15話 じくじたる誘惑芝居
豪華絢爛な劇場には、色とりどりのドレスを着た夫人や令嬢、宮廷服に身を包んだ殿方たちが集まっていた。
真夏の夜に開かれるオペラは、貴族にとって娯楽であり大事な社交場でもある。
楽しそうに会話を弾ませていた観客の視線は、時折、二階のボックス席へと動く。
そこにいるのは、薔薇の花びらのような深紅色のドレスを身にまとった、気高くも麗しき令嬢――マリアヴェーラ・ジステッドだった。
マリアは、雑多に送られる視線の矢を浴びながら、父親のジステッド公爵と並んで椅子に座っていた。
中央の特等席を見ると、めかし込んだアルフレッドとレイノルド、そして聖女ネリネの姿があった。
アルフレッドは赤、レイノルドは青の装い。
ネリネの白いドレスは袖にボリュームがあり、遠目からでも分かる金の刺繍がこれでもかと入っている。劇場では、舞台上の役者より派手な格好はご法度だというのに、ずいぶんな目立ちたがりだ。
(王妃殿下が手を焼くわけだわ)
開演時刻ちょうどに幕が上がる。
愛らしい歌姫の見せ場も半ばに、悲劇へと突き進む主人公の運命は、情感に満ちた音楽と重なって盛り上がる。
悲しくも美しい物語に、マリアは自分の境遇を重ねた。
――わたくしとレイノルド様の結婚が、国を破滅させる――
聖女の預言は出まかせである可能性が高い。それも、かなりの割合でだ。
しかし、嘘は言った者勝ちのものでもある。どんな突拍子もない話も、広まるうちに信憑性を増していき、何の落ち度もない誰かをおとしめる。
『知り合いの誰それが聞いたそうだ』『友達の友達が言っていたらしいんだけど』
そうやって人口を膾炙していく中で、嘘は真実のお墨付きを得るのだ。
「さて、知人に挨拶してくるか」
父が立ち上がったので、マリアは我に返った。
いつの間にか幕が下りて、中休憩の時間に入っていた。
「お父様。わたくしも、レイノルド様にご挨拶して参ります」
マリアは、特等席に上がるための中央階段へと向かった。
ボックス席から一度ロビーへ降りて、そこから奥まった通路へと入る。
階段の下には鎧を身に着けた兵が立っていて、かなり厳重な雰囲気だ。
第二王子の婚約者だと告げて、スカートを持ち上げて段に足をかけたところ、後方から声をかけられた。
「マリアヴェーラ様」
振り向くとクレロが立っていた。
黒髪を引き立てる緑色の宮廷服と手袋の白さが目を引く。どんな女性も目で追うような男性なのに、今日は誰も連れ歩いていないようだ。
「クレロ様も、こちらにいらっしゃったのですね」
「一階席で見ていました。しかし、観客はボックス席にいらっしゃるマリアヴェーラ様に夢中でしたよ。特等席に王族がいらしているのに、ジステッド公爵令嬢への賞賛ばかりで……」
「本当のことをおっしゃってくださいませ。わたくし、悪評を立てられるのにはなれておりますの」
破滅の預言は宮殿内にとどまらず、人づてに貴族にも届いている。
素晴らしい劇よりもマリアが話題になっているのは、一人歩きしている噂の方が面白いからだろう。
クレロは、暗い表情になって溜め息をついた。
「正直に申し上げますと、酷い噂ばかりでした。マリアヴェーラ様がその美貌で第二王子をたぶらかし、王妃も味方につけた。そのせいで、国民がその報いを受けさせられると大声で話す夫人が隣にいたのです」
「お気になさらずともよろしいのに。噂好きの者は、飽きるまで放っておくよりありませんわ」
「ですが……」
言葉を切ったクレロは、マリアの耳元にそっと吹き込んだ。
「こうなったのは聖女のせいでしょう。実は、ネリネ様についてお耳に入れたいことがございます」
「!」
クレロは、ネリネの肖像画を描いた経験がある。
ジステッド公爵家に滞在して、長椅子に座らせたマリアに向き合っていたように、ネリネとも長い間、一緒にいたはずだ。
