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片結び  作者: 砂原翠
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藤巻(北園)千晴

あなたと出会うまで私は、ずっとずっと淋しかった。

 あなたが、私を見つけてくれたの。あなたと出会うまで私は、ずっとずっと淋しかった。


 小学五年生のクラス替えで、私は大橋百花と同じクラスになった。その頃、私は非常に太っていて、クラスでも孤立していたから、私たちは決して友達ではなかった。けれども、玄関や教室で私と目が合って、「おはよう、北園さん」と声を掛けてくれたのは、百花だけだった。

 小学生の頃、母は私の体重を増やすことに執心していて、毎日吐くほど料理を食べさせられ、吐くことも許されなかった。そして腹や頬に贅肉を蓄え、肥えた私を見て「あんたは醜いねえ」とうっそりと微笑むのが日課だった。母は自らが折れそうに細いのが自慢だったのだ。

 家にも学校にも居場所がなかった私は、善行を積むことに取り憑かれていた。放課後に一人で黒板や掃除用具を綺麗にし、帰路に道端のごみを拾って持ち帰った。人知れずいいことをすればいつか必ず報われる。そういう信仰だった。

 その夏の朝も、私は忘れ去られていたクラス全員のプランターにホースで水を遣っていた。照り付ける日差しが肌を焼き、むくんだ顔から汗が滝のように噴き出すのを、土で汚れた腕でふき取っていた。すると、鈴のような声が背後から投げかけられた。

「北園さん、偉いね。みんなの鉢植えのお世話をしてくれてるの?」

 振り返ると、百花がいた。日に焼けて赤みを帯びた肌をレモンイエローのワンピースで包み、栗色のボブヘアーの毛先を肩のあたりで跳ねさせていた。小ぶりな鼻と、丸っこい目で私を見つめ、ふっくらとした唇で笑った。

「でもいいんだよ。世話しない人の花は枯れちゃえばいい。だって、そうじゃなきゃおかしいもん」

 その時、私たちは一瞬で共犯になった。百花は己の傲慢をひけらかし、私の偽善と醜悪を許した。


 あなたと目が合って初めて、呼吸が楽になったのです。あなたが笑い掛けてくれて初めて、生きていてよかったと思ったのです。


 秋口には私と百花のプランターだけ実を付け、私は両親の離婚によって生まれた町を引っ越した。

 母と離れたことによって、私の体重は瞬く間に減っていき、中学の卒業前には私をブスだと呼ぶ人はいなくなり、異性に思いを打ち明けられることが増えていった。今更どれだけ容姿を称賛されようと心は冷め、胸にこびりついて離れないあの悪戯な笑みがより輝かしく懐かしく思い出されるだけだった。

 そして父の再婚を機に、私は母の元に返された。離れている間、母は私を取り戻したがっていたようだが、いざ同居する運びとなっても彼女は新しい彼氏に夢中で、自尊心を満たしてくれない娘には興味を失ったようだった。私が百花と再会したのは、そんな時だった。


 高校の入学式の後、クラス分けの掲示を見る人ごみの中で、一瞬で彼女だと分かった。記憶の中より短い髪の、あどけなさに凛とした意志の強さが滲んだ、高校生になった百花がいた。小学生の頃から仲の良かった暮くんと相変わらず親しげに話していた彼女は、ふいに私の方へと視線を投げた。

 口を開きかけ、迷う。百花は私のことなんて覚えていないかもしれない。しかも見た目があの頃とはかけ離れている。むしろ、初対面として接した方が、距離を縮められるのではないか。

 そんな私の小心と浅ましさを吹き飛ばし、百花は溌溂と声を張り上げた。

「久しぶり、北園さん」

 あの頃と変わらない笑顔に、胸が締め付けられ、涙が滲んだ。人垣を割って近付き、「今は藤巻って苗字なんだ」と囁けば、「じゃあ千晴ちゃんって呼ぶね」と眩しい笑みが言う。

