002
朝露が残る中庭に一歩足を踏み出すと、足元の芝は柔らかく、心地よい湿り気を帯びていた。世界はまるで、指先に「物質の手応え」が伝わってくるかのような精密さで存在している。それが、ここが幻ではなく紛れもない現実であると、改めてアレンに実感させた。
(温度、湿度、重力……感覚的に地球と差はないな)
頭の中で、観測可能な要素を一つ一つ確認しながら足を進めていく。これはもはやアレンにとっては癖のようなものだった。置かれた状況も、この世界の技術水準も、文化も分からない以上、まずすべきは徹底的なフィールドワークだ。
「あちらの東庭には温室と薬草棚がございます。昨夜は風が強かったので、少し散らかっているかもしれませんが……」
傍を歩くセレスティアが、微笑みながら案内してくれる。その歩調は、あくまでアレンの小さな足に合わせた穏やかなものだった。彼女は年若いながらも、振る舞いは常に洗練されている。言葉遣い、立ち位置、周囲を警戒する仕草。すべてが、貴族の子息を守るために鍛え上げられた“護衛”としてのそれだった。
「セレスティアって、剣が得意なんだよね?」
何気なくアレンが尋ねてみると、一瞬だけ視線を揺らしてから、控えめに頷いた。
「はい。未熟ながら、アレン様の護衛を仰せつかっておりますので……剣術、体術、そして少しだけ、魔法の心得もございます」
「魔法も?」
「ええ。私が使えるのは風属性の、簡単な加速術と、足音を消すための静音術程度ですが……。お恥ずかしいものです」
(魔法はこの世界では、貴族階級の特権のようなもの。……確かセレスティアは没落した貴族の出身だったっけ)
改めて、この世界の「現実」がアレンの脳に深く浸透していく。魔法という現象が実在し、一つの体系として機能している。それは社会制度とも深く結びつき、この世界の一部として当たり前に受け入れられている。そんなものが目の前にあるのに、科学者として興味が湧かないはずがなかった。
「その魔法って、どうやって使うの? ……説明、できる?」
セレスティアは少し困ったように首を傾げた。
「“感覚で”としか申し上げられませんね……。魔法の発動にはマナの流れを意識し、風の精にささやくような、あるいは鼓動を合わせるような……」
彼女の言葉はあまりにも抽象的だったが、それがこの世界における魔法理解の限界なのだろう。つまり、“直感に依存した現象操作”――そこには、科学が切り込み得る余地がある。武には「武術」がある。ならば魔法にも「魔術」があって然るべきだ。しかしこの世界における「魔法」は、科学的な知見にまだ乏しい……というよりも、土台となる数学をはじめとする科学がまだ未発達なのだ。
「なるほど……」
そんなやり取りの最中、俺の視線はふと庭の一角に止まった。噴水の縁に、何か薄く光るものが落ちている。近づいて拾い上げると、それは淡く発光する小さな石だった。
「これは?」
「それは“導魔石”ですね。魔力の流れを感じると、淡く反応する石です。あまり高価なものではありませんが……教育目的でよく使われています」
(マナの流れを可視化できる、天然のセンサーみたいなものか?)
「これ、光らせられる?」
アレンはセレスティアに導魔石を渡す。セレスティアは導魔石を握り、呼吸を整える。僅かに淡い光が石から漏れ出て、石の表面には光の濃淡で模様のようなものが浮き出ている。
「おお……っ!」
(光の濃淡は魔力の密度に依存しているのか?……いや、単に密度じゃなく"流速密度"なのかもしれないな……なるほど、これは面白い……!)
