4-8 匿名ラブレター(前編)
「でも、君は本当に彼らを見逃すつもり? 罰したいとは思わない? ほんの少しでも、同じ痛みを味わわせたいって気持ちはないの?」
正直に言えば、罰したいのは俺のほうだ。けれど今の俺は、相手が一人なのか十人なのかさえ分からない。
「ごめんなさい……」葉子薰は身体を丸め、いっそう弱々しく見えた。「本当は、相応の罰を受けてほしい。できるなら、同じ痛みを感じてほしいって……」
彼女はまたすすり泣き、怨むように俺を見上げた。「どうしてそんなこと、言わせるの……? それだけは、あなたに知られたくなかったのに」
「もし今の質問に『罰してほしくない』って答えていたら、君は作り物めいて見えただろう。けど、正直に胸の内を出した。その“選択”は、どんな本音よりも価値がある」
「試してるの、わたしを……?」
「嫌われるかもしれないのは分かってる。それでも確かめたい。君が、俺が何もかも賭けるに値する人かどうか」
試すたびに代償は払うことになる。今この一歩で、目の前の彼女に嫌悪を抱かせるかもしれない。
だが、遠回しの探りはもう終わりだ。嫌われても構わない。俺は必要な情報を得られれば、それでいい。
「違うよ」葉子薰は首を横に振り、視線を柔らげた。「嫌われるかもしれないのに、そう“選ぶ”。その選択は、他の何よりも尊い。しかも、あなたの出発点がわたしのためだって分かってる。ありがとう」
「誰かに、君は『ありがとう』を言いすぎだって言われたことは?」
「人はいつも“感じ”だけで分かり合えるわけじゃない。だから、心の内を言葉にするのは大事だと思うの。悪いと思えば素直に『ごめんなさい』。助けられたと思えば、こうして――」葉子薰はふっと笑い、「『ありがとう』って」
掃き出し窓から射す光が、その笑みに陰影を与え、俺の鼓動が一拍抜けた。
彼女が“知らない”と言ってまで庇うなら、俺も彼女の意志に逆らって犯人探しを強行すべきじゃないのだろう。
俺にできることは限られている。だが、一つだけ、やるべきことがある。
葉子薰の件は、おそらく匿名の手紙と同じ勢いで校内に広まっている。――期日になっても、当人は現れないかもしれない。
そうなれば、時間が過ぎても彼女の状況は変わらない。
「匿名の手紙を書いた人間は見つける。少なくとも、それで君が『書いた張本人』だなんて誤解は解ける」
「奧辛、悪いのは、手紙を書いた人じゃない」
「分かってる」俺は眉間に皺を寄せる。「これは俺の好奇心の問題だ。君のためじゃない」
葉子薰は、長く黙った。
もちろん、誰も傷つけたくない彼女には、俺を止める理由がある。だが、俺を止める権利はない。
「奧辛」彼女は白いコットンの布団を握り、寄った皺が手元に集まる。
「どうした」
短い逡巡ののち、深く息をしてから言葉を整えた。「裏切りに遭うと、人を信じられなくなるのは分かる。でもね、人を信じられないって、とても辛い。――すごく、もったいないことだと思う」
「俺、何かしたか?」
「わ、わたしは……違うの。ごめんなさい」
「誤解するな。責めてない。ただ、君はきっと、まだ“それ”を通っていない。だから感じ方が違うだけだ」
「確かにね。わたし、『裏切られる』ってことを経験してない。あなたの気持ち、分かってない」
彼女はしょんぼりして、それでも慰めようとする目をしていた。けれど俺は、自分の過去を背負わせたくない。彼女が俺のせいで何かを変えるのも望まない。だから、必要がないなら話すつもりはなかった。
壁の時計を見る。もう三十分が過ぎている。
「そろそろ戻る。皆、まだ門の前で待ってるはずだ」
「どうして早く言わないの。急いで――」身を起こそうとする彼女の肩を押さえる。「病人は、おとなしく横になる」
立ち上がり、扉へ向かう。前と同じく、俺は振り返らず、彼女も引きとめない。
だが、抑えていた感情の栓が外れたように、声が追ってきた。
「あなたはいつも“いい人”でいようとするのに、全部を一人で背負おうとする……不公平だよ! あなたが『助けて』って言えば、みんな、助けるのに――」
弱った喉で、それでも力いっぱい放たれた声が耳に残る。心が微かに揺れたのは嘘じゃない。
それでも俺は、扉を開けて出た。
外で待っていたのは、小蘭ではなかった。
「あなたを呼んで、正解だったわ」
