008「マナスコープ」
工房の奥。金属を叩く音や研磨機の摩擦音が響く一角に、シンプルな金属製の台が運び込まれた。その上に、完成したばかりの検出器――アレンはこれを「マナスコープ」と名付けた――が慎重に固定される。掌に乗るほどの大きさのガラス板に、導魔石の微粉末が均一に塗布されたその装置は、アレンの研究の、まさに最初の具体的な成果だった。
工房の職人たちがざわつく中、グエンは腕を組み、鋭い眼光でマナスコープを見つめていた。その表情は、期待と、そしてわずかな懐疑が入り混じっている。リアはアレンの隣に立ち、興奮を隠しきれない様子でマナスコープを覗き込もうとしている。エルン伯爵もまた、アレンたちの側に控えていた。
「アレン様、これが……本当に魔法を見せてくれるものなんですか?」
リアが目を輝かせながら、アレンに尋ねた。
「うん、まだ試作段階だけど、きっと見えるはずだよ。まずは風魔法から試してみよう」
アレンは自信に満ちた声で答える。グエンや職人たちの協力でようやく作り上げた装置だ。簡単なテストは先ほど行ったので、自信はある。アレンは、マナスコープの数歩手前に立つセレスティアに指示を出した。
「セレスティア、いつも通り、風魔法をお願い。詠唱も変えなくていいから」
「かしこまりました、アレン様」
セレスティアはわずかに緊張した面持ちで頷いた。彼女は深呼吸を一つすると、右手を前方に掲げ、いつもの詠唱を始める。
「〈風よ、集い、我が手に宿れ!〉」
詠唱と共に、セレスティアの掌に、目には見えない風の魔力が集まり始める。その瞬間、マナスコープのガラス板に、淡い波紋が鮮やかに浮かび上がった。
「おお……っ!」
リアとセレスティア、そして工房の職人たちから、同時に感嘆の声が漏れた。グエンもまた、それまで硬かった表情を崩し、わずかに目を見開いている。光の波紋は、まるで水面に石を投げ入れたように中心から外側へと広がり、そして規則的に干渉し合うことで、幾重もの美しい模様を描き出していた。アレンは、その波紋の変化を瞬きもせずに見つめる。
(やっぱり、魔法の鍵は「波」だ!)
アレンは、事前に描いていた仮説の波形と、マナスコープが映し出す現実の波紋を脳内で重ね合わせた。魔力がセレスティアの手から離れて宙に留まる間、マナスコープの波紋は持続し、解除されるのと同時に、その輝きもゆっくりと薄れていった。
「すごい、すごい! 本当に光の模様が見えるわ!」
リアは興奮を隠しきれない様子で、マナスコープを覗き込んでいる。その瞳は、新しい発見への純粋な喜びに満ちていた。
「詠唱に合わせて、波がうねるように広がっていきましたね……アレン様、これが仰っていた『法則』なのですか?」
セレスティアは、驚き混じりの表情でアレンに尋ねた。その顔には、若干の畏敬の念が見て取れる。
工房の職人たちも、ざわめきながらマナスコープに群がっていた。「本当に魔法の光が見えるとは」「こんなものが作れるなんて」と、口々に驚きの声を上げている。
グエンは静かにアレンに近づいた。その細い目が、アレンの顔とマナスコープを交互に見つめる。
「アレン様……これが貴方の見たかったものですか?」
彼の声には目の前で起きた現象に対する多少の混乱と、そして深い興奮が混じっていた。
「うん。おそらくこの波の周期や振幅、広がり方……これらには、必ず法則がある。次はリアの魔法を試してみよう。リア、お願いできるかな?」
アレンは興奮気味にリアに呼びかけた。
「もちろんよ!」
今度はリアがマナスコープの前に立ち、氷魔法の詠唱を始める。
「〈氷よ、集い、我が力となれ!〉」
詠唱が響くと同時に、リアの手のひらに凍てつくような冷気が生み出される。その瞬間、マナスコープのガラス板に、淡い水色の光の波紋が浮かび上がった。
「さっきと模様が違う……!」
セレスティアが声を上げた。水魔法の波紋は、ゆるやかに、うねるように振動しているように見えた。風魔法の時のシャープな広がりとは明らかに異なる。グエンも息を呑んで見つめていた。
(ビンゴだ! 風魔法よりも低周波の波だ……! やはり、属性はマナの波の周波数に対応している!)