「あ、あの……アレン様? そろそろよろしいでしょうか……」
「あ、ああ、すまない。もうやめていいよ」
セレスティアは魔導石を元の位置に戻した。
「アレン様は魔法にご興味があるのですか?」
「うん。……そうだ、魔法に関する本とかが置いてある部屋とかないかな?」
「書庫の事ですか? 旦那様の許可が降りればおそらくは出入りできると思いますが……」
何やら言い淀んだ様子のセレスティアを不思議そうに見る。
「アレン様、本を読むにはまずは読み書きを覚えないといけませんね」
「あっ」
魔法を研究とかそれ以前に、できるだけ早くその土俵に自分が立つことが必要だということを今更ながらにアレンは認識するのだった。
その日の夕食時。アレンは公爵家の当主である父親に「勉強したい!」と駄々をこね、結果的には許可された。5歳にはまだ早いのではないかと公爵夫人は言っていたが、早い分に困ることはないだろうと判断されたのだった。
結果、アレンにはまずはセレスティアが簡単な読み書きやこの世界の歴史などを教えることになった。その中には算術も含まれてはいたが……。
(まぁ、算術の方は期待しないでおこう……たぶんマトモにやっていたら足し算とか引き算を数か月かけて学ぶとかいうことになりそうだし)
それから2ヶ月ほど。アレンはセレスティアから教われるだけの読み書きと、この世界に関する基礎知識を習得し、自分で勉強を始められるだけの力を手に入れた。セレスティアは「剣術ばかりで私は勉強の方はからっきしで……」と謙遜していたが、王立学院という国内トップの学園の卒業者なだけあって、教え方はかなり上手かった。アレンは算術の授業は1回学んだことは「勉強した」ということにしてとっとと次の内容を要求していき、セレスティアが算術で教えられることは何もなくなってしまった。
それは元・天才物理学者としての知識を持つアレンにとっては当たり前のことだったが、セレスティアは目の前の5歳児がみるみる算術を習得していくように見えていただろう。
まぁ何はともあれ、アレンは「自学」のために必要な知識を手に入れることができた。やはり読み書きができるのは素晴らしいことだと改めて感じながら、アレンは父にねだった安価な羊皮紙とペンを持って、セレスティアの案内で書斎へと向かった。
「うおぉ……すげー……」
それは書斎というよりも、完全に図書館といった風貌であった。棚は天井近くまで積み上がり、色あせた背表紙が幾層にも重なっている。革製の装丁や金箔押しの装飾が施された本もあれば、木板と紐で閉じられた実用的な帳簿のようなものもあった。木の香りとインクの匂い、紙の乾いた空気が鼻腔をくすぐる。
中央には重厚な机と、読書用のランプが置かれていた。窓際には読書用の椅子があり、朝の光が差し込む今の時間には絶好の読書環境だ。
(……ああ、たまらない! こんな素晴らしい場所が家にあったなんて!)
静寂に包まれた、知識と理解の探求の場。研究者にとってこれ以上の聖域はないと、アレンは歓喜に打ち震えた。
「いらっしゃる際は、灯りと換気にお気をつけくださいませ。あと、こちらの棚は触れないようにとのお達しでございます。……旦那様の御書架ですので」
「うん、わかった」
セレスティアからひととおり注意事項を教わると、アレンはさっそく本棚へと向かった。文字体系がこの世界独自のものである以上、できるだけ早く「読む練習」をする必要があると考えたのだ。まずは子供向けの図鑑、伝承、歴史書といった簡単な資料から手に取っていった。習ったばかりの言語を可能な限り頭に定着させ、段階的に難易度を上げていく。それから数日をかけて、だんだんと魔法に関する本も漠然と理解できるようになった。書庫の使い方に問題がないと判断したのか、その間はセレスティアも別の仕事をするようになった。
つまり、この書庫には今、アレンが一人だけ。数ヶ月という時間をかけて、誰の目を気にすることもなく、ようやくこの世界の魔法を研究できる時がやってきたのだ。アレンはその日から早速、自分の”ノート”を作り始めた。
(セレスティアに教わったところによると、“マナ”という存在が生命活動と深く関係しているらしい。呼吸と同じように、術者はマナを吸収・放出し、それを使って魔法を発動する……か)
数冊の書物を机に広げ、アレンは筆を走らせる。書き慣れない筆記具と羊皮紙だが、彼の手は迷いなく動く。そこに書いてある言語は、この世界にはない、かつて異なる世界で用いられていた言語と数字だった。
これは門外不出、誰にも見られてはいけないアレンだけの「実験ノート」だ。おそらく地球の科学者であれば誰もがつけているだろう、自らの研究を振り返すための最も重要な記録である。
『5歳と151日。
今日から魔法の研究を本格的に始める。まずは今知っている「魔法」という現象について整理が必要だ。
(定義)魔法とは「外的媒体(詠唱・魔法陣・導魔石など)を通じて、周囲に存在する"マナ"を意図的に操作し、現象を発現させるもの」である。
(仮定)マナとは何らかの粒子であり、属性によって性質が変化する。詠唱や魔法陣といった外的媒体を通じて、選択的に”特定の属性のマナ”を取り出して制御可能な出力を生み出している
(今後の知りたいこと)
・導魔石の発光現象は何に由来しているのか? マナか、あるいは”マナの流れ”か
・魔法の属性ごとの差は何か?
