山井祐
美しい彼女によって、僕の孤独は完璧になる。きっと誰も入り込むことのできない、永久の一人。
彼女はいつも、ここではないどこかを見つめていた。全世界を憎悪するように睨み付けながら、永遠に手に入らないものに恋い焦がれている。そんな、美しい表情だった。
記憶の中の彼女はいつも横顔だ。
一番古い記憶は、高校の入学式の朝。初春の冷たい空気に薄水色の空が凍えていた。それでも先週の晴天の為か、校門の桜は枝に満開の花弁を咲き誇らせていた。
入学式にはまだ早い時間。校門付近に人はまばらで、写真を撮っている生徒が数人いるだけだった。そんな中、桜並木に埋もれるように、彼女は立っていた。
女子にしては身長が高い。それが第一印象だった。
次に、長い黒髪が目を引いた。絹のような細い髪が春風に乱され、宙を舞う。その合間に、青白い横顔が見えた。
遠目にも、睫の長い、整った顔立ちだと分かる。白い頬にはどんな感情もなく、唇は痛みを堪えるように歪んでいた。
彼女は突如、長い脚を振り被り、桜の幹を強く蹴り上げた。
世界が止まったような錯覚に、僕は息を呑み込む。
尚も彼女は桜を蹴り続ける。憎しみ。絶望。静かな横顔から割れんばかりの激情がほとばしっていた。
桜の花弁が舞い落ちる中、黒髪と制服のプリーツスカートを振り乱し、狂ったように彼女は桜を蹴っていた。
しばらくして気が済んだのか、彼女は足を止めた。乱れた髪もそのままに肩で息をする。
こんなに美しい孤独を抱えた人を初めて見た。僕は確信する。彼女の孤独は、僕が理解するのに相応しい。僕にしかその美しさを理解できないと思った。
顔を合わせる度両親は、いつも蔑んだ目で僕を見る。両親は事あるごとに僕に対し「お前さえいなければ」と不幸のすべてを擦り付け、一つ違いの弟を溺愛した。
否定され、拒絶され、傷付く心などとうに失った。敵意に晒されながら育ち、僕はじっくりと美しい孤独を育んできた。誰にも理解できない、美しい孤独だ。
脆く儚い繭に包まれて、ようやく僕は生きてこれたのだ。
小中と一人で過ごしてきた僕に、高校で世話焼きの騒がしい友人ができた。
間の抜けたぱっとしない顔面を裏切らず、能力やセンスも凡庸、人の良さだけが取り柄の下らない人間だ。彼は僕の孤独の真価を理解せず、静寂を平気で破る無神経な男だが、人を見る目はあるようで健気に僕を慕ってくる。
体良くあしらっていた彼の瞳に、熱っぽさが滲むようになったのは、それからしばらくもしないうちだった。
「山井、そっちじゃないよ」
移動教室に向かおうとして、暮に呼び止められた。
「はあ? 次は理科室だろ」
「ううん。大澤先生が体調不良で、次は多目的室で山本先生の授業。山井寝てたから、佐野が話してたの聞いてなかっただろ」
慈しむように微笑む暮を無視して、方向転換し歩き出す。そんな僕の後ろから、暮がついてくる気配がした。
「ねえ山井、寝癖ついてるよ」
鬱陶しい。
「あ、頬にも跡ついてる。教科書とか下敷きにしてただろ?」
黙れ。言おうとして振り返り、暮の瞳の甘さに吐き気を覚えた。
「山井、賢いのにそういうとこは抜けてるよね」
迷惑。それに尽きる。
そんな生温い目で僕を見るな。
そんな生易しい感情を僕に向けるな。
そんな陳腐な言葉で僕を語るな。
暮と過ごしていると、苛立ちや胸焼けが絶えない。けれど、僕のペースを尊重し、不用意に搔き乱してこないところはそれなりに評価していた。
しかし、霜が降りる晩秋の頃、暮が急に距離を詰めてきた。
「山井昨日、約束してたのに勝手に帰っただろ」
朝一番の教室、硬い表情で暮が話し掛けてきた。暮との約束を破ったのはそれが初めてではない。何を今更、と思った。僕は暮なんか必要じゃないし、暮が勝手に纏わりついてくるだけだ。自分の気紛れを優先して何が悪い、と腹が立つ。
