2-4 流言
図書館に来たのは、借りた本を返すついでに、館内の共用パソコンを使うためでもあった。
型は古いけど、チラシ作りくらいなら問題ないだろう。
椅子に腰を下ろして電源を入れ、ボランティアのおばさんから渡された活動案の下書きを取り出す。
十月まであと数日しかないのに、十月と十一月のイベントをいっぺんに作るなんて……あのボランティアたち、肝が据わってるな。
シニア向け手作り教室、健康運動会――どれも正直テンションの上がらない企画ばかりだ。でもまあ、お年寄り向けの行事なんだから仕方ない。どうせ自分が参加するわけでもないし、文句言わずにやるか。
……ん?
画面が真っ黒のまま、いくらモニターの電源を入れ直しても何も映らない。
仕方なく本体のスイッチを押し直す。二分ほど待っても、やっぱり同じ。
「此の機久しうして廃れ、復た作せず。」
声のした方を振り向くと、温苡蓉が本の返却カートを押しながらこちらを見ていた。仕事中らしい。
「このパソコン、壊れてるのか?」
「然り。」彼女はこくりと頷いた。
「日本語で言え。」
「はぁ……去年から壊れてるけど、ずっと放置されてるみたい。」温苡蓉は机の下にもぐり込み、何かを探している。「何に使うつもり?」
「ボランティアセンターのイベントチラシを作るんだ。」
机の下から「ゴンッ!」と鈍い音が響いた。どうやら文系女子の頭が机にぶつかった音も、結構な破壊力があるらしい。
電源ランプが消えた。温苡蓉がコンセントを抜いたせいだ。
彼女が這い出してくると、目尻にうっすら涙を浮かべていた。
「李奧辛……あなた、ボランティアしてるの?」
ごめん、俺そんな“おばあちゃんを横断歩道で助けそうな善人”タイプには見えないだろ。
「まあね。」説明が面倒なので省略した。
「家にパソコンないの?」
「あったらわざわざ図書館なんか来ないって。」椅子にもたれて、方向性を失った干物みたいに脱力する。
図書館のパソコンが使えないなら、ネットカフェしかない。だがあそこはうるさい上に臭い。できれば行きたくない。
温苡蓉は拳を手のひらに打ち付け、「ぱん!」と音を立てて言った。
「うちの部室にもパソコンあるよ。プリンターも!」
「読書部の? でも俺、部員じゃないけど使えるの?」
「じゃあ入部すればいいじゃない。本好きなんでしょ?」
確かに筋は通ってる。でも“パソコンを使いたいから入部”って、何か根本的に間違ってる気がする。
「ほら、これ。」温苡蓉はどこからともなく入部申請書を取り出した。
……お前ら、どうしてそんなものを常備してるんだ。
まあいい。どうせボランティアも終わったら辞めるつもりだし、もう一つ増えても構わない。
書類を書きながら、前に気になっていたことを聞いてみた。
「この前の件、結局うまく本をすり替えられたのか?」
「然り。本は移し終え、誰にも気付かれず。恩公の助け、蓉、五臓六腑に染み渡り候。」
「……なんであの時レシピ本なんか見てたんだ? 料理も好きなのか?」入部理由の欄にペンが止まる。『パソコン目的』は正直すぎるだろうか。
「う……」温苡蓉は顔を赤らめ、目を逸らし、内股で指をもじもじさせながら語り始めた。
「中学三年の時も、いつものようにこの図書館に来てたの。欲しい本が高いところにあって、脚立を持ってきたんだけど、取った瞬間にバランスを崩して――」
俺の脳内に浮かぶのは、沈辰澤のヒーロー登場シーン。
「でもその時、辰澤が下で私の……も、ももを支えてくれて、落ちずに済んだの。」
はいはい、分かりました。
さすが恋愛コメの主人公、現実でもテンプレイベントを引き当てる。
頬を両手で押さえながら彼女は揺れた。「だから彼の誕生日に、お礼の手料理を作ろうと思って……」
俺が一日かけて探した本のお礼はサイダー一本だったけどな。
「書けた。これでいいだろ?」
「うん! 提出しておくね。申請書を出した時点で準部員扱いになるから、もう堂々とパソコン使えるよ。」
読書部の部室は中学棟の裏側にあり、温苡蓉が案内してくれた。
扉を開けると――俺の想像していた「本の虫が並んで読書感想を発表する光景」はなかった。
中には長机が一つ、椅子が六脚、本棚はドア二枚分ほどしかない。
「人っ子一人いないけど?」まさか「廃部寸前→救世主入部」パターンか?
