3-5 心のイリュージョニスト
授業のたびに近くのトイレは混むから、少し歩いて専科棟まで行って用を足し、ついでにこの棟の自販機にしかないバナナ味のロングライフミルクを買うのが常だ。
かがんで取り出口の透明板を開けようとしたとき、背後に人影が見えて、思わず飛び上がった。
「うわっ!」
「礼儀がないわね。」人影の正体は葉子薰だった。
彼女はスカートをさっと撫で、脚をそろえ、体をわずかに傾けつつ膝を曲げて飲み物を取り出した。
突き出した俺の手は宙に止まったまま。彼女はパックに付いているストローを取り出し、アルミの封に突き刺した。
まあ、良心は残ってるらしい。驚かせた埋め合わせに、ストローでも挿してくれるのかと——
もちろん、今のは全部俺の妄想だ。
現実の彼女は迷いもなく俺のバナナロングライフミルクをひと口吸い、満足げに小さく鼻歌まで漏らした。
「おお、だからわざわざここまで来るのね。これ、けっこうイケるじゃない。」彼女はパックをちらっと見て、また一口。ようやく俺の表情に気づいたのか、にっこり笑って言う。「ちょっと気になって味見しただけだって。もう一本買ってあげるから!」
そう言うと、葉子薰は硬貨を数枚入れ、伸ばした指をボタンの前で止めた。
迷っている、というのとは少し違う。彼女にはそもそも迷う選択肢がなかったのだ。
彼女の指先のところで「売切」のランプが光っていた。バナナロングライフミルクはすぐそこなのに、手が届かない。
彼女が固まっている間に、俺はその手の横から回り込み、アップルジュースのボタンを押した。
「ごめんね、次はちゃんと埋め合わせするから。」彼女はわざと甘えた声で、可愛さで許してもらおうとしてくる。
そもそも、なんで彼女はここにいる?
俺たちの関係を考えると、わざわざ俺の後をつけて専科棟まで来たのは、別の目的があるに違いない。
お互い察しているだろうから、遠回しはやめた。
「俺に何を調べてほしい? LIFE法則が何なのか、ってやつか?」
葉子薰は目を丸くし、瞳にひと筋のきらめきが走った。「頭いいじゃん! でも知りたいのはそれじゃないの。」
そしてまた、彼女は俺のバナナロングライフミルクを吸った。
「じゃあ、何を知りたい?」
「クラス全員の記憶喪失の件。あの雪尼って、本当に人の記憶を消せるのかな?」
「まさか……それが聞きたいの?」俺はさっき落ちたアップルジュースを取り出し、ストローを挿して一口。すっぱ。
どう考えても皆の共通記憶を直接消す方法なんてありえない——が、たしかに気にはなる。
「あなた、雪尼が沈辰澤を見る時の表情、見たでしょ? 敵を知り己を知ればってやつ!」
はいはい、知彼知己ね。
「じゃあ、先に教室戻っとけ。俺、ちょっと用事あるから。」ちょうど心に仮説が浮かんでいた。俺は葉子薰を置いてひとりで正門へ走る。雪尼がまだいればいいが。
ちょうど、前棟一階を通りかかると、雪尼と戴安が階段を降りてくるのが見えた。雪尼は教室に置いていた機材を背負っている。
「あ、あの……雪尼先生!」
呼びかけると、二人そろって振り向いた。
「どうしたの? サインでも欲しいの?」雪尼はサングラスを押し上げ、得意げに笑う。
「さっきの講演、すごく感動しました!」息を切らしているせいで、本当に感動してるように見えたはずだ。
「そう? うれしいわ。で、何か学べた?」彼女の俺を見る目は、沈辰澤を見るときとまるで違う。ひどい。
「はい、その……ぼく、壇上で話すことにずっと憧れてて。雪尼先生が落ち着いて堂々と、滔々と話すのを見て、胸が熱くなって!」
隣の戴安は大げさだと思ったのか、平然とつぶやく。「じゃあ私が授業してるのも立派な演講ね。あなたたち、だーれも感激しないけど。」
無視して、俺は雪尼に食い下がる。「もっと学びたいです、勇気も欲しい……そう、先生が言ってたLIFE法則みたいに!」