我がまま放題の聖女に一泡吹かせられるような情報を握っているかもしれない。
「ぜひ、お聞かせください」
マリアが告げたとき、次の幕を報せる鐘が鳴った。
だが、劇場に戻る気は二人ともなかった。
急ぎ足でホールに戻っていく流れに逆らって休憩室に向かう。
そこは、ボックス席の利用者だけが使えるサロンになっていて、人はまばらだ。
「こちらでしたら、誰にも聞かれないと思いますわ」
マリアは、サロンの奥まったところにある個室へクレロを導いた。
曇りグラスで仕切られていて、明かりはランプ一つという薄暗さ。そのため、あまり利用する客はいないから内緒話には打ってつけだ。
「それで、聖女について話したいこととは何でしょう?」
カウンターで受け取ったシャンパングラスを置いたマリアに、クレロは白手袋を脱ぎながら近づく。
「ネリネ様は、私に肖像画を描かせている間、何度も話してくださいました。どうしたら第二王子殿下を手に入れられるか、ずっと考えていたのだと。彼女は、国王の外遊についていった経験があり、とある帝国の妃が描かせた、それはそれは美しい肖像画を見て心を奪われたのだそうです。その肖像画は、まるで魔法でもかけられたようにキラキラと輝いていた。それを思い出して、自分も第二王子に送る『輝く肖像画』を作ろうと思い付かれたのです。そして――私が選ばれた」
手袋から抜かれたクレロの手が、キラリと輝いた。
光っているのは爪の隙間に入り込んだ絵の具だ。
「クレロ様? それは一体――」
「失礼」
「きゃっ!」
ドンと強く肩を押されて、マリアはテーブルに押し倒された。
グラスは床に落ちてガシャンと割れ、まとめていた亜麻色の髪はほつれてテーブルに広がる。
「マリアヴェーラ様、私はどうしても貴方を諦めきれない。ネリネ様が第二王子と、貴方が私と結ばれれば、何もかもが上手くいくとは思われませんか。破滅の預言など気にせずに、幸せな家庭を築けるでしょう?」
クレロはマリアの首元に顔を伏せる。
肌に感じる熱い息に、ゾゾゾッと鳥肌が立った。
「離しなさい、無礼者っ!」
「ここにいるわ!」
マリアが叫んだのと同時に、個室のドアが開かれた。
入ってきたのはネリネとレイノルド、それにアルフレッドだった。
双子の王子は、押し倒されているマリアに驚いて、両目を見開く。
クレロがしぶしぶ体を起こすと、ネリネは、してやったりという顔でニンマリと笑った。
「あたしの言った通りだったでしょう? マリアヴェーラ・ジステッドはその肖像画家と恋仲なの。だから席に戻っていないなら、観劇を抜け出してデートしているに違いないって!」
「嘘をおっしゃらないで、ネリネ様。わたくしは乱暴されそうになっていたのです!」
しかし、ショックを受けた様子のレイノルドには響かなかった。
無言でマリアを見つめた後、クルリと踵を返す。
「外の空気を吸ってくる」
「え?!」
声を上げるネリネの横を抜けて、レイノルドは個室を出た。
正気でいるつもりだったが、頭は冷静じゃない。
風邪で寝込んだときみたいに、グワングワンと耳鳴りがする。
(あんたが別の男といい仲になるなんて、ありえない。人目をはばかって会っているなんて、ネリネの嘘だと思っていた……)
だが、マリアは現に流行の画家と二人きりでいた。
用心深い彼女が、うかつに二人きりになったとは考えにくい。
誰にも知られたくない話があったのだろう。
だから、休憩時間が終わったのに席に戻らずに、二人きりで会っていた――。
ズキン、と胸が痛んだ。別に、剣や矢にうがたれているわけではない。
ただ、裏切られたのが辛いだけだ。
長年、一途に想い続けてきた相手が、今まさに離れていこうとしている。
「…………あんたも、俺を好きなんじゃなかったのかよ」
「好きですわ!」