僕は一限目の教科書を準備しながら、暮と目を合わせずに言った。
「いつものことだろ。それが嫌なら僕に構うなよ」
「でも俺は、約束を破られて凄く悲しかった」
怪訝な目で僕は暮を見た。「悲しかった」だなんて、幼児が母親に泣きごとを言っているようで、男子高校生の言動として不釣り合いに思えた。
「だから何だよ。もっと優しくしてくれってか? 仲良しの幼馴染にでも頼めよ」
暮は心外そうにぐっと黙り、押し殺した言葉を吐く。
「……俺は、山井のそういう自分を強く持ってて自由に振舞うところ、憧れてた。だけど、俺の感情なんてないみたいな行動されたら、さすがに苦しいよ」
僕は舌打ちを漏らし、不機嫌を隠さず言った。
「僕のこと、分かったような口利くなよ」
普段なら、僕が不満を漂わせると主張を退く暮が、それでもめげずに口を開いた。
「でも、分かりたいと思うよ。だって、お前のことが好きだから」
それは僕が当然知っていた暮の感情。知った上で、都合が良かったから好きにさせていた。だけれど、こんな朝の賑やかな教室で、あまりにもさらりと言い放ったその神経に感情が逆立った。
慌てて周囲を見渡し、僕らを怪訝な目で見ている奴らがいないか目を走らせる。そして好奇の視線が見当たらないことに胸を撫で下ろし、突き放すように低い声で言った。
「気持ち悪い」
吐き気がする。蛆虫のように不快な感情が全身を這う。素直な吐露は、暮を傷付けるのに十分だったようだ。泣きそうに表情が歪み、無言で立ち去っていくのを、清々した気分で見送る。
一人にしてくれ。冷たく、清らかなものに触れたい。
暮に粟立たせられた心が棘を伸ばす。僕を変容させるな。孤独を返せ。
僕の願い通り、暮が話し掛けてくることはその後なかった。
僕が暮を振った冬、暮の幼馴染の女に呼び出された。
「満希に、どうして酷いこと言ったの」
涙目で睨み付けられても、一切心が動かなかった。それよりも、彼女の付き添いの女に僕の視線は釘付けになった。
彼女だ。
桜の木を一心不乱に蹴り続けた、あの時の女。鮮烈に記憶に残る、乱れた黒髪と制服のプリーツ。
僕を見ろ。そう願った。
この人の美しい魂は欠けている。その欠けに合致する魂は、僕のものだけだ。
けれど、彼女の美しい空洞の瞳は、真っ直ぐに暮の幼馴染の女を見つめていた。見蕩れる、と表現してもいいような、心酔する目線。その感情を僕は知っている。暮が僕に向けていたあれだ。
どうして僕を見ない。苛立ちに上の空だった僕の意識を、甲高い声が引き戻した。
「私がどんな思いで、あの人を自由にしたと思ってるの。いつも遠く、遠くを見つめてるあの人を、どんな思いで一人にさせたと思うの。あの人はあなたしか愛せないのに、どうしてあなたそれを奪うの」
彼女の丸い瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。紅潮した頬を、必死に両手で拭っている姿から、僕にさえ彼女が暮をどんなに大切に思っているか伝わってくる。
あの醜い友人が、この女にとってはこの上なく美しいものなのだ。
それは、新鮮な驚きだった。そしてようやく、罪悪感が胸を掠めた。僕は、価値あるものを傷付けたのかもしれない。
僕は女からふっと視線をそらせた。その時、泣きじゃくる女を宥める彼女がやっと僕を目で追うのが分かった。
憐れみ。そうとしか言いようがなかった。
可哀想な人。彼女の双眸はあまりにも雄弁に憐憫を湛えていた。
僕はたまらない気持ちになって、踵を返しその場を後にした。
高校二年生の始業式、あの桜の下に人影を見た。
彼女かと思った。それほどに、遠目から見たその人物は儚く美しく映ったのだ。
吸い寄せられるように近付けば、その人物がこちらにゆっくりと顔を向けた。