俺の真剣な目を見て、雪尼はサングラスを外した。まるで知音のように、互いを尊いものとして見つめ合う。
「あなたみたいな生徒に会えるなんて、先生のほうこそ感動よ! 手伝えることなら、何でも言って!」
その言葉を待ってた。
「プロのスピーカーは講稿をお持ちですよね。見せてもらえますか? 一流のプロがどう書くか、学びたいんです。」さらに身を寄せる。
「講稿? そんなのでいいの?」
「はい。細部に力量は宿ります。雪尼先生の講稿なら、絶対に裏切らないはず!」
「えへへ、そう? じゃあ、ちょっと待ってね。」
チョロい。先が心配だ。
彼女はバッグから折りたたんだA4用紙を取り出して手渡してくれた。「何かあったらいつでも連絡して。名刺に私の連絡先があるから、遠慮なく。」
熱く別れを交わすと、二人はゆっくりと正門へ向かった。
ちょっと悪いことした気がする。
さっき休み時間に、彼女の名刺は真っ先に捨てちゃったんだよな。
教室へ戻りながら講稿を見る。やはり一語一句は書いてない。「中退時の体験」「転機」みたいなキーワードで流れを作るスタイルだ。
つまり、本当の講稿は頭の中にあって、紙はあくまでプロンプトというわけ。
視線を下へ移すと、LIFE法則だけはしっかり書いてあるのを見つけた——
L = Listen 自分の内なる声に耳を傾ける。
I = Imagine 自分の未来を想像する。
F = Forgive 自分の過去を許す。
E = Execute 自分の目標を実行する。
同時に、歩きスマホ状態の俺は、教室に入っていることにも、教卓にぶつかって講稿を撒き散らしたことにも気づいてなかった。
「大丈夫、奧辛?」
一番近くにいた林千柚が講稿を拾ってくれ、ついでに内容が目に入ったらしい。表情が一変する。「あっ! やっぱり。雪尼、LIFE法則のこと言ってたんだ!」
そう言う彼女がいる一方で、雪尼は言ってないと言い張る者もいれば、だんだん思い出してきたように法則を口にする者もいた。
「え? 私は確かに聞いてないよ? 言い忘れたんじゃない?」
「なんか聞いた気はする、でも内容は……」
先に戻っていた葉子薰が近づき、小声で聞く。「で、雪尼からこの講稿を?」
「そう。」
「録画データをもらうほうが早いと思ってた。」
録画はヤバいって。
俺は壇上へ上がり、マイクを手に取った。電源を入れると短いノイズが鳴り、全員の視線が集まる。
「コホン。」
ああ……壇上で大勢に見られるって、こういう感じか。
緊張を押し込み、俺は推論を口にする。
「LIFE法則の意味は、興味があったら林千柚の手元の講稿を。本人用だから簡素だけど、そこだけはちゃんと書いてある。」
手近な数人は覗き込んでいるが、多くは壇上の俺の口からの結論を待っている。
「雪尼は長年チャンネルを運営してる。そんな人が、わざわざ講稿に丁寧に書いた重要項目を、うっかり飛ばすとは考えにくい。」
「たしかに、字もやたら目立つし。」林千柚が講稿を見ながらつぶやく。
「覚えてる? 雪尼は最初に『メンタル・イリュージョン』を披露すると言ってたよね?」
少し間を置いて、俺は数字を読み上げた。
「5、23265856351671、21。」
狙い通り、皆の頭が一瞬真っ白になる。
それが伝えたいことだ。
俺は左手を掲げて言う。「さっきの数字、言ってみて。」
「何なのよ?」郭慈軒は、日頃の不満をここぞとばかりにぶつける。
「えっと……5……」林千柚は最初の数字だけ。
「5と、最後の……21?」葉子薰の答えは、他の数人と一致した。
沈辰澤も同じ。「でも、それと雪尼に何の関係が?」
「大あり。これが雪尼のメンタル・イリュージョン、つまり『記憶消去』の正体。」マイク、音デカいな。慣れない。
「ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスは、情報の受け取り順が想起効率に影響する、と言った。」