葉子薰の母は、先ほどより薄手のコートを一枚羽織り、俺を一階のリビングへと導いた。
過剰な誇示はない。だが、どこもかしこも洗練が行き届いている。
壁に並ぶ名画に視線を滑らせ、やがて高所の彫刻入り木製シーリングファンで止まる。
高価な風でも、吹き心地は同じ風だ。
「あなたたち、仲がいいのね」
彼女はブランドロゴの入った紙袋を俺に渡す。中には、あのとき彼女に掛けた俺の制服シャツ。洗濯乾燥にアイロンまで済み、柔らかな香りがした。
やはり――彼女は、娘の肩に掛かっていたという事実から、持ち主との“親密さ”を推し量ったのだ。
この後は、学校での葉子薰について根掘り葉掘り、だろう。
「ただの、席が隣の“普通の同級生”です」彼女の物腰はだらしなく見えて、体に焼き付くほどの強い圧がある。
「手短に済ませましょう」彼女は手を差し伸べ、ネイルの塗られた人差し指で俺の顎を持ち上げた。「子薰を傷つけたのが誰かを突き止めて。――そして、わたしに知らせて。『李奧辛』くん」
アルコールと香水、基礎化粧の匂いが混じり、眩暈がする。
気づけば、ずしりと重い封筒が俺の手に押し込まれていた。
彼女の笑みで、中身は察せられる。
「でも……」開けずとも分かる。並の額ではない。
「さっき割れた花瓶ね……百二十万くらいかしら」彼女は余裕の微笑で、軽く、深く告げる。
承諾すれば、犯人を見つけてこの大金を受け取る。拒めば、到底払えない代償が待つ。
――俺は、ここへ来た瞬間から仕組まれていた。
まずは虚脱。次に、限りなく膨れ上がる怒り。
“裏切り”――いや、そもそも他人同士。罠というほどでもない。俺が自分の意志でここに来て、俺の手で花瓶を割ったのだから。
悪いのは、俺だ。
彼女は「償う機会」をくれた。称賛して受け入れるべきだ。
受け入れろ。俺には払えない額だ。
受け入れろ。
札束の入った封筒を掲げる手の先に、彼女が娘へ与えてきた“見えない重さ”が透ける。
「俺は、陳爺爺に会いました」
彼女は意味が分からない、とでも言うように眉を寄せた。
「あなたは、葉子薰を守るために、陳爺爺を訴えた。覚えていますね」
「危険だと判断した。合理的よ」彼女は微動だにしない。
「では、許美玉――許おばあさんが、なぜ亡くなったか」沈黙。俺は抑えた声で続ける。「実際の関係は知らない。でも、もしあなたが、葉子薰が二人を信頼していたのを知りながら、あの決断をしたのだとしたら――」
人のいない時間を、隣人の老夫婦が埋めていた。
孤独の感覚なら、俺が一番知っている。
心の拠り所を、彼女は奪った。
そのせいで、葉子薰が背負い続けている罪悪感を思うと――
「あなたの申し出は、お断りします!」
制御を外し、俺は封筒を宙へ放る。舞い出た札は、天井扇の風に煽られて炸裂した。
厚い紙幣が乱舞し、彼女の沈黙の輪郭をかすめ、冷ややかな大理石に散る。
「もし今回、葉子薰を傷つけた相手が、彼女にとって大事な人だったら――それでも、あなたは徹底的に叩き潰すんですか」
「そうよ。それがどうしたの?」落ちる札が、彼女の圧に叩きつけられるようで、息苦しい。
「なら、なおさらだ。俺は受けない。花瓶代は、必ず払う。だが――葉子薰を裏切るくらいなら、死んだほうがましだ!」
このままでは、また制御を失う。彼女が何か返す前に、俺は逃げるように外へ出た。
同じ石畳を抜けると、門は意外にも開いていた。
錆色の夕陽が景色を覆う。胸の中は、ただ一つの叫びで埋まる。
ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。
――絶対殺される! あの女は、俺を見逃さない。機会を見て殺して、山に埋める。誰も辿り着けないように。
そういう女に、見えた。
内側で感情を吐き出し、門を出る。
皆、まだ待っていた。
「どうだった、奧辛」沈辰澤が真っ先に歩み寄る。心配は、嘘じゃない。
俺は答えず、林千柚、溫苡蓉、徐亞鈞の前に立った。
『あなたはいつも“いい人”でいようとするのに、全部を一人で背負おうとする……不公平だよ!』
図星だから、耳に痛い。――そうだ、人を信じられないのは、確かに苦しい。
「ごめん」俺は深く頭を下げる。「さっき言った“深く関わるのが嫌だ”とか、“一緒にいると負担だ”とか、あれ――忘れてほしい。いや、嘘じゃないんだ。でも、本当はそうじゃなくて……」俺は何を言ってる?
