1.はじまり
平和で穏やかな昼下がり。
僕は居間のソファに寝転がってマンガを読んでいた。
どこからか、床を踏み抜く勢いの足音が聞こえてくる。……と思った瞬間。
「ゴロゴロしてないで就活でもしてきなさい! この穀潰し!」
「ちょ、ちょっと母さん! 痛いよっ!」
魔力でフサフサの部分を硬化した箒で小突かれ、勢いよくソファから転がり落ちた。
持っていたマンガが床を滑ってゆく。あっという間に背表紙が遠ざかって行った。
イテテ、とぼやきながらその場に座り直す。恐る恐る見上げると、およそ実の子へ向けてるとは思えない視線で見下ろされていた。
「ったく、高い学費払って大学に入れたのに、就職もせず毎日毎日ゴロゴロして……母さん情けなくて涙が出ちまうよ!」
悲しい時、嬉しい時、涙を流すことはあるけれど、情けなくて泣かせてしまうとは。
さすがに親不孝が過ぎるかと居心地が悪くなる。
父は単身赴任で遠方の魔物狩りに出かけているため、ほとんど一人で僕を育ててくれた母。
若い頃は可憐な美人だったんだろうな、でも今は「豪胆」とか「強靭」という言葉が似合う、でもやっぱり美人の母。
金髪碧眼の、それは僕にもほぼ100%受け継がれているのだけれど、光と水に愛されたような容姿の母。
僕が、父の仕事を手伝うため魔導士の大学に進みたいと言ったときは、喜んで応援してくれた。
優秀な魔導士でもある母は、陰になり日向になり受験をバックアップしてくれ、それは言い換えれば「しごき」にも近かったけれど、おかげで僕は分不相応な名門の国立大学に入ることができた。
合格発表の日、受験番号を見つけて喜びすぎて力加減のバグった母さんとハイタッチし、手首を骨折したことすら良い思い出だ。
ところが、現実はまったく甘くなかった。
魔導士は使える魔法の種類によってカテゴリ分けされる。
たとえば、赤の魔法は攻撃、白の魔法は回復といった具合だ。
大学に入って最初の適正検査で、僕は緑の魔法を使えるということが分かった。
緑の魔法は、自然の力を借りることができる。風を起こしたり、川を逆流させたり、火山を噴火させることができる者だっている。可能性で言えば一番パワーを秘めている。
そんな無限の可能性を秘めた緑の魔導士として学び始めた僕が、4年間で身につけたスキルが……。
よそう。
あらゆる単位をギリギリでレシーブしまくって、なんとか卒業はできたものの、スキルとして認定されたのは就職に役立たないものだった。
とはいえ、ジョブチェンジしようにも、戦士になる武力も、賢者になる知力も、僧侶になる信仰心も、吟遊詩人になる歌唱力もない。
大学卒業から半年。
居間のソファで読書をしながら(おもにマンガ)自分の将来を案じることが日課になってしまっていた。母さんがキレるのも無理はない。
「わ、わかった、わかりました。これから仕事を探しに職安に行ってきます」
「一人前になるまで帰って来るんじゃないよ!」
「……夕飯までには戻りたいです」
「外見だけで食べていける仕事もあるんだからね!」
とても親のセリフとは思えない、と嘆きつつ立ち上がると、僕は簡単に身支度を済ませて家を出る。
あと10日もすると暑い季節が始まる。本気を出す前の太陽が、準備体操と言わんばかりにサンサンと暖かい光を振りまいていた。
重い足取りでとぼとぼ歩いていると、道端に弱ったカエルがへたり込んでいた。
「どうしたの?」
声をかけると、カエルは少し驚いた顔でこちらを見上げた。
「驚いた。オイラたちの言葉が話せるのか?」
「うん。僕は緑の魔導士なんだ」
そう。僕が使える魔法は、カエルの言葉が分かることと、カエルの言葉が話せることだ。
何を隠そうカエル限定だ。
カエルと会話できる、とひとくくりにすると、使えるスキルが1つになってしまうので、あえて分けて説明するようにしている。
緑の魔法に適正があると分かった後、風や雨や雷を操るスキルを身につけようと、必死に勉強した。予備校にも行ったし講習にも行った。検定も受けたし実地訓練にも行った。
それでも、風を起こしたり雨を降らせたり雷を落とすことはできなかった。
ただ、ある雨の日、カエルと会話ができることに気が付いた。
濡れた路面で滑って転んだところ、「大丈夫か?」とカエルに声をかけられたのだ。僕は「大丈夫です、ありがとう」と返した。普通に会話できたことに気づいたのは帰宅した後だった。
それが僕の唯一のスキル。
しかし、このスキルを利用して就職しろってのはそもそも無理な話だ。
ギルドで求人募集の貼り紙を見ても、必要資格に「カエルとの会話必須」とか「カエルと会話できれば尚良し」なんて書いてあるのを見たことがない。
重いため息がこぼれる。
「オイラはセト。人間と会話をするのはずいぶん久しぶりだよ」
「僕はレヴィ。よろしくね」
セトの近くにしゃがみ、首を傾げて礼の代わりにする。この高低差で普通に礼をしたら、土下座することになってしまうからな。
「セト、なんだか顔色が良くないけど具合でも悪いの?」
「さっき、えらい勢いで走ってったやつに蹴飛ばされてな……。なぁに、軽い打ち身さ。少し休めば治る」
「ふぅん。ゴブリンでも出たかな」
「かもしれん。気を付けてな。しかし、オイラよりもお前さんの方が顔色悪いぜ」
「心配してくれてありがとう。これから仕事探しに行くんだ……」
「ギルドに行くのか? そういえば最近、西の国から勇者が来てるって聞いたな」
「勇者だって? 珍しいね」
勇者。それは、全種類の魔法を極めた者。魔導士のスキルをコンプリートし、グレードアップした選ばれし者。世界にほんの数人しかいないレアキャラだ。
父さんから、若い頃に勇者のパーティに所属して名立たる魔物を倒した、という武勇伝を聞いたことがある。たとえ一時期でも、勇者のパーティに所属できるなんて名誉なことだと自慢していた。
「なんでも、霧の湖のドラゴンを倒しに行くらしい」
「え、あの、伝説の勇者でも倒せなかった、双頭のドラゴン? さすが勇者様ともなると目標もでっかいんだなぁ」
伝説の勇者。霧の湖のドラゴン。……ズキン、と胸が痛んだ。
僕も魔法をてんこ盛りで身につけて、伝説を塗り替えるような勇者になって、父さんと一緒に戦うという夢を持っていた。
父さんが勇者のパーティに所属していた頃に挑んだという、霧の湖のドラゴンにリベンジをするのが最終目標でもあった。
父さん。ふがいない僕を叱ってください。
母さんには散々どつかれてるので、母さんにはもう叱られたくないです。
「勇者っちゅーと、どえらい魔力を持ってるから気を付けるんだぞ。穏やかな人ならいいが、短気な人だとちょっと機嫌を損ねただけで塵にされることもあるらしい」
「うわ……」
塵になった僕をかき集めて葬式をあげる母さんを想像する。
「そ、そうならないよう気を付けるよ。ありがとう」
「おう、またな」
僕はますます重くなった足でギルドに向かって歩き出した。