パーフェクト・ルーザー
佐織さんと勝利に捧ぐ。
私は教師を務めているが、毎年体育祭の季節が巡る度に、ある出来事が脳裏を去来する。それは、私がまだ幼い頃、すなわち中学生であった時のことである。
その頃、私には佐織さんという同級の少女がいた。彼女とは家も近く、幼少期より共に遊び、何事も分かち合う仲であった。彼女と二人で展覧会に赴いたり、彼女が習っていたピアノのコンクールに足を運んだことも稀ではない。我々の間柄は、もちろん誰の目に見ても、来たるべき恋愛を予見させるのに充分であった。
ゆえに私は、体育祭の朝、彼女にひとつの願いを託した。「もし僕が百メートル競走において一番を取ったならば、体育館の裏庭へ来てほしい」と。彼女は、その言葉の裏に潜む私の思惑を、何も言わずして察していたかのようであった。彼女の微笑みが、私の胸にくすぐったい幸福感を灯したことを、今でもはっきりと思い出す。
その裏庭にて私が彼女に語ろうとした言葉は、今となってはささやかであり、あるいは子供じみているかもしれない。しかし、当時の私にとって、それは人生の一大事であり、全てであった。彼女もまた、その気持ちを理解していたに違いない。ゆえに、ここにその詳細を記すのは控えることにしよう。
体育祭が始まると、私の心は浮足立ち、何もかもが上の空であった。友人たちにも、つい佐織さんとの約束を吹聴してしまうほどに、私は自信に満ちていたのだ。なにしろ、陸上部員ではなかったものの、体育の競走において負けた経験など一度としてなかったのだから。
そして、いよいよ百メートル競走の時が来た。号砲と共に、私は地面を蹴り、前へ前へと進んでいく。だがその時、ある奇妙な影が私の視界に映った。私の右手に、得体の知れぬ影が蠢いていたのである。最初はほとんど気に留めなかったその影が、やがて私を追い越し、次第に遠ざかってゆくではないか。私は全力で走っているはずなのに、その影が遠ざかるにつれて、あたかも逆行しているような感覚に陥った。
「もう勝てない」──その瞬間、私は無意識のうちに身を転ばせていた。地面に倒れ込む私の耳には、真横を駆け抜けていく足音と、観衆の歓声がぐわんぐわんと歪む音ばかりが響いていた。負けることを悟り、勝ち目のない競走を続けることへの屈辱に耐えられず、いっそ転んでしまおうという浅ましい考えが、胸を支配していたのである。
私は立ち上がり、埃を払いながら、虚しい速度でゴールを目指した。その時、ふと視界の端に彼女の姿が映ったが、私はあえてその存在を見て見ぬふりをした。
体育祭が終わり、私は家路につく気にもなれず、教室にひとり残った。手に取った文庫本の活字が目に入らず、ただひたすらにページを行ったり来たりしているだけで、陽は西に傾き、教室の黒板は半ば暮色に染め上げられていった。どれくらいそうしていただろうか。文字の往来にも嫌気がさした私は、ふと窓の外へと視線を投げた。そして、ぎょっとした。体育館の裏庭にそびえる松の木の下に、佐織さんがひとり佇んでいるのを見つけたのだ。
彼女は俯くでもなく、何かを手にするわけでもなく、ただ黙して遠くを見つめていた。その姿には、何とも言えぬ静けさと、凛とした気高さがあった。彼女がその時何を思い、何を感じていたのか、私には知る由もない。だが、私は、立ったまま、いつのまにか泣いていた。胸に沈澱していた濁った感情が、まるで気持ちよく涙に溶けていってしまうのだ。この瞬間、私は自らの内にある敗北を確信した。「負けた」と思ったのだ。
この時初めて、私は「負ける」ということの真の意味を知ったのであった。それは、単なる競走の勝敗ではなく、人としての弱さに、卑しさに起因するらしい。
パーフェクト・ルーザー。私のことである
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