未来
妻は静かな人だった。子供のいない僕ら二人だけの生活の中で、会話はほとんどなかった。でも、休日に妻と言葉を交わさずに過ごす一日を、つまらないと感じたことは一度もなかった。些細な仕草で相手の言いたい事はわかったし、短い言葉を交わしたあとの静寂に、どれほど長い会話よりも強い意味を見出すことができた。
僕は毎朝、庭を箒で掃くのが日課で、集めた落ち葉などを、家の隅に昔からある小さな焼却炉で燃やしていた。僕が庭を掃いているとき、妻は朝食の準備をしていた。落ち葉が燃え終えたのを確認すると、箒を玄関の横へ立てかけておき家の中へ戻る。その頃にはちょうど朝食ができていて、僕たちは毎朝一緒に朝食をとった。
「生まれたみたい?」
形の良い目玉焼きを食べながら、妻が小さな声で言った。
「まだだな。もうすぐにぎやかになるよ。」
ご飯を飲み込んで、僕は答えた。僕たちの会話は主にこんな感じだ。きっとほかの人が僕たちの会話を聞いていたら本当に何の事を言っているのか理解できないだろうと思う。それがまた僕にとっては、僕と妻だけにわかる暗号がそこにあるような気がして、ちょっといい気分になれるのだ。ちなみに、さっきの会話は家の玄関に巣を作っているツバメの話だ。二週間ほど前から家の周りでツバメを見るようになったと思ったら、いつのまにか巣を作っていた。壊そうかとも思ったが、巣は高い位置にあったため手が届かなかった。ハシゴを持ってくればいいのだが、なんとなくすぐには壊さず、巣を作られたという話を妻にしたところ、ふぅんと言って笑ったので結局壊さないでそのままにしておいた。
妻は毎朝僕が庭の掃除から戻ると決まって巣の進捗状況を聞いてきた。ツバメが何度も往復していたとか、巣の中でじっとしていたとかそんな事を僕が話すと、妻はふぅんと言って小さく笑った。その笑い方が僕は好きだった。
妻が死んだのは、いつもと変わらないよく晴れた日だった。仕事から帰ると、玄関で血を流して倒れている妻を見つけた。横には最初巣を壊すときに使う予定だったハシゴが転がっていた。きっとハシゴに昇って巣の中を見てみようと思ったのだろう。足が滑ったのか、ハシゴから落ちて妻はそのまま死んでしまった。
僕は動かない妻の横で泣いた。うわぁんうわぁんと子供のように声を出して泣いた。ほかの家にも聞こえるような大きな声だったが、誰も人は来なかった。ここはそういうところなのだ。
動かない妻を家の中へ連れて行き、もう黒く固まってしまった血を濡らしたタオルで拭いて落とした。頭の傷は髪の毛で隠れていたので、血を落とすと、別に死んでなんかないんじゃないかと思うくらい、妻はいつもの妻だった。でも僕が呼びかけても返事をしてくれないので、あぁやはり死んでしまったんだと思い直すしかなかった。
不思議だと思うかもしれないが、警察にも、病院にも、妻がハシゴから落ちて死んだと言う連絡はしなかった。理由は簡単な事で、連絡をすると、僕たちの家に知らない人がたくさん入り込んで、妻を連れ去ってしまうんじゃないかと思ったからだ。だから僕は誰にも妻の死を伝えないことにした。
妻が死んだからと言って、特別変わる事などないと気づいたのは、動かない妻と向かえた初めての朝だった。
僕は昨日と同じように朝一番に、庭へ出て箒で落ち葉を集める。焼却炉でそれらが燃えるのを見届けると、玄関上部のツバメの巣を観察して、家の中へ戻る。そして、リビングに座らせておいた妻と一緒に、昨日と変わらない静かな朝食をとる。妻はツバメの巣はどうだった?と聞いてくる。僕は、きっともうすぐ生まれるよと言う。ふぅんと妻が笑う。その笑い方が、僕は好きだった。
大丈夫、何も変わらない。
形の悪い目玉焼きがひとつ残った。あれお前朝ごはん食べないのかと言って、僕は目玉焼きを生ごみのゴミ袋へ捨てた。
