001「始まりの日」
深夜の研究室。タブレットにペンをなぞらせながら、青年は画面を埋め尽くす英文と数式を眺めていた。胸ポケットに入れた携帯の画面に通知音が鳴り、画面には02:15と表示されている。
「そろそろか……」
机の上にはノートPCとサブディスプレイ、そしてエナジードリンクの空き缶や栄養補助食品の包装が散乱している。「こいつ不健康だ」と一目でわかる惨状だ。アインシュタインが相対性理論を発見してから百年余り。今日も科学は、誰かの睡眠と健康を犠牲にして、着実に、しかし猛烈な速度で進化し続けている。
「大丈夫だとは思うけど……一応チェックしないとな」
彼は長らく世界中で議論されてきたエネルギー問題に終止符を打つと期待される、ある一大プロジェクトの最高責任者だった。若くして「天才」のレッテルを貼られてきた彼だが、その実態は、徹夜続きのブラック企業戦士と変わらない。睡魔と格闘しながら地下の計器室へ向かう足取りは、世間が思い描く「イケイケ科学者」のイメージとは真逆だった。
「ねむい……けどあと少しの辛抱だ……」
計器の前に到着した青年は、大きくあくびをしながら数値を監視する。と、その時、部屋の隅にある計器の一つが甲高いアラーム音を鳴らした。アラームの一つや二つは日常茶飯事。慣れた手つきで設定条件を修正しながら、青年は「これが終われば、やっと寝られる」などとのんきに考えていた。
「……なんだ?」
突然、別の計器がエラー表示を出す。まるで示し合わせたかのように、矢継ぎ早にエラーの数が膨れ上がり、部屋は異常事態を告げる不協和音で満たされた。
「まずい……っ! 緊急停──」
彼が背後にある緊急停止ボタンに手を伸ばした瞬間、部屋は目を眩ませるほどの光に包まれた。
そこで、監視カメラの映像は途切れていた。
世界的な研究機関で起こった爆発事故。
世界的な研究機関で発生した大事故。不幸中の幸いは、数百人を巻き込んでもおかしくなかったこの爆発が、「たった一人の行方不明者」を除けば、ほとんど被害を出さずに収束したことだった。しかし、その当事者となった青年の痕跡は、その後のあらゆる捜索や科学的な分析によっても、一切見つかることはなかった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
《観測効果の適用範囲への侵入を確認》
真っ暗な世界。意識に響くのは、無機質な「声」だけだった。それが何者なのか、全く分からない。
だが不思議と、語るその意味やニュアンスは理解できた。
(俺は……死んだ……のか?)
最後に覚えているのは、計器に表示された大量のエラー表示。そして、背後にある緊急停止スイッチを押そうとした瞬間だ。間に合ったはずだった。だが、最後の記憶がそれだということは、あの努力は結局、無駄に終わったということなのだろうか。
《無形化処理を開始します──0%》
(もう少し、研究を続けたかったな……)
いや、たとえ死んでいなくとも、あの規模の事故を起こしてしまった後では、研究者としてのキャリアは終わったも同然だろう。世間の期待が高かった分、手痛い批判を浴びていたはずだ。
《無形化処理進行率──0%》
(だとしたら、死んで正解だったのかもしれない。……他に巻き込まれた人がいないと良いけど)
確か研究所内には誰もいなかったはずだが、万が一巻き込まれた人がいたとしたら申し訳ない。そうでないことを祈るばかりだ。
《当該処理は停止されました》
《代替処理として有形存在移植が発生します》
《移植先:00281028001──『アルカディア』》
次第に、見覚えのある光が意識を包み込んでいく。
(これは……?)
《管理者よりあなたへの命令が与えられました》
《「この世界を救済せよ」》
――風の音がした。
耳をくすぐる、葉擦れの音。遠くで鳥が鳴いている。鼻をくすぐるのは、草木のような、乾いた自然の香り。
ゆっくりと目を開けると、そこには天井があった。
木造の天井だ。木目が走り、小さな傷や染みがところどころに見える。顔を少し動かすと、白いレースのカーテンが揺れていた。窓からは優しい陽光が差し込み、部屋を柔らかな金色に染めている。どこかの寝室――しかし、見覚えはない。
(……研究室じゃない?)
意識が覚醒していくにつれて、徐々に異常さが明らかになっていく。硬いマットレスの代わりに、ふかふかとしたベッド。見慣れたモニターの青白い光ではなく、陽だまりと自然の音。そして、身体の感覚。
(……体が、重くない?)