大きな声が、劇場の正面ロビーに響いた。
見上げると、ロビーを見下ろす二階の手すりに手をかけたマリアが、今にも泣き出しそうな顔でレイノルドを見下ろしている。
あの顔を、レイノルドは前にも見たことがある。
第一王子アルフレッドから婚約破棄を言い渡されて、裏庭の奥の奥に進んでくるときの彼女も同じ表情をしていた。
悔しいけれど、どうやっても取り返しがつかない事実を必死に受け入れようとしているような。
それが〝高嶺の花〟らしいと分かっているような。
けれど、幼い子どもみたいに、みっともなく大声で泣き出してしまいたいときの顔だ。
「レイノルド様! わたくし、あなた以外の男性と恋をしたいとは思いません! 国王陛下に進言するとき、あなたのためなら処刑されても構わないと思った、あのときのままですわ。信じてください!!」
「…………」
どう答えたらいいのか分からなくて、レイノルドは俯いた。
すると、予想もしない言葉が降ってきた。
「わたくしが本気だと、命をかけて証明いたします!」
「は?」
見上げると、マリアは手すりを乗り越えて、空中に身を投げた。
「――マリア!」
レイノルドはとっさに走り出し、滑り込む形で彼女を抱きとめた。
ひるがえった深紅色のドレスが少し遅れて床に落ちたときには、座り込んだレイノルドは、マリアを力いっぱい抱きしめていた。
「あんた馬鹿か。もしも受け止めきれなかったら、どうなっていたか……!」
「死んでも構いませんわ。わたくし、レイノルド様を傷つけたままでは生きていけませんもの」
マリアは、レイノルドの胸に手を当てて、彼の顔を見上げた。
奇しくもそこは、先ほど痛んだ場所だった。
「男性と二人きりになったのは、わたくしの落ち度です。恋敵の弱点を聞き出そうとして冷静さを失っておりました。二度とこんなことは繰り返しませんわ。もしも破ったら、レイノルド様の手で処刑してくださいませ……」
澄んだ碧色の瞳が、まっすぐにレイノルドを見つめてくる。
マリアヴェーラは、卑怯な真似はしない。明るみに出なければ何をしてもいいとは絶対に思わないし、後ろ暗いことは死んでもしない。
なぜなら、ジステッド公爵家の令嬢に、そんな行いはふさわしくないからだ。
貴族令嬢として完璧な存在。しかし、そこにマリア個人の恋心が加わると、怖い物がなくなってしまうらしい。
(恋ってのは厄介だ)
レイノルドは、短く息を吐いた。
「……あんた、俺のためなら死ねるんだな」
「はい。喜んで」
「なあ」
「何でしょう?」
レイノルドは、不思議そうに瞬きするマリアの目蓋に、そっと口づけた。
「俺も、あんたのためなら殺せる」
「ここに、ジステッド公爵はおられるか!」
ロビーに杖をついて入ってきたのは、大きな体格の老人だった。
獅子のように逆立ったグレーの髪と、鼻を横切る古傷が厳めしい顔つきは、マリアもよく知っている人物だ。
マリアは、素早く立ち上がってドレスを整えると、深くお辞儀する。
「お目にかかれて光栄です、レンドルム辺境伯。わたくしは、ジステッド公爵令嬢のマリアヴェーラでございます」
「おお。先だってはお世話になりました。そちらは――」
レンドルム辺境伯は、マリアを支えるレイノルドに気づくと、拳を胸に当てる武人の礼をした。
「第二王子殿下にも相まみえるとは、急いで王都へ来て正解でした」
「急いで? ということは、辺境で何かあったのか?」
尋ねたレイノルドに、辺境伯は神妙に答える。
「詳しくは、ジステッド公爵を交えてご説明いたしたい……。とある事情で、辺境が脅威にさらされております。このままではいずれ国中に被害が広まり、国を揺るがす問題となりかねません」
「国を揺るがす……」
衝撃的な言葉に、破滅の預言を抱えたマリアとレイノルドは顔を見合わせたのだった。




