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4-1 匿名ラブレター(前編)

 人が少ないから専門校舎のトイレをよく使う――とは言ったけれど、実際のところは、やっぱり利便性を優先して教室の近くで済ませることが多い。


 呂彥凱は友達だけど、隣で並んで小便するのは正直ちょっと気まずい。結果、出にくくなる。


「なあ、李奧辛」

 いきなり話しかけるなよ!


「……なんだよ」俺は“本業”に集中しようと努める。


「お前、葉子薰のこと好きなんだろ?」


「……」


「なんか最近、距離近いじゃん」


 それは向こうがちょっかいを出してくるだけで、しかも彼女の目的は恋のライバルを把握するためだ。彼女が好きなのは沈辰澤。


 それに、俺は彼女のことなんて好きじゃない。


「彼女、俺の後ろの席だし。話す機会が多いだけだよ」俺の声に、水音が混ざる。


「そうか~。でもそう思ってるの、お前だけじゃないぜ。俺、他のやつからも聞いた。みんな“お前がしつこく付きまとってる”ってさ」


 俺が……付きまとってる?


 『あの子、李奧辛なんか好きじゃないって。あいつが勝手にしつこくしてるんだろ。』

 『例の“あれ”、絶対あいつがやったに決まってる。誰かに罪をなすりつけて、ヒーロー気取りかよ。』

 『正直、あいつのこと眼中にないっしょ。自分の妄想に酔ってて哀れだよな。』


 石が水に落ちるように、封じていた記憶が波紋を広げる。頭がくらみ、目の奥が痛んだ。

 ――でもここはトイレだ。死んでも気絶なんかしない。


「彼女、俺のタイプじゃないよ。年上の方が好みだし」できるだけ自然を装いながら答える。


「へぇ、俺はけっこういいと思うけどな」

 呂彥凱は大柄なくせに、心は単純だ。悪気なんてない。


「じゃあお前が狙えば?」――でも、彼女が好きなのは沈辰澤だ。


「いや、無理無理。分をわきまえてるよ。もう四、五人は告ってるらしいし、上級生も含めてさ」

 彼はもう終わったのに、なぜか俺を待つようにその場を動かない。


 もちろん知ってる。二、三年の先輩までが告白してるのを。

 ――でも彼女が好きなのは沈辰澤。


「俺が好きなのは、お前と陳宏寬だよ」俺はウィンクしてみせる。呂彥凱は固まった。


 話題を切り上げるため、さっさとズボンを上げて専門校舎のトイレへ移動。最初からここに来ればよかった。


 呂彥凱と陳宏寬には、一度「なんで家が遠いのにこの高校を選んだんだ?」と聞かれたことがある。

 その時は適当にごまかしたけど、考えれば分かることだ。


 ――あそこでは高校に上がれなかったから。


「はぁ……」尿意が解放される快感に、嫌な記憶が吹き飛び、心が一瞬で晴れ渡る。


 手を洗って外に出た瞬間、冷たいものが頬に当たり、びくっと肩が跳ねた。


 視線の先には、バナナ味のミルクを持つ葉子薰。


「ふふ、言ったでしょ? ちゃんと返すって」

 左右の手に一本ずつ。自販機で買ったばかりの保久乳を持つ彼女の笑顔は、相変わらず柔らかくて美しい。暗闇の中でも彼女だけが光る――そんな錯覚を覚える。


 差し出された手に触れる前に、俺の動きは止まった。

 ――無意識だ。体が警告していた。


「どうしたの? 受け取ってくれないと、“お願い”できないじゃない」


「今度はどんな頼みだよ」


 声が少し尖った。彼女も気づいたはずだが、それでも笑みを崩さない。


「苡蓉が最近読んでる本がね――」


「もういい」ためらっていた手を下ろす。「俺、最初は“得になりそうだから”って友達になったけどさ、前にも言っただろ。深く関わるの苦手だって。なんで何度も探りを頼む? 俺はお前の犬じゃない」