よく見れば、彼女とは似ても似つかぬ姿だった。癖毛の短髪、学ランを纏ったその男は、暮だった。
一緒に過ごしていた頃からは想像もつかないような、静かな表情だった。静謐な視線で僕を捉え、悲しげに逸らす。
暮は黙ってこちらに近付いてきた。僕は何か話しかけられるのではないか、もしくは危害を加えられるのではないかと内心危惧していたが、暮はそのまま目を合わせることもなく通り過ぎていった。
無視された。安堵と共に敗北が胸に広がる。
僕は暮とクラスが分かれ、そのまま高校生の間僕と彼が関わることは一切なかった。
夏の日、帰り道に彼女を見かけた。
その日は大型の台風が接近しているとかで、部活動が中止で帰宅となった。雨こそ降っていないものの、黒々とした厚い雲が空を駆け巡り、横殴りの風が吹き付ける不穏な天気だった。
遊歩道の木々がざわめき、足元を木の葉が吹き抜けていく。学ランの胸元を掴み、逆風に顔を顰め進んでいると、信号のない横断道の前に彼女は佇んでいた。
強風に黒髪が舞う。制服の裾や袖がはためき、生地の厚いプリーツスカートがバサバサと音を立てていた。
彼女は青白い顔で、車が行き交う横断歩道を見つめている。トラックの大きな車輪に巻き込まれ、何やら白いものが舞っている。車に轢かれ、跳ね飛ばされ、彼女の足元に転がってきたそれは、どうやらスーパー袋のようだった。
彼女の長い髪が、視界を遮るように顔に打ち付けられる。彼女の数歩先で、再びスーパー袋が車に轢き潰された。それを凝視する彼女の横顔には、怒りと悲しみが滲んでいた。
彼女は車輪の跡のついたスーパー袋に、指先を伸ばした。タンクカーが横断歩道に迫っていた。僕は思わず駆け出し、彼女の手首を強く掴んだ。
驚愕の表情で彼女が振り向く。僕の手の平の中に、彼女の肉体があった。細く、けれど肉がなく骨ばった手首。嵐の前の湿度で、その白い肌は薄らと汗ばんでいた。
僕は浅い息を数度繰り返し、掠れた声で言った。
「僕の片割れになって欲しい」
怪訝な顔で彼女が問う。
「あんた、誰?」
「そんなこと、どうでもいいだろう」
焦りに押されながら僕は言った。彼女に声を掛けたのはこれが初めてだった。いつも遠くからその美しい横顔を眺めるだけだった。唯一彼女から向けられたのは憐憫のみ。
それでも今、言いたかった。
「名前とか、人柄なんてどうでもいい。僕らは、魂が合致している」
彼女の表情が、拒絶に歪んでいく。
「美しい君には、美しい僕が相応しい」
言い終わる前に、彼女が僕の手を振り払った。
「離して、気持ち悪い」
彼女は一歩後ずさった。未練がましく、僕の指先が縋るように動いた。
「なんで、あんな醜い人間が好きなんだ」
震える声で問い掛ける。
彼女はあの女といるときだけ、地に墜ちる。平凡な顔で笑い、凡庸な言葉を吐き、陳腐な仕草をする。その姿は酷く醜いのに、どうしてそんなに幸せそうなんだ。高潔な魂を手放して、低俗な凡人に甘んじるんだ。
彼女は僕に握られた手首を庇うように手で覆い、化け物でも見たかのように首を振った。
「あんたには理解できない。私は、あんたを理解したいとも思わない」
吐き捨て、彼女は横断歩道に飛び出した。両側から接近していた車が停止し、横断歩道を彼女が駆け抜けるのを待っている。彼女が反対側に渡り切ってしまうと、僕が追いかける間もなく再び横断歩道は車が行き交い塞がってしまう。
跳ね飛ばされたスーパー袋が、空高く舞い上がった。僕は、まだ彼女の温度を覚えている手の平をきつく握り締めた。
美しい彼女によって、僕の孤独は完璧になる。きっと誰も入り込むことのできない、永久の一人。僕は、僕の理解者になれたかもしれないただ一人を永遠に失ったのだと悟った。
僕を振り切って走り去って行く後ろ姿さえ、彼女は美しかった。