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2-3 流言

 林千柚リン・チエンヨウは毎朝早起きしてランニングする――そう聞いていた。案の定、公園に彼女の姿。小さなお団子がジャージの背で左右に揺れる。


 気づかれない距離で背後についたが、学校でのジョグよりはるかにきつい。というのも、彼女のペースは普通じゃない……速い。それに、いちどに走り切らず、どうでもいいきっかけで急にブレーキをかけるから、体力の消耗がジョグ以上になるのだ。


「わんちゃん! わあ、かわいいわんちゃん~~」

 道で犬を見つければしゃがみこんでモフモフ。だけじゃない。蝶を見れば追いかけてつかまえようとするし、いわゆる“トロい鳥”ことゴイサギを見つけたらもう大変。


 道すがらの誘惑が減ってくると、彼女はまた走り出した。

 この公園は広いのに、四、五周もしてから、タオルを取り出してベンチに腰を下ろす。


 今日は空振りか……と思ったが、彼女が座った場所は、道路一本隔てて沈辰澤シェン・チェンザーの家を正面に臨む位置。噂の信憑性が一段上がった気がした。


 このベンチからは、片想い相手の家が直視できる。……変態ストーカーみたいで、こっちが気まずい。

 ――いや、僕も同類なんだけど。


 登校時刻まではまだ間がある。やがて彼女はのんびりと反対方向へ歩いていく。陳宏寬チェン・ホンカンの情報だと、彼女の家はもっと遠い。つまり――わざわざこの公園まで来て走っている、で、ほぼ確定。


 “彼女は沈辰澤が好きだから、ここに来てる”――これで葉子薫イエ・ズーシンへの報告は済む、か?


 いや、依頼は“噂の真偽”。つまり本当に沈辰澤の家へ入ったのか、何をしたのか、だ。


 今日はここまでに――立ち上がろうとして、脚が言うことを聞かないのに気づく。


 まさか? ずっと張り付いて走ったせいでガス欠?


 半跪きで木にもたれ、起き上がるだけでもやたらしんどい。


 いまさら後悔が二つ。ひとつ、ついて走るんじゃなくて定点待機にすべきだった。もうひとつ、あの一本のモルト味ロングライフ牛乳に釣られて、調査を引き受けたこと。


「坊や、大丈夫か? 具合悪い?」

 はっとすると、太い腕が僕を引き起こした。がっしり体型のおじさん。左腕には目立つ黄色いボランティアの腕章。


「えっと……走ってたら、その……スタミナ切れで……」

 目が回る。再び崩れそうになった僕を、おじさんは無言でおぶい上げた。


 ふかふかのソファの感触で、ゆっくり目を開ける。同時にコップの水が差し出された。

 一気に飲み干すと、ずいぶん楽になる。


 ――ここまで惨めなのは初めてだ。


 コップを受け取ったおじさんが、悪びれもなく訊く。

「千柚の彼氏か?」


 水を飲み終えてからでよかった。でなきゃ確実に噴き出してた。


「ち、違います! なんでそうなるんですか?」……というか、どうして名前を?


「ははは! ずっと後ろについとったからな。歳も近いし。すまんすまん、勘違いや。」

 笑い声も外見どおり豪快だ。


 周りを見回すと、ここは公園脇のボランティア・サービスセンター。

 簡素な内装、段ボールや袋詰めの物資が積まれ、簡易ロッカーと机椅子、給水機。壁の掲示板はびっしり。腕章をつけたボランティアが何人も出入りしている。


「同級生です。林千柚って、ここでよく走ってるんですか?」

 場違い感がすごくて、背筋を伸ばして座ってしまう。


「おう、ほぼ毎朝な。顔合わせるから話すようになって、ボランティアに誘ったんよ。こないだの朝も用具室の片付け手伝ってくれてな。」

 おじさんは菓子を開け、どうぞと勧める。


「彼女が、ボランティアに?」

「名目上は、な。来なくても誰も文句言わん。うちの地区、ボランティアはだいたい勤続五年以上ばっかでな。若い子が一人入るだけで、場が明るくなるんよ。」


 林千柚、自分がマスコット扱いなの、知ってるのか。


 おじさんは一枚つまみ、もごもごと言った。聞き違いかと思った。

「君もやらんか?」


「僕が? えっと……」断る暇もなく、おじさんはどかっと隣に座り、逞しい腕で僕の肩を小突く。

「入ってくれたら、千柚と同じシフト、組長に頼んだるで~?」


 勘違いによる笑顔がすごく苦手だし、そもそもボランティアなんてやる気はない。まして彼女と組むなんて。


「いや、その……」立ち上がって遁走――の予定を、おじさんの腕が首に回り、台詞が強制終了。


「仕事は人に合わせて振るんや。樹木の剪定専門もおるし、設備の修繕係もおる。清掃担当もな。君が入るなら――人気のない隅っこ、二人でお掃除、ってのはどうや? どうや!」

 眩しいほどの眼差し。どうしてそういう妄想に舵を切る。


 そこへ奥の事務室から、おじさんと同年代のおばさんが資料を手に出てきた。こちらも腕章、肩書きは少し上っぽい。

 僕らに気づいて視線を投げる。


「おや? チョンさんのお知り合い?」

「はは! 林千柚の同級生や。彼もチームに入るってさ。」


 ――ん? え? ちょっと待って。


「僕は――」

「ええっ、ほんと!?」

 おばさんは資料を放り、僕のもう片側に素早く腰掛ける。出口、完全封鎖。


 分かった。最初に助けられた時点で、これは罠だったのだ。


「彼、千柚に近づきたくて、こっそり何周もついて走っとったんやて。」

「してない――」

「千柚のガーディアン・エンジェル? かっこいいわぁ!」

「違――」

「わしもな、その歳の頃は好きな子によう話しかけられんでな。分かるわ、その気持ち。」


 降参。完全降参。


「参加します、ボランティア。……でも今日のこと、千柚には内緒でお願いします。」

 菓子を一枚口に放る。――これが、抵抗をやめた者に訪れる超俗的な解放感、というやつか。


 おばさんは破顔し、手品のように志願用紙を取り出した。なるほど、ボランティアはこうして増える。


「活動は強制やないよ。ある時は連絡するから、興味あったらぜひ来てみて!」

 事務室に戻ったおばさんは、ついでに同じ腕章も持ってきた。太字の漢字で「志工」と印字されている。


 僕は首を振る。「体力はあんまりないので、その……」――千柚と比べたら、そりゃあ。


「ほな、パソコンは得意?」

 おばさんは資料をめくり、一枚のチラシ案(内容だけ印刷された下書き)を取り出す。

「毎月、お年寄り向けの催しを二回やっとるんやけど、掲示用のチラシが要るんよ。普段の担当の子が入院してて、よう頼めんでね……」


「でも、デザインは詳しくなくて。」後頭部をかく。


 おばさんは人差し指を顎に当て、天井のファンでも見ればアイデアが降ってくるみたいに顔を上げる。

「じゃ、山の清掃は? ついでに登山もできて一石二鳥!」

「チラシの詳細、教えてください。」


 もう結果は見えた。ここで粘っても無意味だ。


 ――僕の最大の弱点は、“NO”が言えないことだ。

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