アレンは確信した。この二つの観測結果は、彼の「属性=周波数」という仮説を強力に裏付けるものだった。異なる魔法が、異なる周波数特性を持っている。この事実は、魔法が単なる奇跡ではなく、物理的な法則に従う現象であることを決定的に示すものだとアレンは感じた。
「どう? リア、セレスティア。見えただろう? 風魔法と氷魔法で、波の模様が全然違うんだ」
アレンは二人の顔を見上げた。
「はい! まさに、別物でした! 氷魔法の波は、もっと大きく、ゆるやかに揺れるみたいで……」
「アレン様が仰っていた『法則』というのはこういうものなのですね……なるほど」
リアは純粋に面白いものを発見したような反応だが、セレスティアの方は深く何かを考えている様子だった。たった六歳の子供が、魔法という現象をここまで深く考えようとすることに末恐ろしい何かを感じているような様子だ。しかし、末恐ろしくはあるが、アレンという少年がこの一年でやってきたことを考えれば、当たり前のような気もしてきていた。
グエンはといえば、アレンの言葉とマナスコープが映し出す光景に、完全に魅入られていた。彼の脳裏には、これまで感覚と経験に頼り、時に途方もない試行錯誤を繰り返してきた自身の職人としての半生が、走馬灯のように駆け巡る。もし、この「法則」が本当に存在するのなら、魔道具製作の常識そのものが覆されるに違いない。
「アレン様……この装置は、まさに奇跡を解き明かす鍵だ。いや、奇跡を奇跡でなくす、とでも言えばいいのか……」
グエンは震える声で呟いた。彼の職人としての探求心に、新たな火が燃え上がろうとしていた。
その後もアレンは、マナスコープが映し出す光の波紋を注意深く観察し、その周期や形状、持続時間などを、自身の実験ノートに詳細に記録していった。彼にとっては、この波紋の一つ一つが、魔法を解き明かすための重要なデータだった。
「よし、次は僕の同じ火魔法でも、詠唱の長さとかを変えて試してみよう。そうすれば、何が波の形に影響するのか、もっと詳しく分かるはずだ」
アレンの探求心は尽きることがない。マナスコープという新たなツールを手に入れたことで、彼の魔法物理学は、いよいよ本格的な「実験科学」のフェーズへと突入したのであった。工房の職人たちも、アレンの指示に従い、マナスコープの微調整や、実験環境の整備に積極的に協力した。彼らは、目の前で繰り広げられる「魔法の法則の顕現」に、純粋な好奇心と職人としての探求心を刺激されていた。
その日の夜、アレンは工房の一角に特別に用意された仮眠室で、自身の実験ノートに今日の成果を詳細に書き記していた。
『6歳と52日。
本日、アークランド工房製「マナスコープ」の試作品を用いた初めての観測を実施した。
おそらくマナは、それぞれ異なる周波数を持つ波動として存在し、術者の意識と詠唱がその周波数を特定の形へと収束させることで、我々が「属性」として認識する形に制御されている。属性とは、マナの波の周波数帯に対応する概念である、という仮説は、今回の観測により強く裏付けられたといえるだろう。
とすれば、詠唱や精神集中は、波の初期条件を設定する「演算子」のような役割を果たしている可能性が高い。今後の課題は、この演算子が波の形状や出力に与える影響を定量的に分析すること。マナの流速や密度といった概念を数学的にどう扱うべきかを考えていく必要がある。
容易ではないがマナの動きに関して「運動方程式」や「マクスウェル方程式」のようなものを確立していくことが、次の目標だと言えるだろう。
魔法の「基本方程式」を探る。
それが僕がこの世界で成すべき「救済」への、確かな一歩なのだと思う。』
