限
16:30–17:20 第8時限(=「第八節」/補習・選択・自習など)
※第八節がない日は第7時限で下校。第八節がある日は17時前後まで在校することがあります。放課後に社團活動(クラブ活動)を行う学校もあります。