 さすがの葉子薰も、笑みを引っ込めた。俺はその表情を見なかった。見たくなかった。


「沈辰澤が好きなら、直接告白すりゃいいだろ。『敵を知るため』なんて、結局は勇気のない言い訳じゃん。なんで自分のことに他人を巻き込むんだよ」

 怒りを押し殺して、できるだけ穏やかに言う。


 視線の先では、彼女のつま先が内向きに揃い、呼吸の音さえ聞こえない。


「もう協力はしない。これからは普通のクラスメートでいよう。……ごめん」


 彼女の膝が小さく曲がって、すぐに伸びた。


「謝るのは私の方。私のわがままで、困らせちゃったね」


 静かに笑って続ける。「ごめん。そして……ありがとう。心から、そう思ってる」


 右足が一歩後ろへ下がり、次の瞬間、すっと前へ出る。

 気づけば俺の手に、バナナミルクが握られていた。


 振り返らずに去る彼女を、俺は止められなかった。

 背中が角を曲がって消えるまで、何も考えられなかった。


 もっとましな方法があったのに。俺は、最悪の選択をした。


 それから数日、葉子薰は必要最低限の用事以外、俺に話しかけてこなかった。

 表情も分からない。見るのが怖かった。


 怒ってはいないはずだ。怒る理由もない。

 ただ、この空気が嫌だった。


 ――自分で作った“役”に、俺は入りきれていなかった。

 最後まで演じ切れていれば、こんなことにはならなかった。


 だから、もう少し頑張ってみようと思った。


 期末テストが終わった金曜。林千柚が「打ち上げ行こうよ」と言い出し、沈辰澤が了承。郭慈軒、温苡蓉、徐亞鈞も次々と参加。

 まだ満足しないのか、林千柚はクッキーをかじりながら俺の席へ。

「ねぇ李奧辛、あんたも来なよ。どうせ土曜ヒマでしょ?」


 ひどい言い方だ。

 俺を誘ったのは、単に“読書会のメンバーだから”だろう。


 掌を開いて見せる。「俺、明日ボランティアセンターで手伝いあるんだ」


 嘘じゃない。本当に頼まれている。でも、なかったとしても断っていた。


「意外と熱心なんだね、ボランティア」

「君もやってるだろ……」

「あはは、まぁね」


 温苡蓉がその会話を聞きつけ、音もなく現れる。

「ボランティアの予定、覚えてたのね。でも、“読書部に入った”ことは忘れてるでしょ?」


 言われて、入部届を出したことを思い出した。

 ――面倒だ。最初から葉子薰と関わらなければ、こんな煩わしいことにはならなかったのに。


 彼女のせいで読書部に入り、彼女のせいでボランティアをし、彼女のせいで人付き合いが増えた。

 何度も“脇役としての行動規範”を破っている。


 ――俺みたいな脇役は、どれだけ仲良くなっても脇役のまま。


 さっき強制的に招待された「沈辰澤誕生日サプライズ禁止」グループが、その証拠だ。


 何もかも、俺がこの学校に来た時に決めた原則から外れている。


 放課後、駐輪場で自転車を押し出そうとすると、葉子薰が俺の自転車のそばに立っていた。

 ……いや、彼女の自転車がたまたま隣だっただけだ。


 お互い無言。


 俺はわざと歩調を落とし、“先に帰ってくれ”と念じる。だが、彼女は動かない。両手すらハンドルから離したまま。


 そして、こちらへ歩み寄ってきた。思わず歯を噛みしめる。


「忘れ物、取りに戻るだけ……」返事を待っているようだったが、俺が無反応なままでいると、諦めたように肩を落とし、すれ違っていった。


「……さよなら」


 その小さな声が耳元で消えた。


 角の向こうに彼女の背が消える。俺は気づけば右手を少し上げていた。

 彼女が戻るのを見計らって、逃げるように自転車を押し出す。


 蒸し暑い駐輪場は、俺の苛立ちみたいに重く淀み、風もないのに息苦しい。


 ――さっきの、宙に止まった手。あれは、俺、一体何をしようとしてたんだろう。

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