・マナは本当に粒子だろうか?
』
(1つずつ再現性が取れれば、この世界の魔法も"科学"で扱える……。それがまず、これから始める研究の第一歩だ)
自ら書いた手稿を横目に、机の上に広げられた一冊の書物を手に取る。タイトルは「神託による六属性魔法論」。表紙には古びた金文字で“火・水・風・土・光・闇”の属性に対応したルーンが描かれており、本文は信仰的要素を多分に含んだ内容だった。しかしこれは一応のところ、教会が公式に「魔法の理論」として発表しているものだ。
(これがこの世界での“魔法理論”……理論というより、教義だな)
術式は「女神の加護により、術者によって特定の属性が宿り、感情と祈りに応じて現象化する」とある。再現性やエネルギー量といった観点の記述は見当たらない。
ページを繰るたびに、アレンの中で燃え上がるものがあった。目の前の書物を否定するのではなく、それを超えていくための言葉を、理論を、記述を――この世界で、自分自身の手で創っていく。探究に値する興味深い現象と、まだ誰も未踏の理論がそこに広がっている。
「……ふふ」
思わず笑みが漏れた。
この世界には魔法がある。誰もが「奇跡」と呼ぶ力が、きっと法則性を持って存在している。そしてその原理を暴き、体系化できるのは――物理学の専門家である、かつての“俺”を置いて他ならない。
それは使命でも運命でもない。単なる自負だ。そして純粋な好奇心。
(こんなの、面白いに決まっている!)
ああ、かつて地動説に気づいたコペルニクスも、重力に気づいたニュートンも、相対性理論を生み出したアインシュタインも、どこかでこんな気持ちを覚えたのだろうか? アレンの中で、自分のやりたいことと、自分の使命が合致したような気がした。
(まずは手始めに魔法の原理を理解する。そしてそれができたら……魔法の"再現"をしたい)
それからの日々、アレンは導魔石や魔法に関する実験を繰り返した。セレスティアの協力も得て、同じ魔法を何度も発動してもらい、導魔石の発光の色・時間・形状などを記録する。さらには天気、時刻、セレスティアの体調、感情状態など定量的でないものまで記録に残していった。
「ふぅ……今日はここまでにしておこう。ありがとう、セレスティア」
「い、いえ! アレン様が楽しそうにしてらっしゃって……その、私も嬉しいです」
子どもらしからぬ熱意をもって魔法の「実験」を繰り返すアレンに対して、セレスティアは初めこそ戸惑いを見せていたが、今ではその試みに心から協力している。
(測定はまだ不完全だ。毎回の測定で誤差が大きすぎる。だが、兆しはある)
火球を放つとき、導魔石の内部に走る干渉模様は、ある一定の形に収束していく――その法則性は、脳裏にある「波」のイメージと酷似していた。
(この世界の魔法には、確かに法則がある)
自分の仮説に、確信が灯る。これは“解ける"理だ。必ず理解できる。そして変えられる。誰もが使える力にできる。その確信を強めたアレンは、自分の"実験ノート”の裏表紙に追加でこう記した。
⸻
『本研究は、この世界の魔法という現象に対し、理論的に一貫性ある学術体系を構築することを目的とする。
魔法はただの“奇跡”ではない。
魔法は“再現可能な奇跡”である。
これを証明し、「世界を救済する」使命を果たすため、ここに研究の記録を残す。』