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3-1 心のイリュージョニスト

 今は金曜日の朝七時十三分。ちなみに今日はまた国語の小テストがある日で、しかも午後は担任の授業がある。これ以上赤点を取るわけにはいかないから、教室に入ったらすぐに復習を始めるつもりだ。

 だが、窓から黒板を見た瞬間、今日は当番の日だと気づいた。つまり、黒板を拭いて、チョークの数を確認し、黒板消しを叩いて粉を落とし、クラスの給水器と花の水やりも担当しなければならない。

 当番は二人いるけれど、それでも復習の時間は確実に削られてしまう。

 そもそも当番の割り当て方からして、うちのクラスは少しおかしい。普通なら一番と二番、三番と四番という順番にすればいいだけなのに――。

 たとえばうちのクラスは三十二人。初日は一番と十七番、次の日は六番と二十二番。

 そう、十六番ずつ間をあけて、次はそれぞれプラス五番ずつずらしていくという、よく分からない法則で回しているのだ。今日は僕の十六番と、クラス最後の三十二番の番。

 こんな複雑な当番表を作る人間なんて、数学教師ぐらいしか思いつかないけど――残念ながら国語教師のダイアン先生だ。

 そして僕が今、教室の前で立ち止まっている理由。それは僕の「モブキャラ行動規範」に従えば、七時十五分ちょうどに教室へ入らなければならないからだ。

 では、なぜ今日はうっかり二分も早く学校に着いてしまったのか?

 その答えは、今朝の登校にある。


 これまで特に話したことはないけど、僕はいつも自転車で通学している。というのも、僕の家はクラスでいちばん学校から遠い場所にあるからだ。

 毎日自転車をこいでいるおかげで、通学路の信号のタイミングは完全に把握している。だから本来なら、ぴったり七時十五分に教室に着くはずだった。

 ところが今朝、家を出て二つ目の交差点を渡ったとき、見覚えのある人影が、何か食べ物の入った袋を提げて小さな路地に入っていくのが見えた。

 ちょっとした好奇心で僕はそちらへハンドルを切った。だが、その瞬間――

「ワンッ!」

 突然、大きな黒犬が飛び出してきて、激しく吠え立てたのだ。

 僕はアドレナリン全開でペダルを踏み、全力で逃げ出した結果……見事に予定より早く学校へ到着してしまったというわけだ。


 スマホを確認すると、時刻は七時十四分。教室に入る時間まで、あと――


「うわっ!!」

「わあああっ!」


 叫び声とともに、背後から勢いよく押され、僕は教室の中へ転がり込んだ。今日の行動規範は、いきなり粉々に砕け散った。

 体勢を立て直しながら振り返ると、怒鳴ってやろうと思った――けれど、僕にはその勇気がなかった。


「……葉子薰よう・しゅん、君ってほんと、僕の不運を呼ぶ女神だよね。」

 そう、転校してきて以来、僕の平穏な日常を次々にぶち壊してきた張本人。

 彼女はまるで反省する気もなく、にこやかに手を振ってきた。

「おはよ、アオシン!」

「お、おう……」驚きのあまり、「おはよう」すら言えなかった。


 幸い、教室ではそれぞれのグループが騒がしくおしゃべりしており、誰も僕たちのやり取りに気づいていなかった。もし呂彥凱リュ・イェンカイ陳宏寬チェン・ホンクァンの二人に見られていたら、絶対に冷やかされたに違いない。

 誤解を招かないためにも、僕はあくまで「モブキャラ」として立ち回らねばならない。


 口を開き、「もう少し控えめにしてくれ」と言おうとした瞬間、背後から刺すような声が飛んできた。

「そこ、邪魔なんだけど。『葉さん』。」


 ――ツンデレ系女子、郭慈軒グオ・ツーシュエンだ。

 そう、今朝僕が見かけたのはまさに彼女だった。


「ご、ごめんなさい!」

 葉子薰は一瞬固まり、慌てて横にずれて道を空けた。

 その表情には怯えよりも、どこかしょんぼりとした影が浮かんでいた。

 二人は特別仲が良いわけでもなければ、先日の読書会でも揉め事などなかった。それだけに、郭慈軒の冷たい態度は確かに刺さるものがあった。


 普段の彼女は、沈辰澤シェン・チェンザー以外には単に冷たく厳しいだけだ。だが今のように露骨に不機嫌なのは初めて見る。

 郭慈軒は怒りを押し殺したような鋭い眼差しで葉子薰を睨みつけ、そのまま足早に去っていった。


「私、何か悪いことしたのかな……?」

 葉子薰が小声で尋ねてくる。

「もちろんさ。」僕はため息まじりに答えた。「七時十四分に僕を教室へ押し込んだこと。」

「そういう意味じゃないの!」

「そうかい。」

 ――うん、このまま話してると、また面倒ごとに巻き込まれそうだ。


 席に戻ると、隣の男子たちがスマホを見ながらYouTuberの動画について盛り上がっていた。

「この『暴走アレンの食べまくり』またバカな動画上げてるぞ。」

「分かる! 毎回同じ顔で『うま〜い!』『神うま!』って言ってるだけだし。」

「『香りが口の中で広がる〜』とか『とろける〜』とかね。」

「そうそう!あまりにアホらしいから、昔の動画全部低評価つけてやったわ。見てもいないけど。」

「俺もやる。痛い目見ないと反省しないだろ。」

 ……いや、見てもいないのに低評価つけるやつのほうが反省すべきだろ。


 背中をつんと指でつつかれた。

 案の定、葉子薰だ。

「ねえ、これ見て。」

 彼女のスマホ画面には「心のイリュージョニスト・シェニー」というチャンネル。動画をタップすると、黒い平帽とサングラスをかけた女性が現れた。

 『嫌な出来事が忘れられないあなたへ。私はあなたの心のイリュージョニスト、シェニー。今日は“嫌な記憶を変える方法”を教えます。』


 赤いソファに優雅に腰かけ、脚を組むシェニー。その隣の丸テーブルには赤ワインの入ったグラス。照明は真上からのスポットライトのみ。――いかにも「私はプロです」感を出そうとしている。

