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1-5 異香の彼女

 階段に上がる前に、さっきの話題を深掘りすることは互いにしなかった。


 席へ戻ると、徐亞鈞シュー・ヤージュンは――食べ物のためだけに――ようやく腰をずらして、僕の分のスペースを空けてくれた。現金なやつだ。


 料理を待つあいだに、どうやらみんなはすでに雑談を進めていたらしい。


「さっきはみんなの趣味の話をしてたんだ。」

 優しい沈辰澤シェン・チェンザーが、僕らを話題に招き入れるように説明する。

苡蓉イーロンは中国文学と将棋、それにお茶。慈軒ツーシュエンはバイオリン。僕は……漫画かな。」


「わ、私も漫画好き! と、特に『黒髪の妖狐が離してくれない』の、妖狐の彼がヒロインの自信がなくなった時に言ってくれる励ましの台詞がす、す……すごく元気をくれて……その場面を何度も読み返して勇気を……さいきん成績が上がるとお小遣いが増えるから、漫画いっぱい買ってて、よ、よかったら貸す、ね?」


 徐亞鈞の早口を聞いていると、自分も息をするのを忘れそうになる。

 学校に「息止め選手権」があれば、三連覇だろう。


「僕は読んでないけど、刺さる作品ってあるよね。」

 沈辰澤がやわらかく着地させる。

「で、子薫ズーシンは? 自己紹介では“新しいもの全般”って言ってたけど、特に好きなものは?」


「私? うーん……」

 葉子薫はうつむいて考え、郭慈軒でさえ興味で耳を寄せる。


 待ち時間が長いので、僕はフライドポテトを一本つまんで口に放り込んだ。


 その時、彼女はぱちりと目を開いて言った。

「口を割らない“隠れた秘密”を、根こそぎ掘り出す感覚が好き。」


「げほっ、げほっ——」


「大丈夫、オーシン? はい、ティッシュ。」

 沈辰澤、ほんと優しい。青春ラブコメの主人公に認定、再び。


「ごめん……ポテト、塩が効きすぎてむせただけ。」


 間違いなくワザとだ、葉子薫。二百ドル賭けてもいい。


「で、君は? オーシン。」

 彼女は勝手にバトンを渡してきた。不意打ちだ。


「え?」


「君の趣味は?」

 逃がす気ゼロ。


 みんなが黙々と食べ続ける様子から、僕の趣味には一ミリも興味がないのが分かる。

 ……まあ、それでいい。笑われずに済む。


「変な本を読むのが好き。」


「……は?」

 隣の温苡蓉ウェン・イーロンが、ゴミを見るような斜めの目を向けてきた。


「オーシン、その“変な”って、まさか……?」

 沈辰澤も、微笑みつつ眉が寄る。


 何がダメなんだ。変な本も本だろう。


 いちばん遠い郭慈軒までが、軽蔑の視線をこちらへ。

「こんな場でそういう話をするなんて、吐き気がするわ。」


 正面の葉子薫を見る。説明してくれるのを期待して。

 彼女はコーラのストローで口を塞ぎ、喋る気がない。


 ……誤解だな。


「マイナーな知識本とか、絵画や風景の鑑賞本のこと。」


 真面目に丁寧に説明してみせたが、みんなの笑顔は――信用してない、の顔。


 了解。今後、“変な本”は封印だ。


「さて、『吾欲之南海』の『之』だけは他の三つと異なり、『〜へ(往・到)』の意。つまり『私は南海へ行きたい』。

 他の選択肢の『之』は代名詞。こういう設問は、上下の文脈で判断するのが肝要。時間がなくても、ある程度は整った文の訳を読み込んで、同型の問題に当たった時の拠り所を作っておくべき。少なくとも、闇雲な当てずっぽうよりはずっと良い。」