数日後、アレンはリアと共に、アークランド家の工房で再びマナスコープを用いた実験を繰り返していた。セレスティアも協力し、様々な条件で魔法を発動させる。工房の職人たちも、作業の手を止めて、アレンたちの実験を見守っている。
「今度は詠唱を少しだけ短くしてみて」
「魔力を込める強さを、少しだけ弱く」
「イメージする風の強さを、いつもより小さくしてみて」
アレンの指示は、これまでの「感覚」に頼る魔法とは全く異なるものだった。セレスティアもリアも、最初は戸惑いを見せたが、その指示に従って魔法を発動すると、マナスコープの波紋が確かに変化するのを目の当たりにし、驚きと新たな発見に目を輝かせた。
詠唱の長さや、精神集中の度合い、イメージの鮮明さ。それら「意識」と呼ばれる不確かな要素が、マナスコープの波紋に微細な変化をもたらすことを、アレンはデータとして記録していった。それは、魔法が単なる物理現象だけでなく、術者の意識という「情報」が深く関わる、複雑なシステムであることを示唆するものだった。
「面白いね、アレン様! 私の気がちょっと逸れただけで、波の模様が小さくなる!」
リアは、自身の小さな失敗すらも、新しい発見として楽しんでいた。彼女の純粋な好奇心は、アレンにとってかけがえのない協力者となっていた。グエンもまた、アレンの実験結果に興味津々で、時折メモを取りながらその様子を観察していた。
そんな時間が過ぎ、気づけばアレンが公爵家に帰る前日になっていた。
その日の「実験」も一段落ついて、護衛であるセレスティアとともにアレンがリアと客間で休んでいたとき、リアがアレンに尋ねた。
「アレン様は、どうしてこんなに魔法の『なぜ』を知りたいの?」
それは、アレンの核心を突く質問だと言っていい。
わずかな逡巡ののち、アレンは自らが書き記してきたノートを手に取り、それをじっと見つめながら答えた。
「今は魔法を誰もが使えるわけではないだろう? 魔法を使えるのは才能がある人だけで、みんなに平等に与えられたものじゃない。けれど、僕は魔法を『特定の誰かの才能』とか、『高貴な血筋』だとか関係なく使えるようにしたい」
アレンは言葉を選びながら続けた。
「誰でも、『正しい手順』を踏めば魔法の恩恵を受けられる、そんな世界が良いと思う」
アレンが思い浮かべるのは、遠い世界の記憶。かつて、人間は『巨人の肩』に乗って宇宙まで飛び出していったのだ。この世界で、それができないなどということはない。同じ物理法則の下にいるならば、この世界の人類が宇宙へ飛び出す日もまた来るのかもしれない。数百年後にでもそんな未来が来たら大層面白いだろうな、と思ってアレンは笑った。
「もちろん剣術だって、勉強だって、みんな平等ではないかもしれない。けどね、『そういうものだ』って納得するよりも、『こうだったら良いな』って進み続ける方が、世界はもっと良くなると僕は思うんだ」
「……アレン様は、すごいね」
リアは素直な憧れを込めて、そう呟いた。彼女にアレンの言葉のすべてが伝わったとはアレンも思っていない。それでも、リアには同い年のアレンが自分の抱くような単純な好奇心だけではなく、もっと広い世界が見えているのだと感じられた。
セレスティアもまた、アレンの言葉に静かに耳を傾けていた。彼女は、アレンの「遊び」が、単なる子供の好奇心ではないことを理解していた。彼の瞳の奥にはずっと、世界を変えようとする、確固たる意志が宿っていたのだと理解した。そして、その意志を支えるのが、彼の持つこの「誰でも魔法の恩恵が受けられる世界」という理想なのだと、この日初めて知った。
(すごい……アレン様は、きっと本当に世界を変えてしまうのかも……)
この少年が将来どのように世界を塗り替えていくのかを見守っていきたい。
いや、願わくば、ほんの少しでもその支えになりたい。
そんな思いが、セレスティアの中に芽生えた日でもあった。