4-6 匿名ラブレター(前編)
いまの俺は制服のブレザーを羽織って図書館にいる。もっと正確に言えば、図書館の柔らかな光の射す隅の席に身を潜め、ぼんやりしている。
休み時間に教室へいれば、皆が葉子薰に何があったかを俺に聞く。そこからまた別の話が生まれる。黙ってやり過ごすのも、正直に話すのも簡単だ。だが、今は自分でも分からないことをあれこれ聞かれたくない。
さっきから聞き覚えのある足音が近くを行き来している。彼女が口を開かないぶん、余計に神経に障る。
「溫苡蓉、用がないなら放っておいてくれない?」俺はほとんど睨みつけるように彼女を見た。
「えっ……わ、わたし……」短い逡巡ののち、彼女は片手を背に回し、いつもの調子へ戻って、誇張された詩人の口調で言った。「汝の心、翳りに覆われ、人に語らず――」
「普通に言え」
「もし管制書架の本が読みたいなら、こっそり鍵を開けてあげる」溫苡蓉の視線は定まらず、心配と怖れが入り混じる。
彼女なりに俺を慰めようと、職務違反になりかねない提案までしているのは分かっている。
ああ、彼女はいい人だ。沈辰澤も、林千柚も、郭慈軒も、徐亞鈞も、そして葉子薰も、皆いい人だ。彼らと一緒にいるのは気楽で、嘘じゃない。
そうだ。中学のときも俺は「やつら」をそう見ていた。臆病だと言われようが、杞憂だと言われようが、理性は告げる。刹那の楽しさのために、試してはならない人心を試すな、と。
心は試練に耐えない。重ねるごとに、支払う代償は計り知れない。
ならば、表層にとどまる関係のままなら、その皮の内側を見ることもない。――それでいい。すべてが一番美しいところで止まる。誰も傷つかない。
「ありがとう。でも、大丈夫だ」
溫苡蓉を断って教室に戻ると、俺の顔を見てか、誰も葉子薰のことを聞いてこなかった。
このままなら、それでいい。
明日、葉子薰がいつも通り登校して、うまく理由をでっちあげて、やがて元通り――円満に収まる。
思い通りにはいかない。
「みんなでお見舞いに行こうよ?」
翌朝の自習が終わると、林千柚が皆を集めて言った。
葉子薰は発熱で欠席――戴安がそう告げた瞬間、俺は自分の拳で殴られたような衝撃を受けた。
何が「元通り」だ。何が「円満」だ。
逃げているうちに、忘れていた。忘れても、消えないものがあることを。
たとえもう何も起こらなくても、彼女が昨日遭ったことは、この先ずっと、ひょっとすると一生――
俺と同じように。
「奧辛」
顔を上げなくても、沈辰澤の声だと分かる。
俺は返事をしない。
「今日、放課後に皆で子薰のお見舞いに行く。君も来てくれ」口調が強まる。「いや、来てくれ」
――どうして俺が?
無視を続ける。
このままなら、彼だって引き下がる。最初から――
強い手が俺の頬をつかんで上げさせ、視線は厳めしい彼の顔に釘付けになる。
「行こう。彼女は、君に来てほしいと思ってる」
「何の根拠で?」手を振りほどこうとすればするほど、彼は頬をむにっと押し潰す。これじゃ俺の顔が――
「ぷっ、あはは! 間抜けな顔」林千柚が証明してくれた。
「既に事に関わりし者、いかで中途に退かんや」
「わ、わたしも行く。い、家の人が入れてくれると……いいけど……」
「今日は用事があるから行かない。わたしの代わりに、行くことを許す」
この顔のまま話しかけるの、やめてくれない?
