2-5 流言
俺は早起きが嫌いだ。だからチラシを印刷してボランティアサービスセンターに持って行くのは、わざわざ休みの日まで待つことにした。
就職しろしろとうるさいボランティアのおばさんの顔を見つけ、用を済ませたついでにボランティア登録も解除して帰るか――そう思ってカウンターへ向かったら、坊主頭のおじさんに割り込まれた。
彼は上等そうな紙袋をいくつもドンと置き、「ここの皆さんへ、お土産です!」と胸を張る。
「今月のイタリア旅行はどうだった?」おばさんは袋から食べ物を取り出す。ここにいるスタッフや利用者に、そのまま配るつもりらしい。
「楽しかったよ。ただ昨日帰ってきたばかりでね、うちの娘がまだ癖抜けなくて、マンションの管理人さんにイタリア語で挨拶してたよ! そうだ、頼まれてた件はどこだい?」
坊主頭のおじさんはランニングに短パン、足元はスリッパ――どう見ても仕事モードではない。
「そうだそうだ、忘れてた。ごめんね、帰ってきたばかりなのに。外のコンクリート塀、塗り直しが必要で。プロ用の道具がないから、あなたの帰国を待ってたの」
「そんなの朝飯前! すぐやるよ。ただ、あの壁はデカいから、手伝いがいると助かるけどね」
おじさんが言い終わるのと同時に、二人の視線が見事に俺へと向いた。
不吉なスポットライトを感じた俺は、さも関係ない風に視線を泳がせる――が、センター内には他に人影がない。
よりによって今かよ!
「若いの、覚えが早いな!」
俺は“塗装担当のおじさん”と一緒に、まず剥がれた塗膜をスクレーパーで落とし、高圧の水で外壁を洗い流す。乾くまでの間は公園のベンチで昼飯タイム。
手伝ったお礼に、弁当は奢りらしい。
煮卵を丸ごと頬張った瞬間、不意打ちの一言が飛んできた。
「林千柚ちゃん、狙ってるって?」
――もしここで煮卵を喉に詰まらせて死んだら、このおじさん、過失致死になるのかな?
俺はパンパンに頬をふくらませたまま、全力で首を横に振る。
「悪い悪い、今のナシ、ははは!」おじさんは弁当をとっくに平らげ、豪快に無糖の緑茶をあおっている。
俺が“林千柚を追っている”という誤解、センターの何人に共有されてるんだ……?
沈黙が苦手なのか、おじさんは休憩を挟んでまた喋り出した。
「塗装を覚えるとさ、メイクの仕方も分かるようになるんだぜ」
俺は首をひねる。
「あとで教えてやるよ!」
外壁が灼ける陽で乾いたのを見計らい、壁の亀裂をパテで埋める。乾燥後は電動サンダーで面をならし、下塗り(プライマー)を塗ってから、ようやく本塗り。
「今やったのはな、まず外側の“古い化粧”を落として、パテっていうコンシーラーで欠けを隠す。下地の“化粧下地”を塗って、最後に“ファンデーション”――これが上塗りだ」
塗装って“水彩みたいに塗るだけ”じゃない、というのは身に染みて理解したが、メイクで例えられると、なんかモヤる。
たかが一階建て分のコンクリート塀――のはずが、塗り終えた頃には腕も脚もガクガクで、ベンチに倒れ込んで動けなくなった。
正しい手順で仕上げた壁は、このベンチみたいにすべすべ……のはず。
空が暗み始めて、また一日を無駄にしたことに気づく。しかも、これボランティア業務の範囲外だよな?
そもそも今日は“ボランティア登録の解除”に来たんだった。危うく忘れるところで、よろよろとセンターに戻る。
「わぁ~イケメンくん、このチラシすっごくオシャレ! こんな目立つデザイン、きっと参加者がドッと来るよ~!」
口を開く前に、ボランティアのおばさんから盛大に持ち上げられる。……どれだけ俺を手放したくないんだ。
机の上から、センターの専用印が押された一枚をひょいと抜き取り、目を通す――
10/05(土) シニア手作り教室
・簡単でエコな手工芸(紙の花・香り袋・扇子 など)
・作品はお持ち帰りOK、またはご家族・ご友人へのプレゼントに
対象:手作りが好き、または手を動かして頭の体操をしたいおじいちゃん・おばあちゃん
備考:材料はセンターで用意(数量限定のため時間厳守)
10/19(土) フィットネス運動会
・健康リズム体操
・かんたん気功&ストレッチ
・公園健歩
・養生ごはんミニ講座(管理栄養士による指導)
対象:体力増進・活動量維持を目指すシニア
備考:動きやすい服装で。冷たいおしぼり&飲料水あり
11/02(土) 思い出レコード店
・懐メロ合唱
・ボランティアによる生伴奏
・小さな“思い出写真展”(昔の写真お持ち込み歓迎)
・クイズ大会:曲あてゲームでプチ景品
対象:歌が好き、昔話をシェアしたいシニア
備考:温かいお茶&お茶菓子をご用意
11/23(土) 紙上談兵デー
・カード遊びコーナー:トランプ/花札/オセロで童心を取り戻そう
・ボードゲーム対局コーナー:シャンチー(中国象棋)・囲碁・五目並べ、自由に腕試し
・ボードゲーム体験(ボランティア案内):今どきの若者気分で“現代の遊び”を体験!
対象:頭を使うのが好き、友達づくりしたい、笑い声ウェルカムなあなた
備考:プチ景品あり。ドリンク&おやつもあるよ
おお……並べて見ると、案外それっぽい。
もしかして俺、デザインの才能ある?
センターを出てから、ようやく気づく。
俺、きれいに掌の上じゃないか。ボランティア解除どころか、“また手伝いに来る”って約束までしてない?
林千柚も、こうやって騙されて入った口か……?
魂が抜けたみたいに公園をふらつき、気づけば沈辰澤の家の向かいに着いていた。
ベンチに寝転がり、蚊に献血しながら空を見上げる。
視界の端を二つの影が横切る。目を凝らすと、沈辰澤と妹だ。
仲良く買い物にでも出たのだろう。ほんと、兄妹仲がよろしいことで。
いっそ妹にこっそり聞くか――あの日、林千柚が家に来て、何があったのか。なぜ彼女は行ったのか。
……やめだ。俺、妹さんと面識ないし。彼女が兄貴に話したら、説明が雪だるま式に増える。
全身をベンチに預け、疲労を誤魔化しつつ、この公園の蚊どもにささやかな供物を捧げる。
――なんか、おかしい。
ん? 待て……。