会話などもともとあってないようなものだったので、妻が言葉を話せなくなっても、僕の生活の中で不都合が起きる事はなかった。妻と過ごす休日も今までと変わらない静かなもので、このテレビおもしろいねとか、今日の夕飯何にしようかとか、言葉を交わさないことによって、より一層妻の気持ちがわかるように思えた。
一週間が過ぎた。ここにきて、ひとつ問題が生じた。妻が腐ってしまったのだ。
しょうがないことだとはじめは思っていた。腐臭も別に気にならなかった。しかし、妻の肌の色が緑や黒に染まっていく様子はあまり見ていたくなかった。顔が崩れ、眼球がこぼれ、妻のだんだん妻でなくなっていく姿が、僕には耐えられなかった。
次の日、落ち葉の燃えている焼却炉へ、妻を入れた。棒でつっついて炎が妻全体を包むようにした。それは一人目の妻の体との別れだった。
そう、あれは妻の体なのであって、妻ではない。ツバメの話をしたとき、ふぅんと言って笑う妻は、僕の頭の中にいる。そう思うことにした。その日から、妻のいなくなったリビングで、そこにいない妻と僕は一緒に毎日を過ごした。
相変わらず休日は静かだった。しかし、これは今までとは明らかに違った静けさだった。僕の頭の中で、妻は今も確かにいるのだけれど、妻の体がそこにいないことが、僕はたまらなく悲しかった。妻の体がほしい。腐っていても妻の体は燃やすべきではなかったのかもしれない、と何度も後悔した。
後悔の気持ちはしばらく続いて、仕事にも身が入らず毎日が暗かった。家に帰るのが待ち遠しかったのに、今は妻のいないリビングを見るのがとてもつらかった。
仕事からの帰り道、下を向いてつま先を眺めながら歩いていた。右、左、と革靴が交互に追い越し追い越されながら進んでく。最近は何を見てもいなくなった妻の事ばかり浮かんでしまうのだ。共に過ごした数え切れない日々がまるで左右のこの革靴のようで、交互に少しずつ進んでいた日々がある日突然片方だけ、ケンケンをしなければならない常態になってしまったようなものなんだと思った。
つま先を眺めながら、僕は歩く。
後方から足音が聞こえる事に気づいた。急いでいるのか、リズムの感覚が短く、徐々に音が大きくなっていた。少しして、ふわりとやわらかい風が吹いて、一人の女性が僕を追い抜かした。
気づいたら僕は家に帰っていた。どうやって帰ってきたのか覚えていなかった。玄関で靴を脱いだことも覚えていなかった。
妻が、いた。一瞬ほんとにそう思ったが、違った。先ほどの女性がいつも妻の座っている位置にもたれかかっていた。ピクリとも動かない。彼女を見て、僕は自分のしたことをようやく思い出した。
僕を追い抜いた彼女は、妻と良く似た後姿をしていた。歩き方も、服装も、どこか妻と似ていた。だから近づいて、後ろから首を絞めて、殺したのだ。
人が死ぬと言う事は、体と中身がばらばらになると言う事。妻が死んだとき、そう知った。僕は、僕を追い抜いた彼女を殺すことによって、彼女の中身と彼女の体を別々のモノにした。そして彼女の中身、意思や思想や名前、性格などをその場へ残し、彼女の体だけを抱いて、僕の家まで運んだ。つまり、今僕の目の前にいる彼女の体は、中身の入っていない空っぽの状態というわけなのだ。
僕は空っぽの彼女の体の中に、妻をしまった。妻に似た彼女の体と僕の中に生き続けていた妻が出会った。そしてそこに、妻がいた。
僕は妻を強く抱きしめた。気づいたら泣いていた。耳元で懐かしい妻の声が聞こえた。
「今日の夕飯は何にしようかしら。」
ケンケンだった僕らの日々が、再び両足で歩き始めた。
記憶の中の彼女は、毎日同じ言葉を発した。それは更新されない僕の中の彼女なので当たり前なのだが、それが結果的に終わりの原因となってしまった。
集めた落ち葉を焼却炉へ入れ、火を落とした。炎が次第に大きくなり、落ち葉で埋もれていた妻の体も焦げていった。
