修学旅行の終わり
とある飛行機が日本を出発し、シンガポールへ向けて飛行中だった。
その機内では、学生たちが騒がしく話していた。
「あっち行ったら何する?」
「やっぱりここは行きたいよね」
「先輩から聞いたんだけど、ここのホテルすごいみたいだよ」
学生たちの会話は修学旅行先でのことばかりだった。
そう、彼らはこれからシンガポールへ修学旅行に行く生徒たちだった。
皆が楽しそうな中、一人窓から外を眺めている少年がいた。
少年の名前は才偽琉海。
黒髪黒目の高校二年生で普通の日本人。
窓の淵に肘を置き、手のひらの上に顎を乗せる格好でぼうっとしていると。
「何、ムスっとした顔しているのよ」
前の座席からこちらを見ている少女が顔を出して言ってきた。
彼女の名前は木更刀香。
髪を結ってポニーテールにしており、スレンダーな体系をしているクラスメイトであり、小学校からの幼馴染。家が剣道の道場をしており、剣道部ではエースである。
そんな刀香の横の席から顔を出していた少女がいた。
「刀香ちゃん、そんなこと言っちゃダメだよ。るーくんはぼうっとしていただけなんだから」
刀香の隣の席の少女の名前は天川雫。
緩くウェーブのかかった黒髪を腰のあたりまで伸ばしており、雫もクラスメイトであり、幼馴染だが、雫とは生まれたころからの幼馴染だ。
家が隣同士だったので、二人の両親も仲が良い間柄だ。
「おい、ムスっとした顔についてはフォローしてくれないのかよ」
琉海が突っ込むと。
雫は目を逸らして何も言わなかった。
「あはは、それはフォローできないよね~」
刀香が腹を抱えて笑う。
「そんなにムスっとしていたか?」
琉海は不本意そうに聞く。
「不機嫌そうにしてたよ」
「なんか悩みごとでもあるの?」
刀香と雫が各々の感想を言ってきた。
雫は琉海と一緒いる時間が長いせいか、何個か段階を飛ばして聞いてくる。
「悩み事ね……」
悩みというわけではないが、何か嫌な予感がするとしか言えない感覚が今日はずっとしていた。
それで窓から見える景色を眺めながら、気持ちを落ち着かせようとしていたところで声かけられたのだ。
そんなことを考えていると――
「ンゴッ!」
琉海の隣の席に座って眠る少年の顔に飴の入った袋がぶつかった。
通路を挟んだむこう側の席の学生が投げて、コントロールをミスってしまったようだ。
「なんだよ。気持ちよく寝てたのによ」
ぶつけられたところをさする少年こと、高木郁人はそう呟く。
「修学旅行なんだから、寝ているほうがどうかしているでしょ」
郁人に厳しいことを言う刀香。
「そんなこと言ったって、楽しみで寝られなかったんだから仕方ねえだろ」
「はあ、おこちゃまね」
首を左右に振って嘆息してみせる刀香に少し顔をしかめる郁人。
郁人とは高校に入ったときに、同じクラスになってつるむようになった数少ない友人の一人だ。
琉海は郁人にぶつかった飴の袋を拾い上げ、飛んできた方へと投げる。
コントロールは抜群で投げてきた人の元へ戻る。
その寸分の狂いのなさに驚く飴の袋の持ち主。
「ひゅう、相変わらずすごいな」
郁人は琉海のコントロールを褒めたわけではない。
こんなのは、琉海にとっては何でもないことなのを知っているからだ。
琉海ができることは多い。いや、普通の人から見たら多すぎると言っても過言ではない。
「別にこんなのはたいしたことじゃないよ」
いつもの返答をする琉海。
これは郁人と出会ってから褒められたときの言うお決まりの返答だった。
「まあ、いろいろできる琉海にとってはたいしたことじゃないのかもな」
そう、琉海は他の人より多くのことができてしまう。
むしろ、一度見て動きを理解してしまえば、できないことはないぐらいにできてしまう。
小学校のころは、記憶力がいいだけだった。
