18話 ふたりきり幕間恋慕
レイノルドに見つかる少し前、マリアは一階の座席の中でも、舞台が見きれると人気のない端の席についていた。
ジステッド家の令嬢が座るような席ではないため、周りの人々は落ち着かない様子だ。
せっかく地味な黒一色のドレスに、スズランのブローチという質素な服装でやってきたのに、目立って困ってしまう。
シンプルなコーディネートの方が、元来の美貌を引き立てるのだということに、マリアは気付いていなかった。
ちらちらした雑多な視線は受け流すことにして、マリアは後ろを振り返った。
王族が利用する中央の特別ボックス席に、レイノルドとルクレツィアの姿がある。
(ヘンリー様の情報通りだわ)
二人が観劇をすると教えてくれたのは彼だ。
自分の記憶が改竄されたと気づいた彼は、同じ状態にあるレイノルドのスケジュールをマリアに伝える役目を果たしていた。
王族の外出には護衛がつくものだがルクレツィア側が拒否している。
レイノルドも強く出られず、いつもヘンリーは建物の中にまで入れないという。
(迷惑な公女様だわ)
マリアは双眼鏡を掲げて、舞台そっちのけで彼らを観察した。
ルクレツィアとレイノルドの距離がやけに近いのが気に障ったが、奥歯を噛みしめてぐっとこらえていると、幕間にレイノルドが一人で席を出た。
マリアも席を立って座席を抜け、足早にロビーへ出る。
姿を現したマリアに、たむろしていた人々がいっせいに振り向いた。
豪華なシャンデリアに照らされたマリアの美貌は、芳香を放つ薔薇の花のように周囲の視線を奪った。
(こんなに目立ったらレイノルド様を見つけても、こっそり見守れないわ)
マリアは女性にしては長身なので、立って歩くとそれだけで悪目立ちするのだ。
加えて〝高嶺の花〟に例えられるこの容姿である。
どこかに身を隠した方がよさそうだ。
階段の影か、それともカウンター横の女神の像の後ろか……。
辺りをきょろきょろ見回していたら、突然に腕を引かれた。
「きゃっ!?」
「来てくれ」
低い囁き声はレイノルドのものだった。
麗しい礼装にドキッとしたのもつかの間、ぐいぐい引っ張られて劇場の奥へ連れて行かれる。
「レイノルド様、どちらへ?」
返事はなかった。
レイノルドはマリアを振り返ることなく、劇場の奥へと進んでいき、廊下の隅にあった扉を乱暴に開けた。
そこはガーデンテーブルが置かれたテラスだった。
びゅっと外の風が吹き込んできて、マリアは身震いした。
(寒いわ)
手を引かれ、問答無用でテラスに出る。
季節は晩秋。全身にひんやりした夜風が吹きつけた。
この季節にテラスに出る客はいないため、二人きりだ。
空は暗いが、ぽっかり浮かんだ満月のおかげで辺りが見渡せる。
床にたまった枯れ葉を蹴散らして足を進めたレイノルドは、マリアがくしゃみをするとピタッと止まった。
「すまない。あんたはドレスなのに」
そう言って、脱いだ上着をマリアに着せてくれる。
労わる仕草が以前の彼のようで、マリアは思わず名前を呼んでいた。
「レイノルド様……」
「どうしてだ?」
「え?」
「どうして、あんたはいつも愛おしそうに俺の名前を呼ぶ」
切羽詰まった問いかけに、マリアは動揺した。
愛おしく聞こえるのは、マリアが彼を愛しているからだ。
しかし、レイノルドはマリアと恋人同士だった記憶を忘れている。
(愛していると伝えても、また冷たく突き放されるだけ)
かといって他に説明のしようがなくて、マリアは赤く塗った唇を噛んだ。
苦し気なその姿はレイノルドの心をえぐった。
衝動的に、マリアの肩を抱き寄せた。
「あ……」
ふわっと甘い香りがして胸が震えた。
高鳴った鼓動に耳を澄ますように、レイノルドはマリアの肩先に額を寄せる。
「……泣かせるつもりはなかった。俺はたぶん、あんたに泣かれるのが苦手なんだ。謝るからそう辛そうな顔をしないでくれ……」
懺悔のような囁き声に、力強い腕の感触に、マリアの涙腺が緩んだ。
(レイノルド様は、わたくしを完全に忘れ去ったわけではないのだわ)
記憶は操作できても、彼がマリアに抱いてきた感情までは消せない。
「レイノルド様」
顔を上げたレイノルドは、キスでもしそうな距離でマリアをのぞき込んだ。
夜の色に染まった青い瞳に、マリアはうっとりと笑いかける。
この青の奥に、本来のレイノルドが――マリアを忘れる前の恋人がいる。
「わたくしが貴方を取り戻します。だから、待っていてください」
「待つ? 何を――」
ちょうどその時、ガチャっと扉が開いた。
顔をのぞかせたオースティンは、寄り添うマリアたちを見てわずかに顔をしかめた。
「何をしていたのですか?」
咎めるような声に、マリアは一歩前に出て口角を上げた。
「レイノルド様に、俺の周りをうろちょろするなと注意されておりましたのよ。まさか、わたくしたちが密会しているように見えまして?」
「…………注意する相手にジャケットを貸しますか?」
「タスティリヤの王子は紳士ですわ」
オースティンはジャケットをレイノルドに返すマリアを一睨みした。
おお、怖い。
おどけるマリアに視線で頷いて、レイノルドは彼女にかけていたジャケットを取る。
「ルクレツィアが呼んでいるんだな?」
「はい。もうじき次の幕が開くので、早くお戻りになるようにと」
「今行く」
館内に戻るレイノルドに続いて、オースティンもテラスを去った。
一人残されたマリアは傾いた満月を見上げる。
その拍子に、右目から涙がつーっと流れた。
「レイノルド様が覚えていてくださった……」
魔法で記憶を改竄されようと、消せない恋の炎がレイノルドには宿っている。
それは糸口だ。そして希望だった。
(絶対に、取り戻してみせますわ)
満月にではなく、自分自身に宣言した。
神頼みするよりも、こちらの方がずっと勇気が出る。
次の幕が開けるのを知らせるブザーが鳴り、マリアも館内へ戻っていく。
テラスに出た時とは違って、熱を持った体はもう寒くなかった。




