8話 あくやくの初志貫徹
――――ジステッド公爵令嬢マリアヴェーラが第二王子レイノルドと結婚すれば、このタスティリヤ王国は天災と飢饉、他国からの侵略にさらされ、滅亡するだろう――
聖女ネリネの預言は宮殿中にとどろいた。レイノルドは、国王に対面して事情を説明すると言っていたが、それから音沙汰がない。
こんな状況では婚約披露についての相談もできないため、マリアは側近から借りた指示書をジステッド公爵家に持ち帰り、一人で読みこむ日々を送っていた。
「難しい顔をされていますね、マリアヴェーラ様。休憩しましょうか」
深紅のドレスを身につけたマリアがクレロにそう言われたのは、肖像画のモデルをはじめて三十分ほど経った頃だった。
つとめて表情を作っていたが、預言について思いを巡らせるうちに、顔をしかめてしまったようだ。
「申し訳ありません。わたくしったら、つい考え事を」
「そんな日もありますよ。結婚が迫った女性はとくにね」
にっと唇を引いたクレロは、絵の具をしぼったパレットを置いて、かたわらにあったバスケットを持ち上げた。
「流行のお菓子を買って来たのです。よろしければ、お一ついかがですか?」
チェックの布をめくると、バスケットの中には小さなチュロスが並んでいた。
チュロスは星型の口金でしぼり出した揚げ菓子で、タスティリヤ王国の全土で食べられている庶民的なお菓子だ。
一般的に細長い棒の形をしているものだが、これはハート型に成形されていて、マリアの乙女心をくすぐった。
「かわいいですね……」
「そうでしょう。ハートの形をしているからでしょうか。これを食べると恋が叶うという噂で、店には長蛇の列ができる人気なのですよ」
クレロは、パラフィン紙にチュロスを一つ包んで、マリアの手に握らせてくれた。
「ありがとうございます。食べたらお化粧が崩れないかしら」
「崩れたら直せばいいのですよ。私はいくらでも待ちますし、時間もたくさんあります。それよりも今は、マリアヴェーラ様の不安を取りのぞく方が重要だ」
そう言って、マリアの隣に座る。
こんな近距離でレイノルド以外の男性と話すのは久しぶりだ。身構える気にならないのは、クレロが持っている柔らかな色気のせいだろう。
「今から、私はジステッド公爵家に雇われた肖像画家レンドルムではなく、貴方の話し相手のクレロです。失礼ですが、第二王子殿下と何かありましたか?」
「……どうしてお分かりになったのかしら。そうやって、いつも結婚を控えた女性にちょっかいを出していらっしゃるの?」
マリアが冗談で返すと、クレロは楽しげに笑った。
「そこはご想像にお任せしますよ。ですが、相手の気持ちが分かるのは肖像画家だからです。キャンバスに写し取った像から、モデルの気持ちが伝わってくるのですよ。喧嘩でもなさいましたか。それとも、彼の昔の恋人でも出張ってきましたか?」
「残念ながら、全て外れですわ。相手の結婚相手に名が挙がっていた女性に、喧嘩を売られましたの」
マリアはチュロスに噛みついた。
カリッとした食感と甘みは、目がくらむほど美味しい。揚げ物は体型維持の敵だが、今日ばかりは知るものか。
「その女性は聖女で、わたくしと第二王子が結婚すればタスティリヤ王国が滅びると預言されましたわ。わたくしは嘘だと思いましたが、レイノルド様は深刻そうな顔をしておられました。国王陛下にお目通り願いたいと、相手を連れて宮殿のなかに戻ってしまわれて――」
あの預言のあと。
レイノルドは、抱きつくネリネを鬱陶しそうに振りほどくと、マリアに「国王に説明しにいく」とだけ告げて宮殿に向かった。
ネリネの腕をつかんで。
マリアをその場に一人残して。
「――それから一切の連絡がありませんのよ」
溜め息をつくと、クレロも荒っぽく息を吐いた。
「酷いですね……。結婚にケチを付けられて不安がっている婚約者にフォローも入れずに、ただの妃候補と共に行ってしまうなんて。同じ男として信じられないな」