いったい何人の妻の体をここで燃やしたのだろう。僕は、妻の体が腐るたびに、焼却炉で燃やし、町を歩いては新しい妻の体を捜した。不思議と妻とよく似た女性がいつも近くを歩いていて、僕は妻の体を捜すことに困りはしなかった。まるでそれは、家出をした妻を捜しに行くような感じで、僕にはもう定期的に行うそれは日課のようなものだった。
大体は首を絞めて殺すのだが、なぜか人に見られるという事はなかった。僕は安心感をもって殺人をすることができた。どうしてだかはわからない。それがもう当たり前だったから、というただそれだけのことだ。
仕事からの帰り道、家出をした妻を捜した。どこにいるんだい?僕はあたりを見渡す。いずれ見つかるのだという確かな自信が僕の中にはあった。
三十分ほどして、家に帰る。中身を置いてきた女性の体をリビングへ運ぶ。いつもの妻の位置へ座らせる。僕の中の妻を、女性の中へしまう。妻がおかえりと言って、微笑んだ。
庭の掃除、ツバメの巣、リビングの妻、僕たちの生活は永遠に続くものだと思っていた。実際、妻の体は定期的に腐っては新しくなってを繰り返すのだけれど、僕の中の彼女はハシゴから落ちて死んでしまう前までの彼女と何一つ変わっていないので、毎日の暮らしは結局今までと何も変わっていなかったし、これからも変わらないものと思っていた。
小鳥がさえずり、まぶしい太陽の光がカーテンの隙間から漏れて、いつもと変わらないその日も、静かな彼女の横で僕は目を覚ました。彼女におはようを言って、一緒にリビングへ行く。彼女を座らせて、僕は落ち葉を掃くために庭へ行く。終わりは確実に近づいていた。
庭の隅の焼却炉で落ち葉を燃やす。煙が空へ流れるように昇っていく。何人もの妻の体が、煙となって空へ昇っていった。妻がこげる匂いを、僕は覚えてしまった。あまり良い匂いではないけど、僕はその匂いをずっと忘れないだろう。
落ち葉が燃え終わった。リビングにいる妻と朝食をとるため、家の中へ戻る。その前に、妻に伝えるために玄関上部に作られた巣の状況を確認した。
ヒナが生まれていた。
ピーピーという声を発して、数匹のツバメのヒナが親を呼んでいた。声が聞こえたのだろうか、しばらくすると親ツバメがやってきた。胃につめこんだエサを吐き出して与えているのだろう。子供たちの鳴き声が止んで、あたりが急に静かになった。今朝目を覚ましたときに聞こえた小鳥のさえずりはこの子達だったのだと今さら気づいた。
リビングへ向かう。いつもの場所に妻が座っている。朝食の目玉焼きを焼いて、僕たちはそろっていただきますを言った。
「ツバメの様子はどう?」
いつものように妻は言う。ご飯を飲み込んだ僕は、箸を置いて、ゆっくりと言った。
「生まれたよ。可愛いヒナばっかりだ。」
僕と妻の、それが最後だった。
あの日ハシゴから落ちてしまった妻は、ツバメのヒナが生まれたあとの人生を生きていない。今僕の目の前にいる妻は、あの日以前までの妻なのだ。ヒナが生まれたことを喜ぶ妻を想像する事はできても、それは僕の想像であって記憶ではない。僕はもう、妻の知らない世界まで来てしまったのだ。
妻の入った女性の体が、からっぽになった。
僕の記憶を超えた妻は、消えてしまった。あぁこれで終わりなんだ。きっと、この女性が腐って、新しい女性を探そうとしても、妻に似た女性はもうみつからない。そういうものなのだ。
形の悪い目玉焼きが皿の上にふたつ。変わらない変わらないと言い続けてきたはずなのに、そういえば妻の作った目玉焼きはきれいな形をしていたなと今頃になって思い出した。すべては妻が死んだ日から変わってしまっていたのだ。
エサを食べ終えたのだろう。ピーピーといういくつもの妻の知らない未来が、遠くからはっきりと聞こえてきた。
おわり。