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画商の僕が出会った彼女

作者: サエキ タケヒコ

              1

「こ、これは……」

 咥えた煙草を飲み込みそうになった。


「どうかね。売り物になりそうかい」


 声が出なかった。


 その様子を見て田中さんはため息をついた。

「素人の絵なんて、やっぱり売り物にはならないか」

 田中さんは広げた絵を丸めて持って帰ろうとした。


「ま、待ってくれ。もう少し見せてくれ」


 それは不思議な絵だった。


 描かれているのは何の変哲もないコーヒーカップだけだった。

 だが、それはこの世に一つしなかない存在として迫ってくる。

 コーヒーを注ぎ、人がそれを飲むための器という本質は、もはやそこにはない。言葉では捉えることができないあるものとしか言いようがない。


 西田幾多郎の弟子の唐木順三が、ゴッホの絵を評して「いままで百姓靴を履いたり見たりしたものは無数にいる。ただし、みんな百姓靴を足に履く道具としか見ていない。ゴッホだけが百姓靴に出会った」というようなことを『中世の文学』で書いていたのを思い出した。

 唐木は、ゴッホの手により百姓靴はただの道具から成仏してトランスフィギュア(変貌)したという。芸術として物の真相を現すものとなったのだという。


(このコーヒーカップはトランフィギアしている……)


「田中さん、この絵はいったいどこで? この絵を描いた作者に興味がある。是非紹介してくれ」

 この絵を持ち込んだ田中さんは僕が経営している画廊の常連客だった。


「ほんとうかい? 本当にいいのかい」


「もちろんだとも」


 それが僕と彼女との出会いの端緒だった。


               2

「君の絵は売れる」

 僕が彼女に会って、最初にかけた言葉だ。


 彼女はキョトンとした表情をして僕を見上げた。


とても20代半ばの女性には見えない。まるで幼女のようだ。


紹介者の田中さんが彼女は発達障害かなにかで、15歳くらいから学校に行かず、ずっと家に引きこもっていて絵ばかり描いていたのだと説明をしていた。


「君もお金が入ってきたら嬉しいだろう」


 彼女は無反応だった。


 ただテーブルの上の僕の古い使い込んだスマホを凝視していた。


 僕は興奮していた。

 彼女が持参した油絵はどれも素晴らしいできだった。

 まさに芸術の神が降りてこないと描けない作品だ。


 古来、アートは神と共にあった。超自然的存在を祀り、祭りを行う時、アートは出現する。しかし今は、アートはカネと共にある。


 アーティストにとって売れなければ地獄だ。

 売れればセブンスヘブン(7th Heaven)へ直行だ。だがそれはラクダが針の穴を通るよりも難しい。


 しかし、彼女には才能があった。


 彼女の作品なら、一大旋風を巻き起こし、世界の富裕層が、アテにならない通貨を超越する永遠普遍の価値を有する財として、通貨と彼女の作品をこぞって交換したがるという確信があった。


                3

 僕の直感の通り、彼女の作品はブレイクした。

 しかし、僕も絵画ビジネスのプロだ。奇蹟なんて信じない。僕がそうなるようにプロデュースした。


 まずは、有名大学の教授の文芸評論家を巻き込んだ。彼女の作品を事前に見せ、これが売れたらその儲けの一部を分配することを約束した。銀座の高級クラブで接待し、カネのかかる女を抱かせた。


 カネのかかる女を抱かせたのには意味がある。1回目は接待だ。だが2回目以降は自腹だ。実は一流大学の教授ほど大した給料をもらっていない。給料が安くても一流大学の教授になりたいやつは5万といるからだ。


 だからその教授は一度知った蜜の味を再び味わいたいと思えば、多額のカネを稼ぎ出す必要あるというわけだ。

 人参が目の前にぶら下がった教授は疾走した。


 目論見通り、その教授は世紀の大発見をしたように彼女のことを取り上げた。専門誌に絶賛して書き散らし、それをSNSで拡散させた。


 同様の手口で他のインフルエンサーたちも巻き込んだ。


 かなりの先行投資額になったが、彼女がブレイクすればすぐに回収できると踏んだ。


 美は世界共通の通貨だ。国際情勢や経済が不安定な今、金持ちは国の発行した通貨など信用しない。不動産も時代遅れだ。どこにでも持ち出せ、世界中で換金できるインフレにも強い財貨。それがアートだ。

 ただ株と同じで、これは価値があるもので、まだまだ値上りするという共同幻想をマスコミや権威者の言葉の助けを借りて植え付けないといけない。

 自分が画商として成功したのは、そこを理解し、自分からその状況を作り出し無名の新人を育て上げたことだ。その考え方はIPOと全く変わらない。アートはいまや神ではなくカネと共にあり、カネそのものだからだ。


