大橋百花
いつも遠くを見つめている、透き通った表情が好きでした。
あなたのことをずっと見つめていたから、あなたの視線の先に誰がいるか気付いてしまったの。
「百花、ちょっと声掛けてきてもいい?」
満希はほんの少しだけ申し訳なさそうな、けれど純粋な期待に満ちた目で私を見た。満希と私は小一からの幼馴染で、小学校の時は毎朝手を繋いで登校したし、中学にもなると手を繋ぎはしなかったが満希の家の前で待ち合わせて学校に通い、友人たちに付き合ってるだろうと問い詰められたりした。高校にもなると直接的な噂は減ったが、当然恋人同士なのだろうという扱いを受ける。
違うよ、と答える度、相手の中の好奇心が砕けるのを見た。その度、私の心の底も、小さく爆ぜる。
ずっと隣にいたから、知ってる。満希は私を幼馴染として大切にしているけれど、そこに恋情が滲むことはない。私に笑い掛ける双眸に優しさは宿っても、熱に浮かれることはない。
私だけ。好きなのは、私だけ。
「友達?」
尋ねると、満希は嬉しそうに頷く。
「うん、同クラの山井。面白い奴だよ」
ふーん。彼の視線の先を眺めながら、私は鼻先で唸る。やな感じ。
「おはよう、山井」
満希の声に振り向いた彼は、不機嫌な表情で振り返る。線が細くて、綺麗な造形をしている。平均より長い濡れ墨のような黒髪に縁取られた、不健康なほどに白い肌。切れ長の目から覗く薄茶の瞳が満希を睥睨する。
「朝は話しかけんなっつったろ」
幼い子供のような話し方をする男だと、私は思った。ちょっと舌足らずで、まだ高さの残る声に、剥き出しの感情をそのまま乗せてぶつけるような口調。やな奴。確信する。
「ごめん、覚えてたけど、せっかく会えたから」
「僕は低血圧なんだよ。ただでさえ体調悪いのに、苛々させんな」
そのまま山井は学ランのポケットからイヤホンを取り出し、耳を塞ぎそっぽを向いて歩き出した。その猫背が遠ざかるの見つめる、満希の瞳。溢れそうな感情に潤み、彼を包む空気と、その遠い世界を丸ごと切望するような、傲慢な慈愛に満ちている。
満希が恋をすると、こんな顔するんだ。
胸倉を絶望で殴られた心地。最愛の人が、最低な人間に恋をした。
「あー! あんな奴の、どこがいいんだよー!」
クリームパンを噛み千切って叫んだ私の背を、千晴ちゃんが細い手で撫でた。
「暮くんって、見る目ないんだね」
「そうなんだよ!」晴天の昼休み、中庭のベンチで私は涙目で千晴ちゃんに泣きついた。「満希、なんて言ったと思う⁈」
山井と別れた後、苦笑いで満希は私に謝った。
「気まずくさせてごめん。百花のこと、あいつにも紹介したかったんだけど」
私は満希に気後れさせないよう、明るく笑って応えた。
「友達なんだよね。普段はどんな人なの?」
愛おしむように、小さく満希は噴き出した。心臓が貫かれる。
「なんていうか、純粋なんだよ。思ったこと素直に言っちゃうし、損得とか気にしない。物怖じせずに自分のやりたいことだけやって、我儘なんだけど憎めないんだ」
笑顔を張り付けた頬が強張る。そんな私に微塵も気付かず、満希は笑う。
「百花もきっと、あいつのこと気に入ると思うんだよ。俺らってさ、真面目に優等生で今まで来たじゃん? ああいう自由さってさ、真似できなくて憧れる」
何も分かってない。と私は思った。
確かに満希は素直に大人の言うことを受け入れてきた人だから、真っ直ぐ生きることが思考停止に思えるのかもしれない。だけど、大抵の人は自らの欲望を制御し、自分や周囲の平穏のために最適な方法として真面目に生きているのだ。でもあの男は幼稚に感情を垂れ流し、目先の快楽しか見ていない。
山井を好きになったって、満希はきっと幸せにならない。
私があなたを幸せにしたい。私ならあなたを大切にできる。
私の髪を撫でながら、千晴ちゃんが優しく問い掛ける。
「百花はさ、暮くんのどこが好きなの?」
私はクリームパンの袋を抱えながら起き上がり、片手で目尻を擦った。
「ぼんやりしてるとこ」
