39話 かえりつく相思相愛
マリアの人生において、タスティリヤ以外の国で年明けを迎えたのは初めてだった。
ルビエ公国の冬はさらに厳しくなり、屋外にある物は何でも凍ってしまう。
雪の重みで垂れ下がった木は固まり、空は憂うつになりそうな暗い雲に覆われて、人々を家の中に閉じ込める。
氷に閉ざされた静かな世界で、マリアは指折り過ぎる日を数えた。
久しぶりの晴れ間がのぞいたルビエ大公城。
その正面玄関には、氷を剥がした三台の馬車が停まっていた。
エントランスで、タスティリヤ王国の使者の見送りの真っ最中だ。
「大公閣下の書状は、私が必ずやエマニュエル王妃にお渡しします」
書状入りの箱をうやうやしく掲げたダグラスが、二台目の馬車に乗り込む。
えんじ色のコートに毛皮のマフをかけて旅支度を調えたマリアは、見送りに出てきたルクレツィアと向かい合っていた。
「ルクレツィア様、本当にタスティリヤにはお越しになりませんの?」
ルクレツィアは、毛皮のケープに赤い薔薇のコサージュをつけた姿で、こくんと頷く。
「私の運命はルビエとともにあります。魔法使いが平民になったとはいえ、貴族たちとの軋轢はしばらく残るでしょう。彼らが人間らしい幸せな生活を手に入れられるように、誰かが間に入らなければなりません」
「貴方が全て背負う必要はありませんわ」
「それでも、私が背負いたいんです」
マリアの手を握って、ルクレツィアははにかんだ。
公女ではなく一人の活動家としてのやる気に満ちた表情は、明るく輝いている。
「魔法使いが解放されたのは、マリアヴェーラさんと力を合わせた魔法使いのおかげです。だから、今度は私が頑張りたいのです」
結果的に、大公は魔法使いたちを平民と同じ扱いにすると約束してくれた。
彼らがルビエを離れてタスティリヤに亡命したら困ると判断したのだ。
反発する貴族はいたが、タスティリヤから食糧を融通してもらうためだと大公が説得して抑え込んでいる。
「一筋縄ではいかない貴族もいるでしょう。くれぐれもお気をつけて」
「ルクレツィア様は私がお支えするので心配ありませんよ」
ルクレツィアの後方から冷ややかな言葉が飛んできた。
執事服にミンクの衿をつけたオースティンだ。
正式にルクレツィアの婚約者として認められたため、毛皮を身につけている。
装飾品が一つ増えただけだが、彼自身も自信を付けたように見える。尊大な態度は相変わらず。しかし、出会った当初から感じていた敵意は消えていた。
ルクレツィアとオースティンの薬指には、金の指輪がきらめいている。
本物の夫婦になる日はそう遠くない。
「マリアヴェーラさん、私たちを助けてくださってありがとうございました」
涙を浮かべて別れを惜しんでくれるルクレツィアを、マリアはそっと抱きしめた。
「ルクレツィア様、どうかお幸せに」
「マリアヴェーラさんも」
名残惜しく離れたマリアは、二台目の馬車に乗り込んだ。
上質なベルベットを張った温かな客車には、真新しいフードを身につけたミオと彼の膝に丸まるニア、そして、猫じゃらしを持った意中の人がいた。
「お待たせしました。レイノルド様」
レイノルドは、パタパタ動かしていた猫じゃらしを止めて、隣に腰かけたマリアに顔を向ける。
「もっと長くかかると思っていた」
「たくさん話すと離れがたくなりますから。体のお加減はいかがですか?」
「平気だ。傷はほとんど塞がった」
レイノルドは防寒着の肩にそっと手を当てる。
ルーイの剣で切り裂かれた箇所だ。
彼が大量に出血して意識を失った際、マリアは最悪の事態を想像した。
しかし、オースティンが号令をかけ、周囲の魔法使いと力を合わせて救命処置をほどこしてくれたおかげで一命はとりとめた。
止血と傷の修復までは魔法でできる。
失った血液はレイノルド自身の生命力でしか作り出せない。
レイノルドは半月も眠り続け、マリアは毎日、彼の目が覚めるように祈りをささげた。
(その間に、タスティリヤからルビエ公国に救援物資として当座の食糧が届けられて、お兄様は忙しそうにしてらしたわ)
先ほどダグラスが抱えていた書状は、ルビエ大公による感謝と謝罪の手紙だ。
「あんたにも心配かけたな」
「いいえ。わたくし、信じておりました。レイノルド様が必ずや目覚めてくださると」
彼の目が開いた時、そばにいたマリアは涙が止まらなかった。
ボロボロになった泣き顔を、レイノルドが愛おしそうに笑ってくれたのを見て、やっと確信できた。
(レイノルド様が記憶を取り戻してくださったわ)
凶刃からマリアを守りたい。
レイノルドが強く願い、身代わりに斬られたことで、マリアの記憶を封じていた魔法の枷がはじけ飛んだのだ。
ちなみに、レイノルドを傷つけたルーイはルクレツィアが滞在していた塔で謹慎中。