 食べ終わると、葉子薫がテストの解き直しをリードする。

 国語の点なら温苡蓉も高いが、「教える」のは葉子薫の方が上手い。


 温苡蓉が教えると――分からない問題を、分からない言葉で説明してくるからだ。


「『非淡泊無以明志、非寧静無以致遠。』――意味は? 徐亞鈞、どうぞ。」


「えっと……わ、わからない。」

 皆の前で話すのを避けるためなら、知らないフリも辞さない。陰キャの鑑。


「さっきのも『分からない』って言ってたよね? でも答えは合ってる。まさか、全部勘?」


 葉子薫にメガネがあったら、キィンと音を立てて押し上げ、手には教鞭――間違えたらピシーッ、まで見えた。


 恐ろしい光景を想像して、思わず身震いした僕を、沈辰澤は勘違いした。


「オーシン、寒い? 上着、貸そうか。」


 慌てて手を振ったが、差し出された上着は止まらない。


「ち、ちょっと寒いかも。」


「じゃ、貸してあげる。風邪ひかないように。」


 沈辰澤の上着を羽織って幸せそうな徐亞鈞――

 その顔を見た女子陣の視線で、この戦場の非情さを悟る。


 フランクリン効果曰く、人は“自分が助けた相手”をより好ましく感じる。

 はい、徐亞鈞、一点先取。諸君、健闘を祈る。


「ぼーっとしない、李奧辛。今やった問題、君も間違ってたからね! じゃあ記述三問目、『也』四つの用法を説明して。」


 ……理不尽に八つ当たりされてる気がするのは、僕だけ?


 西日に合わせて、僕の腹の中も『之乎者也』で満杯になっていく。

 そろそろ切り上げを――と思った時、葉子薫のスマホが鳴った。


 彼女はわざわざ離れ、聞こえない場所で応対。重要な電話らしい。


 ほどなくして、勉強会はお開き――彼女はバッグを手に、店を出る。


「気をつけて、子薫。」沈辰澤が優しく。

「うん、みんなも。質問はグループでね。」


 完璧であればあるほど、ほころびは目立つ。

 あの一本の電話が、彼女の感情を荒波のように揺らした。


「……あれ、葉子薫じゃない?」


 徐亞鈞の視線につられて窓の外を見ると、階段を降りた彼女が、さっき店先に停まった黒いセダンに乗り込むところだった。


 口に出さなくても分かる。――高級車だ。


「そんなにお金持ちなの?」温苡蓉。

「子薫、いつも自転車でしょ? 今日は自転車どうしたの?」

「きょ、今日はMRTで来た……みたい。」


 ここは駅のすぐそば。MRTで来るのは理屈は通る。

 ――いや、元々誰かに迎えられる段取りで、だからMRTだったのか?


 考えたって仕方がない。いや、知らない方がいいこともある。


 主催者がいなくなれば、気力も意欲も尽きるのは自然の流れ。


「せっかく来たし、私は一人で近くをぶらつくわ。運転手との約束の時間、まだ先だし。」

 そう言って郭慈軒は颯爽と去った。


 彼女のしかめ面は、葉子薫が乗せられていくのを見てから、さらに三割増し。

 学校でもろくに話さないはずなのに――まさか水面下で因縁でも?


 他人事にこんなに頭を使う自分が嫌になる。


 沈辰澤は自転車で去り、徐亞鈞は横断歩道を渡ってバス停へ。

 僕も自転車を取りに――と思ったところで、温苡蓉に腕を掴まれ――いや、小路へ引きずり込まれた!


