4-2 匿名ラブレター(前編)
土曜の朝、俺は約束どおりボランティアサービスセンターにやって来た。今日の任務は、一人暮らしの高齢者へ配る物資の仕分けと梱包。
もっとも、今日ここに来たのは手伝いだけが目的じゃない。ついでにボランティアの腕章を返して、登録を解除するつもりだった。
そもそも俺は、こういう仕事に向いていない。目的はもう果たしたし、ここに残る理由もない。
担当地区のリストを持って作業を始めると、箱ごとに名前が書かれていて、必要な物資もそれぞれ違っていた。
オートミールが必要な箱には缶を一つずつ入れ、次にビタミン剤やカルシウム錠などのサプリメントを入れる。最後に不足分を補っていく。
別のボランティアのおばさんが品目と数を確認したあと、箱を封して台車で積み出し場所へ運ぶ。
今日は手伝いに来たボランティア全員に弁当と飲み物が配られた。
俺はさっき一緒に梱包をしていたおばさんと隅のテーブルで昼食をとった。
「仕分け終わったらもうおしまいよ。あとは運搬班の仕事。食べ終わったら帰っていいわ」
「はは……そうですか」
ここの人たちはみんな親切――いや、親切すぎる。
正直、圧がすごい。
俺は早く腕章を返して辞めたかった。
――そのとき。
見覚えのある姿がセンターの入口に現れ、頭の中が真っ白になった。
葉子薰。
白いTシャツに淡いジーンズ、薄いカーディガン。
これまでの読書会のときよりも、ずっと質素な服装。
どうして彼女がここに?
俺に気づく様子もなく、彼女はスタッフの一人と話し、しばらく待っているようだった。
俺の視線に気づいたのか、隣のおばさんが説明してくれた。
「あの子、葉子薰ちゃんって言うのよ。ボランティア登録はしてないけど、いちばん貢献してるの」
「どういう意味ですか?」思わず聞き返す。
彼女がボランティア? そんな話、聞いたこともない。
おばさんは箸を置き、緑茶をひと口飲んでから、まるで重要な話をするように口を開いた。
「独居老人の孤独死を減らすために、彼女が自腹でシステムを立ち上げたの。対象の高齢者に無料でスマートバンドを配ってね、体調の異常や転倒を感知したら、センターの職員にすぐ通知が行く仕組みなのよ」
スマートバンド――睡眠や血圧を測るやつ、くらいしか知らなかった。
「それに毎週ボランティアが訪問して様子を見るし、二週間ごとにセンターで囲碁や体操、発表会なんかのイベントを開いてるの。
月に一度は今日みたいに物資を集めて、ボランティアが届けに行くのよ。外出が難しい人は送迎付き。帰りに家まで運んであげるの」
おばさんの目が、まるで憧れのアイドルを見ているように輝いていた。
「彼女はどんな表彰も受けないし、名前を出されるのも断るの。あんなに無私な人、いないわ。みんな彼女のファンなのよ」
「そうですか」
俺は特に何も言わず、弁当を早足でかきこんだ。
――俺には関係ない話だ。
その時、俺に志願書を書かせたあのおばさんが出てきて、葉子薰に笑顔で話しかけた。
少し談笑した後、葉子薰が足元の箱を指差す。
「この箱、陳おじいさんの分ですよね。私が届けます」
「あらまぁ、悪いわねぇ!」 おばさんの声色が一変していた。
「大丈夫です。車を呼びましたし、ちょうど用事もあるので」
どれほど“与える側”であっても、彼女の仕草は礼儀正しく、穏やかだった。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「台車、借りてもいいですか?」
「もちろん! 自由に使ってちょうだい」
おばさんが角の方を指さす。
その瞬間、葉子薰の視線が自然と俺の方――隅で食事をしている俺へ向いた。
最悪だ。あわてて視線をそらし、スマホをいじるふりをする。
「あなた、ボランティアだったのね、奧辛」
わざわざ俺のところまで来るなよ。あの駐輪場での沈黙の約束はどこへ行った。