俺の支離滅裂に、皆は短く固まる。――言い過ぎた。今さら謝っても遅い。無視されても仕方ない――
「奧辛」沈辰澤が呼ぶ。何だよ、今は真面目なんだぞ。
振り向いて睨みかけると、彼はサーサの缶を差し出した。
「喉、渇くだろ。俺たち、飲み物買いに行ったんだ。――“君の分も”ってさ」
俺の分、を?
あんなことを言った、後で?
「人非聖賢、孰能無過。たまの失言、理の通るところ。友ならば、広き胸で受けよ――ね?」誰の提案か知らないが、飲み物係は間違いなく溫苡蓉だ。
「ほら、あれ本心じゃないって思ってたし! 暑さでバグっただけ!」
「……わ、わたしは、その……たぶん機嫌が悪かっただけ、って……別に分かったふりじゃないよ、分かってないんだけど……えっと……もし、話したいなら、聞く……き、聞くから……」
徐亞鈞は地面の落ち葉に向かって独り言のように震えている。
――こんな簡単に、解けるのか? 甘すぎないか?
いや、もしこのまま“干渉しない”を選んでくれるなら、それも悪くない……
「だって、俺たち――友だちだろ」沈辰澤が背後から肩を叩き、柔らかく言う。
……どういうことだ。
前にも「友だち」と呼び合ったことはある。だが、今、彼らの口から出る“友だち”は、前と違って聞こえる。
――信じていいのか。今度こそ、痛みは残らないのか。
『あなたが『助けて』って言えば、みんな、助けるのに――』
……一度くらい、信じてみるか。
深く息を吸い、震えを宥める。
独りで抱えるつもりだった言葉を、口にした。
「――あの手紙が、葉子薰が狙われた理由だ。匿名者を見つければ、彼女は“抜け駆け”なんて言われない」
「期日がある。なら匿名者は、その時に現れるのでは」
「いや、手紙が広まるのが早いなら、彼女の件も耳にしてる。そう知った匿名者が、約束の場に来るかは分からない。早めに誤解を解けば、彼女への二次被害も防げる」
「もう、子薰を閉じ込めた犯人は分かった?」林千柚は袖をまくり、今にも殴り込む勢い。「任せて! ぶっとばして――」
彼女は本気で怒っている。沈辰澤が苦笑し、宥める。
「本人が報復を望んでいない。だから、犯人の名は明かさない」俺は淡々と告げる。「彼女の意志は尊重する」
――復讐しない、と約しただけだ。俺が自分で突き止めることまで、捨てたわけじゃない。
皆が頷いたのを見て、続ける。「とにかく、匿名者を突き止める。これ以上、変な被害を受けさせない」
互いに目を合わせ、意思が通じたように小さく頷く。
「必要なら言って! 見た目によらず、筋肉あるから!」林千柚が腹筋を見せ、溫苡蓉に即座に止められる。
「……要あらば、蓉も力を尽くす」
「子……子薰は、たいせつな友だち。できること、したい……」――俺は落ち葉じゃない。葉に見える顔でもない。ひどいだろ。
立場がすぐ固まる。それだけで、独りではないと少し安心する。
ただ、一つ、気にかかる。
『手紙が、そんなに早く広まるなら――』
俺は無意識に、「犯人は他クラス」と決めつけていないか?
でなければ、なぜ彼女は、加害者の身元を隠す?
――そもそも、匿名の手紙なんているのか?
糸口のない考えを空回ししても、意味はない。
「なあ、奧辛」
帰り道、沈辰澤が後ろに回って、小声で話しかけてきた。
何か掴んだのか? 助かる。無駄足を省ける。
彼は困った顔で耳元に囁く。
「どうして、皆が“手紙は子薰が書いた”って思っただけで、彼女を攻撃するんだ?」
――神様、誰かこの男に、理由を説明してやってくれ。