驚いて上体を起こす。自分の身体が軽い。いや、違う。小さい。腕は短く、手のひらはまるで子供のようだった。着ている服も見慣れない寝間着だ。何もかもが、以前とは違っている。
「っ……」
頭の奥で何かが弾ける。
(まさか――)
鏡を求めて辺りを見回すと、小さな鏡が棚の上に置かれていた。裸足のまま床に足をつけ、戸惑いながらもそれに近づき、顔を覗き込む。
そこにいたのは、見知らぬ五歳程度の少年だった。
銀糸のように淡くきらめく長めの髪。薄く透き通るような肌。陶器のように滑らかな頬。瞳は深く澄んだ青で、どこか幻想的な光を湛えている。少女のようにも見えるが、よく見ればやや鋭さのある輪郭と、淡く整った眉が男性的な印象を与える。――それは、かつて自分が知っていた顔ではない。だが、そこには確かに「自分」の意識があった。
異変の正体を、ようやく理解する。
(……俺は、転生したのか?)
死んだ――いや、消失したと言うべきか。あの研究所の事故。計器の暴走。閃光。そしてあの無機質な声。
「この世界を救え。手段は問わない……」
その言葉が、耳の奥で木霊する。だが、あれが何者の意志だったのか。どこから来たのか。さっぱり分からない。
(なら……ここが、“その世界”ってことか)
不思議と、混乱はなかった。死の直前に覚悟はできていたのだろう。むしろ今は、現状を確認する冷静さが勝っていた。
と、その時――
「……アレン様、お目覚めでしょうか?」
扉の向こうから、女性の声が聞こえた。扉は少しだけ開いている。先ほどの声の主が、扉をノックしてから、静かに中を覗いてきた。
「失礼いたします。入りますね」
そう言って入ってきたのは、黒髪の若い女性だった。背筋の伸びた所作、艶のある黒い長髪。美しい瞳と、洗練されたメイド服。年の頃は十代後半だろうか。腰には細身の剣が帯びられている。
(……メイド? いや、剣?)
「ご体調、いかがですか? お顔の色が少し青いようですが……」
彼女は心配そうに近づいてきた。穏やかで、礼儀正しい態度。そこに、咄嗟に伊月の口をついて出た言葉があった。
「……君は?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……私のことを、お忘れで?」
沈黙。やはり、不自然だったか。だが彼女はすぐに切り替え、深く頭を下げた。
「い、いえ。申し遅れました、私の名はセレスティア・アーランド。アレン様付きの専属侍女――兼、護衛を務めさせていただいております」
(セレスティア……そうだ、俺はその名前を”覚えて”いる。直近の自分に関する知識も……ちゃんとある……俺はアレン=シルフォード。シルフォード公爵家の次男)
「アレン様……その。失礼ですが、本当に、お具合は……」
「ああ、ごめん。ちょっと、変な夢を見てたみたい。変なこと聞いてごめんね」
アレンは笑って誤魔化した。この世界では、すでに「アレン・シルフォード」という名前と肉体を持った人物が存在しているらしい。その意識と自分が入れ替わったのか、あるいは“初めからこの肉体を使う”前提だったのかは不明だが、今は追求しても仕方がない。
「少し、外を歩いてもいい?」
「もちろんです。まだ朝露が残っていますので、靴と羽織をご用意いたしますね」
セレスティアは丁寧にそう答え、クローゼットから小さな外套を取り出してアレンに渡す。その間、彼女の視線は僅かにアレンを探るように揺れていた。
(心配されているのか……? まあ、急に変なこと聞いたからか。言動には少し気をつけないとな)
装いを整えて扉を出ると、廊下には白い石壁と木製の柱が並んでいた。豪奢すぎず、かといって質素すぎない設計。高級な館であることは間違いない。階下に続く階段をゆっくりと降りていくと、陽の差す中庭が見えてきた。石造りの噴水、手入れの行き届いた花壇。そして、遠くに見える町並み――。
アレンは心の中で呟いた。
(ここが、“アルカディア”……なのか?)
自分は何らかの理由で死に、転生し、命を与えられた。──「この世界を救え」という命令とともに。
この新しい世界で、何をすべきか。何ができるのか。
まずは一歩ずつ、知ることから始めよう。科学者らしく、観測し、記録し、数式に落とし込みながら歩んでいこう。
それが、自分に与えられた「救済」の使命の第一歩なのだと信じて。
はじめまして黒楼です。
これから「異世界魔法の諸原理に基づく世界救済術式の構築について」の連載をします。
構想としては6章ぐらいを見込んでおり、基本的には16:30に1日1話ずつ更新する予定です。
(執筆のペース次第では2日に1話になったり、逆に1日に2話投稿することもあるかもしれませんが)
良かったら応援してください。途中で物理学っぽい式も結構出てくるかもしれません。