「系列位置効果……?」葉子薰は勘がいい。
「そう。系列位置効果には二つの下位効果がある。初頭効果:最初の情報は記憶に残りやすい。新近効果:最後の情報も覚えやすい。さっき一連の数字で『5』と『21』だけが残った理由だ。」
畳みかける。
「それに、さっきの講演、冒頭と結びのインパクト、思い出して。中盤の平叙より強かったよね?」
ド派手な入りからの高校中退の話。ラストは、皆、戴美麗の三文字しか覚えてない。
本人たちに自分で納得してもらうのが、一番効く。
それでも半信半疑の顔があれば、さらに打つ。
机の陰で隠していたチョークを入口へ放る。コツンという音に皆が振り向く。
内心でガッツポーズ。
「注意の誘導、いわばアテンション・キャプチャ。みんな今、扉の音に引かれて首を向けたでしょ? その間に、俺が右手で中指立てたの、気づかなかったはず。講演中の点滅する補助ライトも同じ。視線を奪う撹乱役だ。」
「なるほど……」葉子薰の素直な驚きが、ざわめきを上回る。「やっぱり賢い。絶対解いてくれると思ってた!」
彼女の弾む様子を見ながら、俺はふと首をかしげる。
たとえ雪尼が恋のライバル候補でも、葉子薰が真相を知って何になる? 徐亞鈞や林千柚、郭慈軒はともかく。まさか雪尼がメンタル・イリュージョンで沈辰澤を“洗脳”するとでも?
葉子薰が納得すると、他の生徒も異論は出なかった。賛同した者、腑に落ちぬ者、反応は様々だが、事件はひとまず収束した。
皆が散っていくのを見送りながら、俺は壇上に留まり、内心で本当の経緯を組み立て直す。
結論から言えば、雪尼は「LIFE法則の中身を言ってない」。
まず、自宅撮影のクリエイターとして、撮り直しも編集もし放題。だから完璧な暗唱は不要で、カメラ近くのメモやテレプロンプタで進めるのが常。冒頭のドタバタぶり、物忘れっぷりから見て、観衆の前での“生”講演は初めてだったはずだ。
書かれた講稿も未完成。過去の身の上話は、動画で何度も語っていて身体に染みている。だからキーワードだけで足りる。
なら、なぜLIFE法則だけは完全表記なのに、口にしなかった?
暗唱できるものほどメモは簡素、逆に、普段使わず複雑なスローガンは詳述——ただそれだけ。
じゃあ、林千柚や徐亞鈞が「聞いた気がする」と言ったのは?
講演冒頭、雪尼は「私のこと、知ってる人?」と聞いた。手を挙げたのは少数。
俺と葉子薰は最近知ったばかり。他に手を挙げたのは林千柚と徐亞鈞。
三十二人のクラスで、彼女たちだけが雪尼のチャンネル視聴者。そして「LIFE法則に聞き覚えがある」と曖昧に言ったのもこの二人。
記憶源の混同——つまり、他の動画で聞いたLIFEを、今日の講演と取り違えた。しかも忘れやすい類の話だから、「聞いた気がするのに内容は出てこない」という現象になった。
俺は系列位置効果でうまく説明したが、あれは誘導でもある。
「5、23265856351671、21」——間に意図的なポーズを入れただけじゃない。そもそも最初と最後の数字は厳選済み。というか、最初から黒板に書いてあった——当番の番号だ。
クラスは三十二人。戴安が決めた当番ローテは、1番と17番を起点に、それぞれ毎回+5。翌日は6と22、次は11と27。金曜が16と32なら、当然今日の月曜は5と21。
十六日繰り返せば、1と2を起点にした場合と同じく、全員に公平に巡る。見かけは魔法だが、ただの算数。
5と32は互いに素。等差数列で+5ずつ、モジュロ32で繰り上がりを折り返す。起点を二本並走(1と17)にすれば、重複なしで全員に一巡する、というわけ。
つまり、皆が一日中目にしていた当番の数字への単純接触効果と、系列位置+注意誘導の合わせ技で、「今日は言ってないLIFE」を“忘れた”と思い込ませられる。
じゃあ、講稿があるのに、なぜ言わなかった?
