005
書斎の窓から差し込む午後の光は、羊皮紙の上に置かれた導魔石を淡く照らしていた。アレンはそれを掌に乗せ、じっと見つめる。セレスティアが発動する風魔法、タリオの水魔法、そしてアレン自身の火魔法。半年をかけ、6歳になったアレンは様々な条件下で試行を重ねた。結果、導魔石の反応は明確に異なる光の模様を示し、「魔法の波動性」という仮説をさらに強固にしていた。だが、彼が知りたいのはもっと深い部分だ。その波動がどのような「形」をしているのか、そしてそれが時間とともにどう変化するのか。今の導魔石一つでは、あまりにも情報が少なすぎた。
(導魔石は、あくまで限定された範囲のセンサーだ。これじゃあ、現象の全体像は掴めない……)
アレンの脳裏に、かつて地球にあった精密な測定器の姿がよぎる。例えば、X線回折測定器。あれは、X線を物質に当て、その回折パターンを検出器の平面で捉えることで、物質の結晶構造を明らかにする装置だ。あんな感じの「検出器」があれば、魔法の全体像を捉えられるかもしれない。
(そうだ、魔法を“面”で捉えるんだ。導魔石を薄い膜みたいに加工して、そこに魔法を当てれば、干渉縞を可視化できるんじゃないか?)
まるで電流が流れるように、アレンの思考は一気に加速した。単一の導魔石ではなく、細かく砕いた導魔石の粉末を膜状に成形し、それを並べる。あるいは、透明な板に導魔石の微粒子を均一に埋め込む。そうすれば、マナの波がその膜を通過する際に生じる干渉の模様が浮かび上がるはずだ。
もしそれができれば、詠唱や身振りが魔法に与える影響、魔法の距離に応じた変化、さらには異なる属性間の相互作用までもが、より詳細に解析できるようになるかもしれない。
(でも、どうやって作る? 5歳の俺じゃ、細かい加工は無理だ……)
問題は山積していた。導魔石を薄く加工する技術、それを均一に並べる技術、そしてそれらを魔法の影響を受けにくい素材で固定する技術。
地球の最先端技術であれば容易いことも、この世界では困難を極める。公爵家の使用人の中に、そうした精密な細工ができる職人がいるだろうか。あるいは、王都の職人街に頼むべきか。しかし、5歳の子供が奇妙な依頼をすれば、却って目を引いてしまうかもしれない。
「アレン様、いらっしゃいますか?」
ちょうどその時、控えめなノックと共にセレスティアの声が扉の向こうから聞こえた。アレンは慌てて導魔石を机に置き、ノートを閉じた。
「うん、いるよ。入っていいよ、セレスティア」
扉が開くと、セレスティアが静かに顔を覗かせた。
「作業中でしたか? 申し訳ありません、お邪魔をしてしまいました」
「いや、大丈夫。ちょうど休憩しようと思ってたところだよ。何か用?」
セレスティアは一歩部屋に入り、少し躊躇いがちに言った。
「それが……お客様がいらっしゃっています。旦那様と奥様がお会いになっておられますので、応接室へお越しくださいませ」
応接室の扉が開くと、アレンの父母と共に、見慣れない中年の男性と一人の少女が座っていた。
中年の男性は、いかにも軍人らしい質実剛健な制服を身につけ、背筋を伸ばして座っている。彼の隣に座る少女は、銀色の長い髪は背中まで伸び、光を反射して煌めいている。澄んだ青い瞳は知性を感じさせ、整った顔立ちにはすでに将来の美しさが宿っていた。上質な仕立てのドレスを身につけているが、どこか落ち着きがなく、座った椅子の上でわずかに身体を揺らしている。
「アレン、遅かったな。こちらはアークランド伯爵家のエルン=アークランド伯爵と、ご息女のリア様だ」
公爵であるアレンの父親が、穏やかな声で紹介した。隣には公爵夫人も微笑みを浮かべている。
(うわっ、綺麗な子だな……セレスティアも元貴族なだけあって美人だけど、この子は本当に人形みたいだ)
エルン伯爵はスッと立ち上がると、公爵夫妻に向かって深々と頭を下げた。