と言っても、完全記憶能力と呼ばれる一度見たものは忘れない記憶能力だ。
普通の人からしたら、それだけで異常であるだろう。
だが、琉海はその記憶力を生かしてスポーツでも活用するようになった。
プロたちが使う技術をテレビやネットで見て模倣していく。
小学生の体では難しいものも中学生になると、ほとんどできてしまうようになった。
バスケ、野球、サッカー、テニスとあらゆるスポーツのクラブや部活に参加した。
成績も優秀だった琉海だが、中学三年のある日に事件に巻き込まれて足にケガをしてしまい、スポーツをできる体ではなくなってしまった。
このことを郁人は知らない。
知らなくても、なにも言ってこない。
もちろん、幼馴染で多くのことを知っている雫と刀香も何も言わない。
むしろ雫と刀香はなんでもすぐにできてしまうことについて会話をしようとはしない。
そこに郁人は壁を感じているのだろうが、いい話ではないのだから、口を開くことはないだろう。
そんなときだった。
『きゃあ!』
前方から悲鳴に近い声が聞こえてきた。
この声が聞こえるのは、大体とある人が通る場所で聞こえるのが常だ。
そして、それはどんどん近づいてきて、琉海の近くで止まった。
「琉海くん。修学旅行は楽しんでいるかしら」
琉海に話しかけてきたのは、この高校の生徒会長であり、高校生一の美女と言われている女性だった。
彼女の名前は藤堂静華。
ストレートの髪を腰のあたりまで伸ばし、女性の特徴的な部分がしっかり強調されている万人が羨むプロポーションをしていた。
大財閥藤堂グループの令嬢であり三年生。
琉海たちの一つ年上の先輩だ。
この高校は珍しく、二年と三年が一緒に修学旅行に行く。
三年は二年を引率するような役割が課されていのだ。
「まあ、ぼちぼちといったところですかね」
さっきまでぼうっとしていた琉海は笑顔を張り付けて言う。
ただ静華にはそんな言葉と笑顔も意味をなさない。
「私の前でそんなに無理をする必要はないわよ」
琉海の心を見透かしたようなことを言ってきた。
「無理なんかしてませんよ」
いつもこの先輩にはドキッとさせられるが、琉海はそれを表情に出さないようにする。
「そう、ならいいのだけど。それより生徒会に入る件、考えてくれたかしら」
「その件なら、お断りさせていただいたと思うのですけど」
「そうだったかしら」
静華はとぼけたように言ってくる。
このやり取りも何回もやっていることだった。
この高校に入学して琉海の能力に最初に気づいたのは静華だった。
中学のときの事件が原因で、同じ中学出身の生徒が少ない学校を選んだにも関わらず、静華は入学して一週間と経たないうちに、琉海のいる教室に会いに来たぐらいだ。
気づいた理由は今でもわからないが、静華は琉海のことを昔から知っているようなことを言ってくるときもあるが、琉海は記憶にない。
そして、琉海にそんな記憶がないということは出会ったことがないのは確かのはずだ。
本当に謎の先輩なんだよな。
そんなことを思っていると――
「会長! ここにいたんですか」
「あら、梨々花どうかしたのかしら」
「どうかしたじゃありませよ」
後ろの方からやってきたのは、工藤梨々花。
静華と同じ三年生で、生徒会では書記を務めている。しかし、彼女はどちらかというと、書記というより、秘書だ。
まあ、彼女の父親が静華の父親の秘書をしているらしく、適任といえば、適任なのかもしれない。
「勝手に席を離れないでくださいよ」
「勝手にと言われても、あなたは席を離れていたじゃない」
「それは、会長が酔い止めの薬はないか聞いてほしいと言ったからじゃないですか」
梨々花の手にはペットボトルに入った水と薬が握られていた。
琉海はそれに視線を向けてから、静華の顔を見た。
いつもと同じ、表情。