 どうでもいい話を延々としていたが、葉子薰はスキップせず真剣に見入っていた。

 やがて本題に入る。


 『では、こう想像してください。あなたは会議前にコーヒーを買う役目。けれど遅刻してしまい、上司に怒鳴られ、手のコーヒーを奪われる――そんな場面です。あなたは傷ついていますね?』

 葉子薰はこくこくとうなずき、まるでシェニー本人から授業を受けているかのようだ。

 『では次に、軽快なBGMを流しながら、目を閉じてその場面を思い浮かべ……変えるのです!』パチンと指を鳴らす。これが彼女の決めポーズらしい。

「うんうん!」

 『上司があなたを指さす姿を、両手を差し伸べて心配している姿に変えましょう。そして怒鳴り声を「どこ行ってたんだ! 心配したぞ!」に置き換える。何度も繰り返せば、あなたの記憶は書き換わります。』


 動画が終わり、葉子薰は満足げにスマホを閉じた。

 ……で、それを僕に見せた意味は?


「アオシン、慈軒って、私のこと嫌いなのかな?」

 感想じゃなくて、いきなりそれか。

「そんなに他人に嫌われるのが気になるタイプ?」

 ――たぶん、彼女はいままで誰かに露骨に嫌われたことなんてないんだろう。むしろみんなに好かれている。

 でも、どんなに見た目が良くても性格が良くても、全員に好かれるなんてあり得ない。嫉妬や対抗心で嫌う人間もいる。

 だからこそ、郭慈軒が葉子薰を嫌う理由が思いつかない。


「そんなことないと思うけど……知り合いなのに、最近一緒に勉強会までしたのにさ。」

 彼女は机に突っ伏し、指先で僕の肩をつついて、退屈そうにくるくる回す。くすぐったい。

「もしかして、嫌ってないんじゃない?」

 明らかに納得していない顔をしていた。

「でも気になるんだもん。ねぇ、彼女が私を嫌う理由、探してくれない?」

 右手をひっこめながら頼んでくる。


 いや、そもそも嫌ってるとは限らないってば。

「どうやって探すんだよ。あの“心のイリュージョニスト”でも読心術は使えないだろ。」

「アオシンなら分かると思ったの。名探偵アオシン様~♪ この前の亜鈞と千柚の件もすごかったし!」

 満面の笑み。……まるで犬を褒めてるみたいな口ぶりだ。


 葉子薰は突っ伏したまま、髪が頬に流れ落ちる。腕の間から見える横顔は柔らかく、黒髪が頬をなぞる。まるで霞に包まれた湖面のように淡く、危うい美しさがあった。

 胸の奥に、言葉にできない小さな火がともる。


「分かったよ。気にはしてみる。でも理由が見つかるかどうかは分からないからな。」

 結局、彼女の頼みを断れない僕は、逃げ道を残した返事をした。

 ……まあ、観察するだけなら害はない。そう思って、しばらく郭慈軒の動きを注意深く見ていた。


 腰まで届く長い髪。あれだけ長いと手入れが大変そうだ。いや、彼女の家ならメイドがいるのかも。金持ちの生活ってどんななんだろう。

 その髪には、いつも赤いリボンで結ばれた蝶結び。葉子薰のヘアピンと同じデザインだ。

 ――まさか、それで嫌ってるとか?いや、赤いリボンなんてよくあるし。


「おはよう、慈軒。珍しいね、今日は遅めだし、家で朝食食べてきてないの?」

 沈辰澤がわざわざ声をかけに行く。

 教室内では皆が朝食を食べたり雑談したりしている時間。郭慈軒も同じで、机の上には雑誌とテイクアウトの弁当箱。中にはハンバーグとサラダ。

 そして弁当箱のロゴを見て、僕は気づいた――あれ、僕の家の近くの二十四時間営業の洋食屋「おいしい屋」じゃないか。


「ふん。たまには庶民の料理を味わってみようと思ってね。だから運転手に連れて行かせたのよ。でも学校へ向かう途中で車が故障して、彼ったら謝ってばかりで動かないの。腹が立ったから、一人で歩いてきたの。」

 そう言って髪をかき上げる彼女。その後ろの席の生徒が気の毒になるほどのオーラだ。


 ――そういえば、前の読書会でも「庶民の味を試したい」と言ってファストフードを選んでたっけ。

 学校では沈辰澤みたいにお弁当を作ってくれる人はいないから、彼女も給食を食べているはずだ。……それも庶民の料理では? まあ、それはさておき。


 僕は葉子薰に顔を向けた。

「聞いた? つまり、今日は誰に対してもあんな感じなんだよ。」

「なるほどね。」

 葉子薰はまだシェニーの動画を見ながら、納得したようにうなずく。原因が“八つ当たり”だと分かって安心したらしい。

 よかった。こんなにあっさり解決してくれるなんて、めでたしめでたし。


 ……ただ、一つだけ気になることがある。

 今朝、僕が見た郭慈軒は「おいしい屋」の近くだった。

 彼女の話が本当なら、運転手に連れて行かせて朝食を買ってから登校したはずだ。

 なのに、あの時は歩いていたし、近くに車もなかった。

 ――つまり、車が壊れたのは「登校中」ではない。時間が合わない。


 まあ、考えすぎか。

 とにかく僕は国語の小テスト勉強を始めよう。もう二度とあんな勉強会に巻き込まれるのはごめんだ。

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