「い、行くから、放して!」
「うん」沈辰澤は笑ってうなずき、手を離した。
危機回避のためのイエスでも、イエスはイエスだ。人としての原則。俺の「配角行為守則」には反しない。
放課後、俺は自転車で、他の面々はバスで集合場所へ。そこから戴安に聞いた住所へ向かう。
「わたしが教えたとは言わないで」――住所を一発で吐いた彼女を見て、いつか郭慈軒が体調を崩したら、こいつらは同じように押しかけるのかと心配になった。
「こ……子薰の家って、この中?」と徐亞鈞。
沈辰澤が答える。「ここで合ってる。多分、集合住宅みたいな」
俺は溜息をつく。「どこが集合住宅だよ。ていうか、ここは“中庭付きの一軒全部”が葉子薰の家だ」
黒いアイアンゲートの脇に、戴安のくれたものと同じ住所。見間違いようがない。でなければ、俺だって「この一帯が彼女の家」なんて言い切れない。
うちが貧乏なわけじゃない。けれど、これは「貧しさが想像力を縛る」というやつだ。
沈辰澤がインターホンを押す。カメラ上のランプが点く。ほどなく落ち着いた女の声が機械から聞こえた。「こんにちは。どちらさま――?」
「葉子薰の同級生です。体調不良でお休みと聞いて、お見舞いに来ました」沈辰澤は怯まない。用件をそのまま伝える。
画面には相手は映らない。だが向こうはきっとこちらを見ている。この感じは少し不快だ。
「お待ちください」
開くかと思いきや、しばらくして、別の女の声。
「へぇ~~子薰の同級生ね?」やや掠れた、気だるい声。画面越しでなくても分かる眠たげさ。
「お母さま、でしょうか?」
「帰って。今日は会わせない」
反応する間もなく、カメラのランプが消えた。
――強い。
皆、互いの顔を見合わせ、言葉を失う。
今度は林千柚がベルを押す。少しして、同じ気だるい声。「なに」
「ま、待ってください! 子薰に会わせないって、どういう意味ですか? 本人の意思ですか? わたしたちが来たって、彼女に伝えました?」昂ぶる彼女の肩に手を置き、落ち着けと合図する。
「彼女の言葉ではないわ。でも、それが何? うちの子を傷つけた子が、そっちに混じってるかもしれない。どうして入れるの?」
娘と言うからには、彼女が母親なのだろう。一語一句、冷静で理に適う。招かれてもいない客で、潔白の証明もできない。母として門前払いにする権利がある。
「もし我らに子薰を傷つけた罪があったなら、どうして自ら乗り込むでしょう。わたしたちが知りたいのは彼女の容体だけ。用心なさるなら門前に立たせておけばいい。でも、たった一言で人の心を断じるのは、不公平です」溫苡蓉は必死に背伸びしてカメラに言い放つ。
今日はみんな、やけに熱い。――俺は来るべきじゃなかったのか。
「ふん、口は達者ね」冷たい笑みが声に混じる。「一人だけ入れてあげる。『李奧辛』って子はどれ? 門の前に立ちなさい」
俺だけでなく、皆が一斉にこちらを見る。
なぜ俺? 葉子薰の希望か?
いや、違う。
「彼が李奧辛だ」俺は沈辰澤の背を押し、無理やり前へ。彼は戸惑い顔だ。
「行け」俺はうなずき、声を張る。「子薰が会いたいのは君だ」
林千柚も溫苡蓉も徐亞鈞も、特に驚かない。俺の狙いを分かっているからだ。
木偶の坊の彼でも、さすがに読んだらしい。おずおずと門前に立つ。向こうも約束通り門を開けた。俺は自分のブレザーを彼に掛け、そのまま背を押す。
白い敷石の小道を沈辰澤が進んでいく。やがて鉄門が再び閉まり、俺たちは外に残された。
「彼を推してまで、汝の望みは何ぞ」溫苡蓉は腕を組み、問いというより詰問だ。
「一人しか入れないなら、彼女が好きな相手であってほしい」さらりと言って、指先がわずかに震えた。
皆の反応からして、葉子薰の想いはおおよそ共有されている。だが誰もそれで争わない。
恋敵であっても、友情は消えない。美しい。少し、羨ましい。
「……もし、もしもだけど……子薰が本当に会いたいのが、君だったら?」
「そうそう! わたしもそう思ってた!」
俺は口角をへの字に曲げ、「愚かしい」と言外に示す顔をした。
「ご、ごめんなさい!」徐亞鈞は両手で顔を覆い、俺に殴られるのを予防するかのようだ。
「君たちの間に何かあったんだよね? 皆、気づいてた。でも、聞けなかった」
やはり見抜かれていた。これだけ露骨なら当然だ。隠すつもりもない。むしろ今、言っておけば手間が省ける。
「正直、深く関わるのは苦手だ。君たちと話すのも、実はずっと負担だった。でも、出さなかっただけ」勢いのまま続ける。「誓って、嫌いじゃない。本当に。動物に縄張りが要るように、俺には物理的にも心理的にも“距離”が要る。つまりだ――俺から話しかけない限り、一定の距離を保ってくれないか」
言えた。胸がふっと軽くなる。
「えっ……」熱血脳の林千柚でさえ言葉が出ない。――いける、この要望は通る。
皆、驚きの顔のまま、何か言いかけては飲み込む。
そのとき、門が開き、沈辰澤が戻ってきた。
今の空気には気づかない様子だが、表情は冴えない。
インターホンから、葉子薰の母の声が再び。
「わたし、気が長い方じゃないの。李奧辛、二度は言わせないで」
気怠げな声で、容赦ない文句。偽装作戦は看破された。
このまま引き上げる――そう思って踵を返しかけた俺を、沈辰澤が中へ押し込んだ。
「おい!? 何すんだ」見た目は俺より弱そうなのに、力は強い。
「頼んだ」彼は苦笑する。
問いは喉に残したまま、鉄門がまた閉じる。
――行け。彼の目がそう言う。
大袈裟だろ。なんでこうなる。
葉子薰一人に会うくらい、造作もない。だが、あの“怖そうな人”と向き合うのか?
とはいえ、門が閉まった以上、戻れない。仕方なく、ひと目だけ見て帰る。
見たら帰る。「一般の同級生」としての務めを果たしたら終わり。長居はしない。
敷石を踏む。両側には刈り込まれた灌木が並び、鮮やかすぎる花々が目を刺す。
風が過ぎ、花弁が震える。囁くような気配が、俺を値踏みする。快晴のはずなのに、この短い道のりはやけに陰鬱で不吉だ。
行き当たったのは、簡素な意匠の建物。その前に、葉子薰の母が立っていた。