                4

「乾杯!」

 ホテルの最上階にあるレストランで、彼女とディナーをともにしていた。


 彼女の人気はすさまじく、今や自分の画廊の売上ナンバーワンにまで成長していた。


「今日はお祝いだ」


「ありがとう」


 彼女は不思議そうにワイングラスを眺めながらはにかんだ笑顔を見せた。


「これプレゼント」

 彼女は小さい油絵をカバンから出した。


「これは……」


 最初に彼女がアトリエに来た時にテーブルの上に置いてあった使い古しの僕のiPhoneの絵だった。

 だが、その絵から自分のこれまでの人生が走馬灯のように映し出されるのを感じた。


「ありがとう。大切にするよ」


 やっぱり彼女の才能は桁違いだ。

 この絵は売れば大金になるだろう。だが、もちろん売るつもりはない。


「お金は何に使うんだい」


 僕の言葉に彼女は首をかしげた。


「君の稼いだお金だよ。もう何億円も貯まっているだろう?」


「お、か、ね」


「知らないのかい?」


 彼女はあいまいな笑いしかしなかった。


 食事が終わると僕は思い切って、ホテルの部屋のキーを彼女の前に置いた。


「よかったら今晩泊まらないか」


「お泊り?」


「そうだ」


「いいよ」


 彼女はにっこりと笑った。


             5 

 翌朝彼女は横にいなかった。


 初めてだったのを抱いた後に知った。


 僕は彼女を抱きしめ「好きだ」とか「一緒にいよう」とか、うわ言のように囁いたのを覚えている。


 だが、明け方に束の間の睡眠に落ちた後、目が覚めると彼女は消えていた。



 その日の晩に彼女の家に電話をした。

 まだ、帰ってきていないと母親が心配そうな声で言った。


 そのまま彼女は失踪した。


 僕は狂ったように公園や街頭を探し回った。彼女は公園や街頭でスケッチをしていることが多かったからだ。

 絵の道具を広げている人を見ると、正面に周り覗き込んだ。

 だが、別人だった。


 僕は本当に狂人のようになっていった。


 だがビジネスは順調だった。彼女の絵は売れ続けていたし、彼女の両親は彼女の失踪を心配はしたが、彼女の絵の売れ行きの方をもっと心配し、彼女がこれまで描きためた作品を提供してくれた。彼女の初期の頃の習作は、それはそれで売れた。彼女の謎の失踪が世間に知れると、さらに彼女の絵の値は上がった。新作が今後出てこないかもしれないとなると需要と供給の関係で価格が高騰するのは当然の経済原理だ。


 そうして、彼女の絵は売れ続け、彼女の実家と僕の画廊には巨額のカネが入り続けていたが、彼女の行方はわからないままだった。


               6

 それから数年後、僕は外国の女子修道院を訪問していた。


 その修道会が口のきけない行き倒れになっていたアジア人の女性を保護しているという噂を聞いたからだ。決定的だったのは、その女性は絵を描くことが上手く、聖母マリアを描かせたところ、修道女や信者が一目見るなり泣き出したり拝んだりして評判になっているということだ。


「あちらです」

 シスターが指したのは、修道院の中庭だった。


 中庭にはスケッチをしている女性がいた。


 僕はゆっくりと彼女のそばに歩いていった。


「やあ」


 彼女は視線を上げようともせず、無心に花を描いてた。


「ひさしぶりだね。元気そうでなによりだ」


 だが彼女は無言のままだった。


 僕は彼女の横に座り、スケッチをしている姿をながめた。


 彼女の描く花は花であって花でない。でも花だ。


 最初にコーヒーカップのデッサンを観た時の感動が蘇ってきた。


 そのまま僕は黙って午後を過ごした。


 詩は語り、愛は黙す。


 忘れ去られた古い詩人哲学者の言葉だ。

 僕はただ黙すしなかった。


 帰り際に修道院長のシスターに面談した。

「この修道院にいくらでも寄付をします。なのでどうか彼女の面倒をいましばらくみてください。それから彼女との定期的面会をお願いします」


「事情がおありなのね。あなたに神の愛と恩寵がありますように」

 修道院長は僕の頼みを快く了解してくれた。


 僕はヨーロッパのこの小国に移り住もうかと考えていた。幸いアートに国境はない。ここでも仕事はできた。そして時間をかけて彼女との関係をもう一度、一からやり直したいと思った。


 彼女を失って僕は、いくらカネがあってもどうにもならない気持ちというものを知った。いまさらそんなことを知っても遅すぎかもしれない。


 でも、ここで再び彼女に会えた。


 彼女が天才画家であることもお金儲けも、もうどうでもいいことだった。


 だだ彼女が彼女であるがゆえに、彼女だけを愛したいと思った。


 修道院を出ると空が抜けるように高かった。




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