 あなたに会えなくて、ずっと淋しかったの。声にならなくて、微妙な顔で笑い返した。


 彼女と同じクラスになって、親友になれたことは、私の大きな幸運だった。でも一緒にいる時間が長いほど、悲しい思いをすることも多かった。

「百花はさー、B組の暮くんと付き合ってるわけー?」

 くすくすと笑いながら、友人の一人が百花に問い掛ける。私は何気ない風を装って、内心気絶してしまいそうに狼狽えていた。嫌だ。何も聞きたくない。何も言わないで。

 けれど、照れることも焦ることもなく、こともなげに百花は答える。

「付き合ってないよ。私が好きなだけ」

 きゃーと友人たちが盛り上がるのを、私は遠くで聞く。いいな、と思った。こんな風に堂々と誠実に百花に愛される暮くんが。そして、自然に己の恋を誇ることのできる百花が。

 薄い心が壊れ、破片の中から泣き言が漏れ出す。

 あなたのいない人生なんて、考えられない。私の人生で唯一、かけがえのない人。

 思いが伝えられなくても、恋が成就しなくてもいい。百花を失いたくない。百花が幸せならば、それでいい。

 しかし、「千晴ちゃん、振られちゃったよ」と百花が泣きついてきたのは、それから半年もしないうちだった。


 放課後の人気のない教室で、百花は臆面もなく泣きじゃくった。

「つらい」「くるしい」「どうして」「なんで」「しんじゃいたい」「いたいよ」

 咽び泣き、しゃくりあげる合間に、濡れた声で痛みを吐く。震える折れそうに細い肩をさすりながら、こんなに美しいものを、どうして暮くんは拒んだのだろうと思った。こんなに気高く健気な存在より、手に入れたいものは何なのだろうと。


 保健委員会の集まりの後、荷物を保健室に運びながら、私は暮くんに水を向けた。

「百花、泣いてたよ」

 廊下の大窓から差し込む西日を浴びて、彼の緩い癖毛が金色に光る。彼は告解するように言う。

「告白する前から、百花は泣いてたよ。きっと、俺が応えられないこと、分かってて伝えてくれたんだと思う」

 苛烈な怒りが私の胸中で弾ける。それはよく見ると、嫉妬の色をしていた。

「そういう子なんだよ、百花は」

 優しく告げる暮くんの声に、私は返事などできなかった。

 そこまで分かっていながら。そこまで分かっているのに。

 私は思わず立ち止まり、俯いた。説明できない涙が押し寄せ、頬を濡らす。私の腕から段ボールを取り上げ、暮くんは何も言わず去っていった。私はその場に蹲り、一人泣いた。


 薄く雪の降り積もった冬の朝、教室の隅で思い詰めたように百花は言った。

「私、山井と話してくる」

 山井って誰だ? 一瞬考え込み、暮くんの想い人だと思い至る。戸惑いながら「話すって?」と問えば、百花は目頭を赤く染めた。

「満希、山井に告白したらしいの。でも酷いこと言われて振られたって。ひとこと言ってやらないと気が済まない」

 あれ? 私は内心首を傾げる。百花って、こんな子だっけ?

 私の知ってる百花は、凛として、正しいのかは知らないけど芯が通って、潔く強い子だ。だけど、今私の目の前にいる彼女は、好きな人の恋路に土足で突っ込もうとしている、浅慮で幼い等身大の女の子だ。

 ああ、そっか。私は軽く口元を緩める。

 百花は神様のように私を救ってくれたけど、普通の女子高生だったんだな。

「不安だから、千晴ちゃんも一緒に来てくれる?」

 震える声で尋ねる彼女に、私は憑き物が落ちたように自然に頷いた。


 放課後、関わりのない女子二人に呼び止められた山井は、居心地が悪そうに人通りの少ない渡り廊下まで付いてきた。品の良い白いマフラーに首をうずめ、紺のコートに身を包んだ彼は、育ちのよさそうな傲慢と浅薄を漂わせている。

