9.夏の空、色を変える
夏休みも半ばを迎え、空はますます澄み渡っていた。
陽翔は、自転車を走らせながら空を見上げる。
入道雲がもくもくと伸びていて、まるで時間までゆっくり流れているようだった。
向かっていたのは、あの海辺の図書館ではなかった。
今日は、凛の家だった。
「うちの近くの坂道、けっこうきついよ?」
メッセージにそう書かれていた通り、最後の坂で息が切れた。
けれど、その先で待っていた凛の笑顔は、それだけで報われるようなやさしさを持っていた。
「入って。今日は母、仕事だからいないの」
小さな一軒家の玄関を抜け、リビングに通された。
棚には本がぎっしり並び、観葉植物とレコードがさりげなく置かれている。
「意外だったかも。こういう空間、落ち着くんだね」
「うん。……ここが、私の“治る場所”だったの」
そう言った凛の声は、とても静かだった。
小学校からずっと、彼女が闘ってきた時間。
陽翔には想像できない孤独の中で、彼女は「日常」と「言葉」に救われてきたのだろう。
「ねえ、覚えてる? 小学校の卒業前、私が最後に図書館に行けなかった日」
「……ああ」
「あのとき、机の上に置いてあった本。あれ、陽翔くんが選んでくれたんでしょ?」
「うん。“星の王子さま”。――なんとなく、君が好きそうだと思って」
「好きだったよ。今でも、一番大事な本」
凛はそう言って、棚からその本を取り出した。
表紙は少し色褪せ、角が丸くなっていた。
「でも、あの日は読めなかった。病室に運ばれて、すごく不安で……“もう誰にも会えないかもしれない”って思ったの」
陽翔は黙ってその言葉を聞いていた。
「だからね、あの日の空が忘れられないの。――青くて、でもどこか泣きそうな空だった」
陽翔は静かに手を伸ばし、凛の肩に触れた。
「俺も、覚えてる。空の色まで、ちゃんと」
ふたりの間に沈黙が降りた。けれどそれは、優しい静けさだった。
「陽翔くん。私、あの日からずっと、生きてるってことを“誰かに繋ぎたい”って思ってた。だから、また出会えたことが、すごく大事なの」
陽翔の胸に、ふっと風が吹いたような感覚が広がる。
(誰かと向き合うことは、怖い。でも……こんなふうに、ちゃんと重なるなら)
夏の空が、色を変えていく。
真っ青だった空に、淡い雲が流れ、やがて夕焼けが滲み始める。
そして陽翔は、心のどこかで、ようやく“ひとつの想い”を形にしはじめていた。