何それ、と千晴ちゃんは笑う。
でも嘘じゃないのだ。狭い現実に生きながら、満希はいつも遠く広い彼方を見つめているような男の子だ。だから私と手を繋いで登下校してくれたし、私と恋人だと噂されても仲良くしてくれたし、私のことを純粋に幼馴染として大切にしてくれる。
そんな綺麗な彼が好きで、嫌いだ。
その日は、朝から曇天が空を覆い、放課後には小雨がグラウンドをまだらに叩いていた。私は文化委員会の集まりが長引き、憂鬱な気持ちで窓を叩く土砂降りを眺めながら玄関に向かった。下駄箱を越えたガラス戸の前に、満希は佇んでいた。
「何してんの」
声を掛けると、力なく彼は笑った。
「山井のこと待ってんの。委員会終わったら、一緒に図書館行こうって約束してて」
玄関に迫り出した塗炭屋根を、雨粒が撥ねる喧しい音が響いている。
「文化委員が最後。他の委員会なんてとっくに終わってるよ」
雨が酷くなるのが嫌で、先に帰ったに違いない。言外に含んで言えば、悲しむような、恨むような眼つきで、彼は微笑む。
「あいつは、そんな奴じゃないよ」
声が掠れていた。私は靴を履き替え、満希の許に歩み寄った。
傷付いた顔しないで。私は彼が持った黒い傘を指差した。
「傘、忘れてきちゃったの。入れてよ」
土砂降りが靴下を濡らす。一つの傘の中で肩が触れ合うほど寄り添っても、互いの鼓動は高鳴らない。初心な感情を抱くには、余りに多くの時を織り重ねてきた。それでも好きなんだ。
満希の家が見えるほどに近付く頃、私は尋ねる。
「どこが好きなの」
唐突に、彼が立ち止まり、止まり損ねた私ははみ出た肩を濡らしたまま振り返る。空気中に満ちた湿度を辿って、彼の困惑と狼狽が伝わってくる。それでも私は緊張の糸を更に張り詰めるように、息を殺した。
逡巡の後、決意したように満希が口を開く。
「強くて、自由なとこ」
固い声に、意思の強さが見える。
それ、私があいつの嫌いなところだな。だけど、満希はちゃんと、満希の価値観で判断して、信じてる。そこに私の意見は必要ない。
小さい頃から、ぼんやりした男の子だと思っていた。心ここにあらずで、いつも遠くを見つめている、透き通った表情が好きだった。その瞳がただ一人を映すようになっても、報われない優しさを抱いた彼が、より一層愛おしくなるだけだった。
何色にも染まらない彼を、私が守るんだと思っていた。でも彼はもう、庇護を必要としていない。
「傘、入れてくれてありがと。ここまでで大丈夫」
私は一歩傘の結界から歩み出た。洪水のような雨粒が髪を濡らし、頭皮を伝って頬を汚す。制服がインナーごと重くなっていく。
「あのさ、満希は私のこと、どういう風に思ってる?」
訝しむように、むきになったように、彼は言う。
「そりゃ、大切な幼馴染だよ。妹みたいに思ってる」
あはっ、と私は噴き出した。髪を流れる水滴が、振動に弾ける。
「私は、満希のこと弟みたいに思ってたんだよ」
馬鹿だよね。
告白なんてしたら、何でも話せる幼馴染でいられなくなって、満希が平気じゃいられないと思っていた。思い上がりもいいところだ。彼は端から、庇護されたいなんて思ってなかった。
いい加減、二人で一つ、から解放してあげないと。
「好き。付き合ってください」
時が止まったみたいだった。静かに、満希が瞠目する。
「え、だって、家族とは付き合えないよ」
悲しくて、逆に笑えた。
「うん、私たちは元から、家族なんかじゃなかったじゃん」
隣にいながら、何も分かっていなかったね。幼馴染ってなんだろうね。
満希のこと大好き。でも、頑張って諦めるね。
私は踵を返し、自宅へ走った。鍵を開けて玄関に駆け込み、ドアを背に蹲る。
痛いけど、これでいいんだ。
私の好きな人は、間違っていないと信じる。あなたきっと、辛い道へ進んでいくけれど、それは間違いではない。だって、満希は自分で幸せになれる。
でも、ねえ、痛いよ。震える両手で、私は顔を覆った。遠くに、潮騒に似た雨音が聞こえる。