「どうも」左手を軽く上げる。どう切り抜けようか考えていたら――
「手、血が出てるよ?」
「え?」
言われて見れば、さっき箱を持つときに段ボールで切ったらしい。小さい傷だから気にしてなかった。
彼女が俺の左手をそっと取る。眉を寄せながら、淡い笑みを浮かべる。
葉子薰は事務室へ行き、救急箱を取り出すと、片膝をついて傷を処置し始めた。
断りたかったが、おばさんが見ている手前、拒めない。
――これで俺たちが知り合いだってバレたな。
さっきまで他人のふりしてた俺、めちゃくちゃ滑稽じゃないか。
「普通のクラスメイトなら、ここまでしてくれないよな」
保健室で王郁靜に手当されたときと同じく、沈黙が気まずくて、どうでもいい話題を出す。
薄い肌の下を青い血管がたどり、白磁のような肌に冷たい指先が触れるたび、微かな涼しさが残った。
「どうして? “同級生”って、あなたにとってどんな存在なの?」
「たまたま同じ教室で授業を受ける赤の他人」
「ふふ……そうなんだ」
彼女が小さく笑う。その笑みが、少し寂しそうに見えた。
指先が触れ合うたびに、彼女の手がわずかに震える。
俺が何かを聞こうとする前に、葉子薰が言った。
「じゃあ、“同級生”じゃなくて。みんなの代わりに――ありがとう。今日手伝ってくれて」
「今日が最後だよ。ボランティア辞めに来ただけ。俺には向いてない」
机の上に腕章を置く。
「そう……でも、これまで本当にありがとう。あの活動チラシ、あなたが作ったんでしょ? とても良かったよ。ありがとう」
――“普通の同級生”だから、礼を口にするようになったのか?
違う。彼女はもともと、そういう人だ。
変わったのは、俺の方。
「君は? 今日、みんなで食事に行くんだろ? 沈辰澤もいるって聞いたけど」
「うん。本当は行きたかったけど……こっちの方が大事だから」
“こっちの方”?
俺は“ただの同級生”として、それ以上は踏み込まないと決めていた。
彼女が手当を終えた瞬間、口を閉じる。
「この箱、そんなに重くないし、自分で持っていくね」
葉子薰は箱を持ち上げ、スタッフに丁寧に挨拶して出ていった。
彼女は転入してきてから、俺が一番話した人間だった。
でも、よく考えると、彼女のことを何一つ知らない。
――なぜ好きな人との食事会を断ってまで、ここへ?
――なぜ老人たちのために自腹を切る?
――“陳おじいさん”って誰だ?
疑問を抱えたまま、俺はそっと後をつけた。
彼女は箱を抱え、道路の端に立っていた。
一人のとき、彼女は笑わない。
それが普通だと分かっていても、不思議と目が離せなかった。まるで、目を離した瞬間に消えてしまいそうで。
――自分から“普通の同級生”に戻ろうと言い出したのは俺なのに。
苦しいのは、俺の方だった。
全部、彼女のせいだ。
俺の“脇役行動規範”を乱して、人間らしさを思い出させた。
忘れていた、“届かない期待”の痛みまで。
全部、葉子薰のせいだ。
一台のタクシーが道路脇に停まる。
彼女は箱をトランクに入れ、後部座席に乗り込んだ。
ドアを閉める直前、俺は彼女を押し込むようにして、自分も後ろの席に滑り込んだ。
「奧辛?」彼女の目が大きく見開かれる。
「ボランティアじゃない人だと、ドライバーが乗せてくれないかもしれないから」
腕章をわざと見せつけながら言う。
葉子薰は俺を上から下まで見て、小さく笑った。
「ふふ、すっかり忘れてた。ありがとう、一緒に来てくれて」
その視線を意識して、俺は顔を窓の方へ向けた。
彼女が俺の退会のことをからかうと思ったが、そうはならなかった。
窓の外を見つめる横顔に、見たことのない感情が浮かんでいた。
それは、さっきセンターで一瞬だけ見せた表情と同じだった。
――たぶん、俺はその“理由”を知りたくて、無意識に彼女を追いかけたのだ。
ただの好奇心だ。そう、自分に言い聞かせた。