ジーンも連帯責任でタスティリヤ行きを認められなかった。
驚くことに、魔法使いたちは誰一人として亡命を望まなかった。
彼らは虐げられながらも、ルビエの平和を願って魔法を使っていたので、自由の身になれるとわかってからもルビエのために働くことを望んだのだ。
「これからのルビエ公国が楽しみですわね」
馭者が綱を引くと、馬がいなないて馬車はゆっくりと走り出した。
車窓からルクレツィアに手を振るマリアを、ニアを抱きしめたミオが不思議そうに見つめる。
「マリア様もレイノルド様も、どうしてルビエ公国を憎まないの?」
子供らしい実直な質問だ。
レイノルドは少し考えて、「マリアがそういう関係を作ってくれたんだ」と意外な答えを聞かせた。
「違う国の王族同士が互いに憎み合ったら、巡り巡っていつか戦争の火種になる。俺はルクレツィアのやり方には怒っているが、オースティンに命を救われた恩があるから、ルビエ自体を悪くは言えない」
「わたくしは、ルクレツィア様を知れば知るほど、彼女に共感するようになったんです。彼女は自分の足で立ち上がって、現実を変えようと戦った。わたくしも同じ立場なら、そうしたと思います」
「恩も共感もよくわからないや。ねえ、ニア?」
「にゃー」
ニアはごろごろと喉を鳴らして、ミオのローブに頬ずりした。
「ミオさん。ニアさん。ありがとうございます。タスティリヤに同行してくださって」
魔法使いを解放し、タスティリヤから食糧を融通する約束を取り付け、レイノルドはマリアの記憶を取り戻して大団円――かに思われたが、レイノルドの体調問題が残っていた。
彼は長く記憶を封じ込められ、命に関わる傷も魔法で治している。
以後の人生の中で、いつどんな影響が出るか誰もわからない。
できれば、魔法に詳しい人間をタスティリヤに連れていきたい。
マリアの願いに応じてくれたのがミオとニアだった。
お礼を言われた二人は、人と猫なのにそっくりな顔で破顔した。
「僕らはマリアヴェーラ様が好きだから来たんだよ。ループレヒトも、たくさん冒険しておいでって送り出してくれたの。タスティリヤは花がたくさん咲くんだよね。それに料理もおいしいって聞いた。楽しみだなぁ」
わくわくするミオは、引きこもっていた頃の彼とは別人みたいだ。
楽しそうにおしゃべりする彼を、マリアとレイノルドは親のような視線で見守った。
揺れる車内は、ほどなくして静かになった。
そろってうたた寝するミオとニアにブランケットかけたマリアは、レイノルドに手を握られてきょとんとする。
「どうかないさまして?」
「忘れてすまなかった」
短い言葉には、罪悪感と後悔と苦しみが溶け込んでいる。
マリアを忘れたのは魔法のせいなのに、義理堅いレイノルドは自分が悪いと思っているらしい。
(本当にお優しい方)
ここまで落ち込んだレイノルドの顔を見るのは初めてかもしれない。
「俺は、まんまと魔法にかかってあんたを忘れて、ルクレツィアと婚約したり冷たい態度を取ったりした。あんたにどんなことをしたのか、ちゃんと覚えてるんだ」
反省するレイノルドの頭にしゅんと下がった耳が見えるようで、マリアはきゅんとする。
大好きな人の新しい表情が見れただけで、これまでの苦労が報われる。
(だけど)
正直に許したのではおもしろくない。
マリアはいたずら心を出して、きっと眉を吊り上げた。
「わたくし、とても怒っておりますわ。レイノルド様ったら、恋人のわたくしを突き放して、ルクレツィア様とべたべたしたと思ったら、結婚式を挙げにルビエ公国に行くと決めて、あげくの果てに代わりに斬られて昏睡状態だなんて」
「本当にすまなかった。あんたの気が済むまで謝るし、何でも言うことを聞く」
「何でもっておっしゃいましたわね?」
ずいっと前のめりになったマリアに、レイノルドはパチパチと瞬いた。
隙だらけの顔がおもしろい。
マリアはふふっと微笑んで、彼の唇にちゅっと触れた。
大好きの気持ちを込めて。
「これで許して差し上げますわ」
まさかマリアからキスされるとは思っていなかったレイノルドは、目をまん丸にした。
パクパクと口を動かしながら赤くなって、まいったと言うように口元を手で覆う。
「勘弁してくれ。これ以上、好きになったらどうするんだ」
「まだ余裕があるのでしたら、わたくし頑張って口説きますわね」
もう誰にも奪われないように。
マリアはレイノルドと指をからめ合うと、彼の肩に頭をあずけて目を閉じた。
「レイノルド様、愛していますわ」
「俺も愛してる」
レイノルドはマリアの頭にこめかみを重ねた。
久しぶりの甘い時間にひたる恋人たちを薄目で見ていたニアは、音を立てないように大あくびをした。




