32話 人面桃花のめのまえ
「タスティリヤからの使者?」
「そう。今、公女サマと会談中だって」
部屋に菓子を持ってきたヘンリーから報告を受けたレイノルドは、読んでいた本を閉じて立ち上がった。
(タスティリヤで何かあったのか?)
近隣国と戦争になる心配は今のところない。
国王や王妃の健康状態も良好だ。
経済的に安定しているし、領土闘争が激しいわけではないので内乱が起きる理由もない。
(まさか、俺を無理やり連れ帰るつもりじゃないだろうな)
それは困る。レイノルドは、忘れてしまった記憶を取り戻す方法を、ルビエ公国で見つけたいのだ。
塔に置いてあった魔法書を調べているが、ルビエ語で書かれていてなかなか読み進められないのがもどかしい。
(使者に会って言おう。俺はまだ帰れないと――)
階段を下りて、暖炉のある部屋の扉に手を伸ばす。と同時に内側から開かれた。
開けたのはオースティンだ。
彼は、ぎくりと表情を凍り付かせた後で、すっと身を引いた。
「お会いになりますか?」
肩越しに見えたのは、毛皮を随所にあしらった華やかなドレス。
ルクレツィアと話し込んでいた着用者は、レイノルドに気づくと、巻いた亜麻色の髪を揺らして振り向いた。
「レイノルド様!」
嬉しそうに名前を呼ばれて、レイノルドの鼓動が乱れた。
「マリアヴェーラ……」
なぜ彼女がルビエにいるのか。そんなことどうでもよくなるくらい意識を奪われる。
初めて朝焼けの見た子どものように、美しいローズ色の瞳に飛び込みたくなった。
(ああ、やはり俺は)
マリアと自分の関係は思い出せない。
けれど体は知っているのだ。
彼女と過ごした年月を。彼女が与えてくれた温かな気持ちを。
「会いたかった」
部屋に入ったレイノルドは、感極まって、薔薇色に染まった頬に手を伸ばす。
と、その腕をルクレツィアに捕まれた。
「彼女と関われば頭が痛くなりますわ」
「お前、どうしてそれを知って……」
再びマリアに視線を戻すと、頭の奥がズキッとうずいた。
割れるような痛みに、思わず頭を抱えてうずくまる。
「ちっ、くしょう……」
奥歯を噛みしめてうなるレイノルドの側で、オースティンは「貴方がいると痛み続けるでしょう」と素っ気なく言う。
「わたくしは帰ります。レイノルド様をよろしくお願いします」
つむった目を薄く開ければ、マリアが足早に真横を通り過ぎるところだった。
「行く、な」
必死に声を出す。すると、彼女は立ち止まった。
「――ご安心を。わたくしが貴方をお救いしますわ」
(やめろ)
言いたい言葉は声にならずに消えた。
(あんた、またろくでもないことを考えているだろ)
わき上がった考えに、自分で自分を殴りたくなる。
(覚えていないくせに『また』とか言うな!)
自分が情けない。けれど、そんな己をマリアヴェーラは見捨てない。
その理由はわかっていた。
彼女はレイノルドを愛している。
そして、多分レイノルドも。
(愛していたんだ。マリアヴェーラを――)
気が遠くなって、レイノルドはその場に倒れ込んだ。
重たい体を抱き起こしたオースティンは、閉じられたまぶたの隙間から、透明な涙が一筋落ちるのを見た。
「恋人を忘れて苦しいですか」
青琥珀より美しい雫は、オースティンの胸にたしかな罪悪感を植え付けたのだった。
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