忘れたからだ。
正確には、俺が通りかかった資料室に置き忘れた。
重要でない資料の物置で、人はまず来ない。おそらく戴安が雪尼に貸した、簡易のリハ用の舞台。俺が耳にしたのは、彼女のあの大仰な語りの練習。そこへ戴安が「そろそろ本番」と呼びに来て、慌てて支度して出て行き、その時に机の講稿を置いていった。
証拠? 機材を組んだ後、彼女はバッグの中を探していた。でも結局何も取り出せず——探していたのは講稿だと見ていい。
この推測を裏づけるのが、俺が専科棟から駆け戻ったとき、本来ならもう帰っているはずの雪尼と鉢合わせたこと。
講演後、彼女は上の資料室に忘れ物を取りに戻った。そして、俺が「ちょうだい」と言った、その講稿を——
これがくだらない事件の真相。
残念ながら、彼女は記憶の一部だけ消す魔法は使えない。葉子薰の俺を見る軽蔑の顔を消してほしいし、彼女に向けられた郭慈軒の敵意も和らげられたら良かったのに。
メンタル・イリュージョニストなんて、やっぱり心の栄養ドリンクを量産するだけの職業だ。
「おお?」
どよめきに顔を上げると、葉子薰と郭慈軒が向かい合って——対峙?
喧嘩? 郭慈軒の不機嫌そうな顔では判断がつかない。葉子薰はいつも通りの微笑み……
「慈軒、私の目を見て。」葉子薰のソプラノからは感情が読めない。
「何よ? 見るほどのものでもないでしょ。放っといて。」腕を組み、借金でも背負ってるような顔。
葉子薰はいつもの笑顔を収め、姿勢を低くし、優雅に一礼した。
「私が悪かった。ごめんなさい。」
謝った?? 葉子薰、郭慈軒に何をした?
同じく、郭慈軒もわからない。「何を言ってるのか、本当にわからないんだけど。」
その瞬間、葉子薰は、まっすぐ自分を見ている相手を逃すまいと、全身で飛びついた——
「むっ! あ、あ……ちょ、ちょっと何してるの!?」
彼女は郭慈軒の体に絡みつき、ぎゅっと抱きしめる。まるで、手を緩めると失ってしまうとでもいうように。郭慈軒は震える手で肩を押し、離そうともがく。
「許してくれる? 私の気持ちは変わってない。あの件で、二人の関係が変わってほしくないの……」
どこかで聞いたセリフだ……
あ! 「おいしい屋」で葉子薰が見てた動画だ。雪尼の!
唐突なハグに、唐突な台詞。すべてが唐突な葉子薰。郭慈軒は反応に困り、勢いで押し切られてしまった。
そして彼女の手は、戸惑いから受け入れへと変わる。
なるほど。郭慈軒は、強く出られると従うタイプか。
「それ、私が言うべきだった。あんなことして……それでも許してくれる?」
「あなたの考えに気づけなかった私が悪い。謝るべきは私。」
「私こそ、あんなに我儘言って……」
驚きは少ない。前に俺に「代わりに謝って」と頼んできたのも彼女だ。根は悪くないし、むしろ誰より誠実なのかも。
長年の誤解がほどけたように、二人は抱き合い、素直に涙ぐむ。微笑ましい光景……だけど、チャンネル違いでも和解できるのはもっと驚きだ。
そうなると、メンタル・イリュージョニストも、俺が思うほど張り子の虎でもないか。
うん、さっき捨てた名刺、あとでゴミ箱から拾ってこよう。
「李奧辛、なんでわざわざ雪尼からその講稿を? わざわざ壇上まで上がって、マイクで説明までして。」
席の脇で世紀の和解ショーが続いていて戻れない林千柚が、ポテチを頬張りながら寄ってくる。
俺は向き直り、改まった顔で答えた。
「だって、壇上で話すことにずっと憧れてたから。」