クレロが不満を口にしてくれたので、少しだけ溜飲が下がった。
ネリネの預言もたいがいにしろと思ったが、マリアの胸に引っかかっているのはレイノルドの対応の方だ。
あのとき、彼がネリネではなく、マリアの腕をつかんで、国王に弁明に行ってくれたら。
たぶん、こんなにモヤモヤはしなかった。
「聞いてくださって感謝いたします。誰にも吐き出せなくて苦しかったのですわ」
「……貴方は……」
マリアが寂しげに笑うと、クレロの膝からバスケットが落ちた。
驚いて肩をはねさせるのと手を取られるのは同時だった。
「どうして、そんなにも、けなげでいらっしゃるのですか」
クレロの手の平には、剣の稽古でできたマメがある。
皮膚も厚く、骨張っていて男らしい。
レイノルドとは全然ちがう感触に、マリアは固まってしまった。
そんなマリアを、クレロは熱に浮かされたような表情で見つめてくる。
「そんな酷い男、たとえ王子でも尽くす必要はありません。私なら、貴方にそんな思いはさせない……」
うるんだ瞳が蜂蜜色に光った。
遊び人めいた余裕のある男性だと思っていたが、マリアへまっすぐに注ぐ視線は誠実だ。
その一方で、虫を惹きつける甘い蜜のような情欲も感じる。
(真正面から見るべきではなかったわ……)
マリアは後悔した。
だって、そのせいで気づいてしまった。
クレロが、自分に恋をしていることに。
(わたくしの恋の相手はレイノルド様よ。今さら他の誰かと恋をするなんて、あってはならないはず、なのに)
胸にわだかまっていたモヤモヤが膨らんで、不安の色を濃くしていく。
破滅の預言は、マリアに嫉妬した聖女ネリネの当てこすりのはずだ。
でも、もしも本物だったら?
(わたくしの運命の相手は、レイノルド様ではない――?)
ぞっと背筋が寒くなった。
アルフレッドへの恋慕が突如として打ち砕かれたように、今度はレイノルドまで奪われるのだろうか。
憂鬱に取り憑かれそうになったマリアの視界に、キラリと反射する光が入った。
光っているのは、スズランのブローチだった。
お揃いのネクタイピンは、レイノルドの元にある。ペアルックなんて柄ではないのに、マリアが喜ぶから身に着けてくれている。
(レイノルド様は、彼なりにわたくしを想ってくださっているわ。それで十分よ)
マリアは、クレロに掴まれていた手を、さっと引いた。
「ご馳走様でした。手が汚れたので洗って参りますわね」
侍女の手を借りて立ち上がったマリアに、クレロは言い募る。
「マリアヴェーラ様。第二王子殿下との仲について、お考え直されては」
「なぜ?」
冷たく振り向いたマリアに、クレロは眉をひそめる。
「なぜって……今、お伝えしたように、私はマリアヴェーラ様を、」
「勘違いしていらっしゃるようね、クレロ様。わたくし、レイノルド様との関係に不安は抱えておりませんわ。明日にでも結婚したとして、何の不都合もありません」
「ですが、結婚すれば国が破滅すると、聖女に預言されたのですよね?」
「ええ。とっても面白いでしょう?」
マリアは持ち前の美貌を輝かせて、あでやかに微笑んだ。
「この恋を叶えるためなら、わたくし、どんな困難にでも立ち向かえますの。わたくしの恋と、聖女の預言、どちらが勝つか見物だわ」
傲岸不遜なまでの態度に、クレロはあ然としている。
マリアは追い打ちをかけるように言い放った。
「ついでに申し上げておきますね。結婚を考え直せだなんて、簡単に言わないでくださいませ。これは、第二王子殿下がお決めになった結婚ですわ。レイノルド様をそしるだなんて不敬、お家を離れたあなたに許されないとお分かりでしょう?」
「……失礼いたしました」
クレロは頭を下げた。それを一瞥して部屋を出たマリアは、ぼそりと呟く。
「他人に恋人の悪口を言われると、自分のモヤモヤが吹っ飛ぶくらいに苛立つものなのね」
新たな発見に気を良くしながら、マリアは、砂糖粒のついた指をぺろっと舐めたのだった。