「寒いし、帰りたいんだけど」

 少し舌足らずな声で不機嫌に言う彼を、百花がきっ、と睨み付ける。

「満希に、どうして酷いこと言ったの」

「はあ?」

 山井は大きく口を開け、嫌味たらしく大袈裟に噴き出した。

「何、幼馴染って、そんなことまで世話焼くわけ? 過保護なんじゃない?」

「茶化さないで! 気持ちに応えられないとしたって、傷付けるようなこと言わなくたっていいじゃんか!」

「は? 男に告白されて気持ち悪いって思ったから、気持ち悪いって言っただけだろ。僕は何も嘘ついてないし」

「あんたが倫理観のない頭で何を感じようと自由だけどね、曲がりなりにも友達でしょ? 思いやりってものがないわけ?」

 乾いた笑いを落とし、引き攣らせた顔で山井は言う。

「じゃああんたが暮を思いやって、慰めてやればいいじゃんか。どうせ暮に振られた腹いせに、僕に絡んできてるだけなんだろ」

 止めようと思った。だけど、私の手が動くより先に、百花が勢いよく山井の胸倉を両手で掴み上げた。

「私が!」

 声を震わせた彼女は、双眸から大粒の涙を零れさせる。

「私がどんな思いで、あの人を自由にしたと思ってるの。いつも遠く、遠くを見つめてるあの人を、どんな思いで一人にさせたと思うの」

 百花は俯き、両腕をだらりと吊り下げ、その場にへたり込んだ。

「あの人はあなたしか愛せないのに、どうしてあなたがそれを奪うの」

 丸まった小さな背中に、愛おしさと悲しみが溢れ出す。

 暮くん、いいな。素直にそう思う。

 百花に愛されて、大事にされて、羨ましい。

 泣きじゃくる百花を前に、山井は何も言わず去っていった。私は震える肩に手を乗せ、「百花」と名前を呼ぶ。

「千晴ちゃぁん」

 甘えて濡れる声に、細い肩を抱き寄せた。コートも羽織っていない百花の体はすっかり冷え切っていた。嗚咽を漏らす背中を撫でながら、百花のことが好きだと思った。

 大好き。

 言いたい。伝えたい。知ってほしい。

 その後、私たちは手を繋いで帰った。凍えた手を温めたくて、馬鹿みたいに強く握り締めた。

「あのさ、百花」

 切り出すと、「ん?」と泣き疲れて掠れた声が言う。

「私さ、百花のこと大好き」

 ふふ、と無邪気に百花は笑った。「私も千晴ちゃんのこと、大好きだよぉ」

「そうじゃなくてさ」

 足を止めると、不思議そうに百花は私を見上げた。陽が落ちて暗がりの中でも、その表情に純粋な信頼が浮かんでいるのが見えて、ちらりと心が痛む。

 友情を裏切ってもいい。親友を失ってもいい。それでも手に入れたいものがある。

「恋愛として、百花が好き。大好き。一番近くにいたい」

 繋いだ手に指を通し、握り込む。

「百花の、真っ直ぐなところが好き。たまに優しくなくて、でもすごく優しいところが好き。冷静に世界を見てて、だけど駆け抜けていってるのが好き。私がどんなになっても、見つけてくれるのが好き」

 百花は数回瞬き、ふにゃりと笑った。

「なんか、千晴ちゃんが言ってるのを聞くと、私って変な人だねえ」

 私はぐっと涙をこらえ、「そこが好き」と笑う。百花がふわりと私を抱き寄せた。残酷な優しさだと、私は静かに涙を流す。

 子供をあやすように、百花は私の背中をぽんぽんと叩いた。

「伝えてくれて、ありがとう。私を好きになってくれて、ありがとう。千晴ちゃんのこと、すっごく大好きなんだけど、もっと大好きな人がいます。千晴ちゃんの運命の人が、私じゃなくてごめんなさい」

 唇を噛み締め、涙が乾くのを待つ。けれど、熱い雫が次から次へと零れ、北風に冷えた頬を温めてしまう。

 この人を好きになってよかった。好きになれてよかった。伝えられてよかった。

 心から思う。私は幸せだ。

 初恋の人。かけがえのない人。

 私以上に、あなたを愛せる人なんているのだろうか、と思う。でもあなたはきっと、私があなたを愛する以上に、彼を愛しているのだろう。だって、こんなにも愛情深い人なのだから。

「これからも友達でいていい?」

 百花の肩口で囁くように問えば、「当たり前でしょ」と小さく頭を小突かれた。


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