「読書とは、場所を選ばぬものなり。」腕を組んで偉そうに言う。
今度は無事にパソコンが起動し、温苡蓉は本棚から詩集を抜き取り、優雅に読書を始めた。
家にパソコンがない俺は操作に不慣れで、試行錯誤の末、ようやくそれっぽいチラシを作り上げた。
空が暗くなり始め、彼女にこれ以上付き合わせるのも悪いので、一枚だけ印刷して確認することに。
プリンターが「ガガガッ」と音を立て、紙が何枚も吐き出される。
「あ……」出てきたのは俺のチラシじゃない。読書感想文、詩の引用、卒アル写真、小説の表紙……意味不明なデータの山。
「……どうして履歴ファイルまで全部印刷してるの?」温苡蓉は動こうともせず、呆れ顔で俺を見た。まるで「現代っ子なのにパソコンも使えないの?」とでも言いたげだ。
ようやく目的のチラシを印刷したが、紙面には黒い点々がびっしり。
「プリンター壊れてない? トナー漏れてる感じだぞ。」差し出すと、彼女はまず爆笑した。
「だっさ! あははは!」
「温苡蓉、先生に“図書館でサイダー飲んでた”って言うぞ?」
「ごめんなさい、調子に乗りました……」笑顔が一瞬で消える。「このプリンター、前から調子悪いの。ご迷惑おかけして申し訳ありません。」
――なるほど、これが“温苡蓉の取り扱い説明書”か。
使える。今後、脅し文句として採用しよう。
「まあいいや、データは作れたし。」
「よければ引き出しのUSBメモリを使ってください。」
「もし俺が沈辰澤なら、絶対お前を彼女に選ぶな。」
「ほ、ほんとに!?」沈辰澤の名を出した瞬間、老成した彼女が一瞬で恋する乙女へ変わった。
データをコピーして帰ろうとすると、彼女が「ちょっと待って」と止めた。
「利用記録を書かないと。」
読書部の部員はプリンターを無料で使えるが、使用者名・時間・枚数を記録する決まりがあるらしい。
そのリストを見ると、俺がさっき印刷したのは前の利用者たちのデータだった。
……よかった、変なもの印刷してた人がいなくて。
「じゃあ、教室に忘れ物取りに行ってくるね。」
「俺は先に帰るか?」
「うん。また後日会いましょう。」
そう言って温苡蓉はバッグを背負い、去っていった。
別にレディファーストを忘れたわけじゃない。まだ外は真っ暗じゃないし、平気だろ。
教室棟を通りかかったとき、足が少しだるくなって階段に腰を下ろす。
五分ほど待って彼女が戻らなければ、様子を見に行こう。もし事件でも起きたら、最後に会ったのが俺だ。冤罪はごめんだし、状況は把握しておきたい。
錆びついたような夕空が、だんだん群青に沈んでいく。
もうすぐ夜。見慣れた校舎も、不気味に変わっていく時間帯だ。もしこのタイミングで誰かが後ろから――
「うわっ!!!」
「うわああああああ!!!」
出た、女の幽霊!
俺は尻もちをつき、転がるように逃げようとしたが、制服の襟を片手でつかまれた。
「なにしてんの、李奧辛?」
背後から聞こえた、聞き覚えのある声。振り返ると――林千柚だった。
「……お前か。」前髪を整えながら答える。
「平然としても、さっきの絶叫は忘れないからね?」彼女は爽やかに笑った。
部活帰りらしく、ラケットを背負い、汗がまだ光っている。
「誰か待ってるの?」
「うん……いや、違う。」
「どっちよ?」
「友達が教室に忘れ物取りに行ってて……俺はここで待ってるだけ。」
「ああ、苡蓉のことね?」
彼女は教室の方を見上げ、特徴的なお団子ヘアが夕陽に照らされて輝いた。
名前を的確に言い当てられ、心臓が冷える。
なんで隠した? なんで“温苡蓉”って名前を言わなかった? 照れた? まさか……好きなの?
いや、違う。絶対違う。でも説明するの、超めんどくさい。
「いや、別に約束したわけじゃないし。彼女が教室に戻るって言ってた時に、ちょうど俺が足休めしてただけだよ。」……あ、これ言い訳くさい。
「でもなんで苡蓉だって分かったんだ?」
林千柚は太陽みたいな笑みを浮かべて言った。
「私、いつもこの時間まで練習してるけど、遅くまで残ってるのは苡蓉くらいだから。――で、“さっき”は二人で何してたの?」
……なんか、今日の林千柚、頭が冴えてる。
このままじゃボロが出る。ここは話題を逸らして逃げるしかない。
「……いや、ただの偶然だよ。それじゃあ林千柚、苡蓉のことよろしく。俺、もう帰る。」
「えっ? もう行くの?」
手を振って全速力で学校を後にした。
……やることは山ほどある。全部、あの沈辰澤のせいで。