「ちょっと来て。」

「な、なに……ちょ、強く引っ張らないで!」


 路地とはいえ、人はちらほらいる。

 もし僕が沈辰澤なら、告白フラグに怯えるところだ。

 残念、僕には自覚がある。僕は脇役だ。


 温苡蓉は身をもじもじさせ、手を背に組み、唇の横に夕焼け色の朱を差して見上げてくる。

 教科書通りの甘酸っぱい空気が、二人の間に結界を張る。

 誰かが告白しない限り終わらない、夜のラブコメ――


 ついに、口を開いた。


「嗚呼哀哉(ああ、哀れなり)。」

「人間語で。」

「この前の件、同じ本、ネットで見つからない。」


 ……と彼女が言い、僕は長めにフリーズ。さて、どの件だっけ。

 交流は多くない。記憶フォルダをめくれば――すぐ出た。


「サイダー、こぼした件?」

「件はそう、でもそうじゃない!」

 怒って足踏み。嫌なら最初から校則破るなよ……。


 つまり――僕の提案、“同じ新品を買ってすり替える作戦”。

 ネットで見つからないなら、かなり古い本だ。


「古本屋、あたってみたら?」

「もし無かったら? 明日が返却日なの……」

 足踏みは止まり、彼女は力なくしゃがみ込んだ。


 ……それは、まずい。

 返却後、すぐ同じ本を借り直すのは規則上できない。

 その間に汚れが発覚し、履歴を照会されたら――詰み。


「『家で借りてから汚れに気づきました』って、先生に言うのは?」


 口が滑った。……教唆は罪、僕は事なかれ主義だ。言った以上、無関係ではいられない。


 他の友達に頼め? いや、彼女はこれ以上、他人に知られたくないはず。


 なら、もう手は一つ。


「手分けして探そう。君はこの辺、僕は家の近く。見つけたらメッセージ。」

 自業自得の面倒ごとに、自分でため息。


「この言、蓉、かねてより待ちたり!」


 温苡蓉は自販機でサイダーを一本買って、報酬だと僕に手渡し、上機嫌で去った。

 僕も自転車で家方面へ。


 ――手がかりゼロの昔の本を探すとか、正気の沙汰じゃない。一日潰しても見つからないかも。


 帰宅してシャワー。机で図書館の本を読み直す。


 ……

 悪いのは彼女だ。図書館で飲み物なんて。

 そうだ、僕の責任じゃない。


 玄関の開く音。母が帰ってきた。

「オーシン~ 自転車のカゴにサイダーがあったから、冷蔵庫に入れといたよ~」


 ……

 僕の責任じゃ――ない。……


 午後五時きっかり。服を着直し、自転車にまたがる。

 目標は、古本屋。


 温苡蓉のためじゃない。報酬はもう受け取った。次からは先払いは断ろう。今回は運が悪かっただけ。

 それに――もし彼女が図書委員を外されたら、あの魅惑の「管理棚」を開けてもらえなくなる。


 これが利害の一致ってやつ。


 探し物は『妻なら必ず覚えるべき百の料理!!』。

 ――今どきのタイトルか? もはや台所に立つ夫の方が多い時代かもしれないのに。


「その本は、ないですね。」

 レジの女性から、無情な宣告。


 検索端末がある古本屋ならまだしも、多くは自力で本の海をかき分けるしかない。

 二、三軒回った頃には、心が折れかけていた。


 ネットで他の店を調べると、どこも遠い。

 サイダー一本の報酬じゃ、割に合わない……。


 さっき浴びたシャワーは、汗ですっかり無に帰した。

 僕の人生は、後悔でできている。


 シャッターが降りているのを見て、ようやく気づく。もう夜十時過ぎ。店はどこも閉店。


 シャッターを叩くと、老人がゆっくり開けてくれた。

「もう閉めたよ。」


 どう頼み込んだのか覚えていない。

 息を切らしながら店内に入り――見つけた。『妻なら必ず覚えるべき百の料理!!』。

 なぜだろう、“変な本”を見つける時より胸が高鳴った。


 温苡蓉からは音沙汰なし。まだ諦めず探しているのだろう――そう思ってメッセージを送り、彼女が疲弊して泣きそうになったタイミングで、このサプライズを届け、人情ポイントを荒稼ぎする計画だったのに。


『もうとっくに諦めた』

 八文字が、僕の幻想を粉砕した。


 温苡蓉の家は路地の古い二階建て。

 白いランニングに青白スリッパで出てきた姿に、六〇年代の庶民が女子高生に憑依してるのかと疑った。


 前置きなしで、本を差し出す。

 彼女は一瞬フリーズし、そっと受け取って胸に抱く。


 普段は奇人めいた彼女だが、脚を揃え、深くお辞儀をしたその一礼を見て――今日の奔走も、無駄じゃなかったと思えた。


「ありがとう。」

 夜更けゆえの小さな声。嬉しそうに本を抱え、サイダーをもう一本くれた。


 よし、報酬は二本に増えた。


「でも、どうして明日じゃダメだったの? 明日、欠席でもするの?」

「……誰かに見られたら、君の“所業”が露見するかもって。確率は低いけど、ゼロじゃない。」

 言い訳を捻り出すのは、いつだって頭が痛い。


「ごめん。読書会の感想レポートもあって、探し続けるの無理で……この恩、蓉、心に刻む。」


 読書会から何も食べていない上、夜通しの肉体労働で、僕の腹が派手に鳴った。

 この路地を一人で歩いていたら、驚きで倒れるレベルの轟音。


「ご飯、食べてないの?」

「えっと……まあ、そう。」


 彼女は眉を寄せ、うつむく。自分のせいで僕が空腹だと気に病んでいるのだろう。


 決意を固めるように顔を上げ――月光が彼女の瞳に波紋を描く。

 握った拳の行き場がなく、唇までせり上がっては、言葉にならずに戻っていく。


 まさか……これは……。


「これ、どうぞ。――また明日。」


 ……うん、だよね。僕の想像どおり。

 彼女は、サイダーをもう一本くれた。

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