「シルフォード公爵閣下、奥様、本日は突然のご訪問、誠に恐縮でございます。末娘のリアが、かねてよりアレン様のお噂を耳にし、一度拝謁を願っておりまして……無理を申し上げました」
「構わんよ、エルン伯爵。久方ぶりの顔合わせだ。堅苦しいことは抜きにしよう」
公爵は朗らかに笑った。その声音には、エルン伯爵との親密さが自然と滲んでいた。
「リア様、こちらが私の次男、アレンだ」
公爵の言葉に促され、リアも優雅な礼を見せた。アレンもそれに倣い、頭を下げて挨拶する。
「アレン=シルフォードと申します。お初にお目にかかります、リア様」
「リア=アークランドと申します。アレン様にお目にかかれ、光栄に存じます」
リアの言葉は完璧な貴族令嬢のそれだった。しかし、その瞳はアレンをじっと見つめ、まるで何かを探るような、あるいは品定めするような視線を送っていた。
(なんだろう? あんま見られるとちょっと居心地悪いな……)
挨拶が終わると、公爵がエルン伯爵に語りかけた。
「さて、エルン伯爵。本題に関しては、私の執務室で話をしようじゃないか」
「はっ、畏まりました」
エルン伯爵は恭しく頷き、公爵と共に応接室を後にした。公爵夫人もリアに「リア様、アレンとゆっくりお話しくださいね」と優しく声をかけ、部屋を出て行った。部屋に残されたのはアレン、リア、そしてセレスティアの三人だけとなった。空気がわずかに変わる。
リアはアレンの向かいに座り直すと、少し身を乗り出した。その仕草は、貴族令嬢というより、年相応の子供らしい前のめりな好奇心を覗かせていた。
「アレン様は、ご自宅で魔導書をたくさん読んでるって、父上が言ってたの。……本当ですか?」
その率直な問いに、アレンは面食らった。アレンがやっている「研究」の噂が王都にまで広まっているのだろうか? それとも、父上がアークランド伯爵に喋っただけだろうか。
「ああ、まあ……興味があるからね。いろいろ読んでるよ」
アレンは曖昧に答える。だが、リアの瞳は真っ直ぐとアレンの方を見つめていた。
「どんな本? 私も氷魔法はちょっとだけ得意なのだけれど、貴方はどんな属性の本を読んでいるの?」
彼女の真っ直ぐな問いに、アレンは戸惑いつつも、正直に答えることにした。
「んー……例えば、『神託による六属性魔法論』とか……」
アレンがそう言うと、リアはむっ、と頬を膨らませた。
「えー、あんな本読んでるの? あの本、なんでもかんでも『神様がくれたもの』って書いてあるだけじゃない! 先生も聞いちゃいけませんってはぐらかすし、面白くないわ」
リアの言葉は、まるでアレンの思考を試すかのようだった。しかし、その本音には、純粋な不満と、子供らしい探求心が混じっていた。
(この子、あの本の内容に疑問を持ってるのか? 面白いな……それに、もう氷魔法が使えるのか)
アレンは5歳で魔法を発動させたが、アレは「魔法陣」というある種のインチキによるものだ。アレンはあの後、6歳の誕生日を迎える頃に「従来の方法」で魔法を発動している。
6歳での単独魔法発動。しかしそれでも十分に世間的には「天才」と呼ばれるに相応しい神童っぷりである。そしてアレンの目の前にいるリアも、また別の「氷魔法の天才」なのだった。
「うん、僕からしてもあの本は『なぜ』が足りないんだ。どうして魔法が発動するのか、どうして特定の属性が宿るのか。それはどこにも書かれていない」
アレンは、つい本音を漏らした。この少女なら、少しは話が通じるかもしれない。そう直感したからだ。
「『なぜ』……」
リアはわずかに目を伏せ、首を傾げた。その仕草は子供らしかったが、瞳の奥には何かを考えるような真剣な光が宿っていた。セレスティアが心配そうにアレンを見つめている。だが、アレンは構わず続けた。
「例えば、火魔法。あれは、ただ『火よ出でよ』と祈れば出るものじゃない。セレスティアが使う風魔法も、タリオさん……うちの料理人が使う水魔法も、それぞれに微妙な違いがある。それは、才能とか経験とか言われるけど、きっとそこにはもっと明確な『ルール』があるはずなんだ」
リアはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳が、まっすぐにアレンを捉える。
「ルール……? え、でも、魔法は神様がくれた奇跡だから、難しいこと考えちゃダメって……けど」
リアは戸惑った様子で口にした。だが、アレンの言葉に興味を引かれているのは明らかだった。
「私の父上は、軍の魔法使いさんたちのお仕事を見てるの。みんな、もっと強い魔法が出るようにって、毎日練習してるけど、どうしてそうなるのか、誰も教えてくれない。ただ『もっと集中しろ』とか、『気持ちを込めて』とか……」
リアの言葉は、アレンがこの世界で感じていた魔法教育の「感覚偏重」そのものだった。彼女もまた、魔法の「なぜ」を求めている。
(この子も、感覚だけじゃなくて、もっと知りたいって思ってるんだな)
「……君は、きっと僕と同じだ」
アレンは、自然とそう口にしていた。彼はリアに、自分が導魔石を改良してマナの波動を可視化しようとしていること、そしてそれを「面」で捉えることで、魔法の真の姿を解き明かしたいと考えていることを、6歳の子供にも伝わるように、できるだけ噛み砕いて語った。まるで、長年抱えていた秘密を打ち明けるかのように。
リアは、アレンの言葉を一切遮ることなく、真剣な眼差しで聞き入っていた。その瞳には、最初に見せた探るような色ではなく、純粋な好奇心と、そして共感が宿っていた。
「……それって、魔法を、じーっと見て、どうなってるか分かるってこと?」
リアは目を丸くして尋ねた。その声には、僅かな興奮と、理知的な驚きが宿っていた。
(伯爵家のご令嬢、流石に頭がいいな……)
リアの心に、小さな驚きが広がっていく。
「うん。そうすれば、火魔法の波がどういう形をしているか、水魔法とどう違うのか、ちゃんとわかるはずなんだ」
「へえ! それってすごい! 教会の先生にも教えてあげたら、びっくりするかな?」
リアは純粋な好奇心からそう言った。アレンは苦笑いする。教会の反応は、びっくりどころではないだろう。他の人には出来るだけ喋らないでね、と念を押してからアレンは続けた。
「ただ、問題があってね。導魔石を薄く加工したり、均一に並べたりする技術がないんだ。公爵家のお抱え職人さんにお願いできるかな、って考えているんだけど……」
アレンがそう言うと、リアは一瞬考え込んだ。そして、ふと顔を上げた。
「……父上は魔導具を作る職人さんたちと仲良しだから、 すごく細かいものが作れる人たちもいるって聞いたわ。もし、アレン様がどんな風に作りたいか、絵を描いて見せてくれたら、父上に頼んでもいいわよ?」
その言葉は、アレンにとってまさに青天の霹靂だった。王都の職人、しかも魔導具の加工に長けた者。それは、彼が求めていた最適な協力者ではないか。
「本当かい、リア!? 助かるよ!」
アレンは純粋な喜びを露わにした。リアも嬉しそうに頷く。
そんな二人の様子を、セレスティアは驚いた顔で見つめていた。出会ったばかりの二人の子供が、互いの持つ「好奇心」を理解し合い、協力を申し出ている。その光景は、セレスティアの知る貴族の子女の交流とは、あまりにもかけ離れていた。
「うん! アレン様の研究、私も楽しみだから。 いつか魔法のことがちゃんと分かったら、私にも教えてね?」
リアはそう言って、再び完璧な礼を見せた。その表情には、初めて会った時のような緊張はもうなく、アレンに対する確かな期待と、かすかな興奮が宿っていた。
その日の夕食時、リアの父親であるエルン=アークランド伯爵は、アレンの父親であるシルフォード公爵に、リアからの「お願い」を伝えた。魔導具加工の職人をアレンの「遊び」に協力させたいという、一見奇妙な依頼だった。公爵は、息子アレンの並外れた好奇心と、エルン伯爵が若い二人に抱いている期待感を感じ取り、その内容を承諾したのだった。