過去の記憶と照合しても、変化はない。
つまり――
「そうだったわね。酔いはもう治ったわ」
「な、治ったんですか!?」
「ええ、琉海くんに会えたから、治ったわ」
静華のその一言で梨々花も気づいたのだろう。
「わ、私を騙したのですか!?」
主に裏切られたことで絶望に落ちたかのような表情をする梨々花。
「別に騙したわけではないわ。それに半分は本当だったのだから」
静華はそう言って、梨々花の手に持つペットボトルを取り、水を飲んだ。
「梨々花、ありがとう」
「い、いえ。お役に立ててよかったです」
さっきまでの暗い表情はどこへいったのか、輝くような満面の笑みで答える梨々花。
騙されたという結果は何も変わっていないのだが、梨々花が満足そうな表情をしているので、琉海も何も言わなかった。
そんな一幕が終わったとき――
「きゃっ」
機体が大きく揺れ、梨々花はバランスを崩してしまい、近くの席の背もたれを掴んで転ぶのを防ぐ。
静華は何でもないかのように直立していた。
脅威的なバランス感覚を持っているようだ。
『お立ちのお客様。お手数ですが、一度お席にお戻りくださいますようお願いいたします。この後、当機は少し揺れが激しくなる恐れがあります。ご理解のほどよろしくお願いいたします』
着席を促すアナウンスが聞こえてきた。
「あら、せっかく来たのに残念ね」
「か、会長、行きましょう」
「そうね。じゃあ、またあとでね。琉海くん」
そう言って静華たちは去っていった。
「ほんと、お前、会長に好かれてるよな」
「このままだと、会長に琉海を取られちゃうかもしれないよ」
郁人は琉海に肘を軽く当ててくる。
刀香はにやにやと笑いながら、雫に視線を向けていた。
「な、なんで私を見るの!? わ、私はなんとも思ってないよ」
雫が顔を赤くしてあたふたしている。
「あはは、ほんと雫はかわいいんだから」
刀香は笑って雫の反応を楽しんでいた。
「も、もう……」
こんなやり取りもいつもの光景なので、琉海も郁人も暖かく見守っていた。
そうしていると、再び機体が揺れる。
「これ、さっきより揺れが大きい?」
「刀香ちゃん、私たちも席にちゃんと座ってシートベルトを着けとこう」
刀香と雫はそう言ってから、席に座り、シートベルトを着けた。
それからは、機体の揺れは徐々に激しさを増していった。
若干、生徒たちから、不安そうな声も聞こえてきている。
琉海は大丈夫だろうと、腕を組んで揺れが収まるのを待っていた。
しかし、一向に揺れが収まる気配はなく、むしろ増しているような気がする。
『当機の機長の山田です。ただいま、乱気流を通過中のため、少々揺れが激しくなっております。揺れが収まるまで席を立たないようよろしくお願いいたします』
再びのアナウンスでさっきまで不安気な雰囲気のあった機内が少し緩和された。
それでも、ときたまかなり大きな揺れが起き、女生徒から悲鳴が聞こえてくる。
「なあ、この飛行機、墜落とかしないよな」
「なに、馬鹿なこと言ってるんだよ。飛行機の事故率は0.005%らしいぞ。車で事故る方が格段に高いんだ。大丈夫だろ」
隣に座る郁人が変なことを言うが、琉海はそれを鼻で笑うかのように一蹴した。
しかし、琉海の心中にも一抹の不安があった。
それは朝からずっと感じていた不安と直結しているような感じがする。
琉海はそれを声に出すことはしなかった。
だが、悪い予感は奇しくも当たるものだ。
ガガンッ!
飛行機の外側の窓に何かがぶつかるような音がした。
瞬間、機体が横に大きく傾きだす。
「お、おい! これ、やばいんじゃねえか!?」
郁人がひじ掛けをがっちり握って肩に力を入れて叫ぶ。
他の生徒からも悲鳴が聞こえてくる。
郁人を無視して琉海は音がした方を窓から覗いて確認する。
視界に入ったのは飛行機の羽の部分だった。
「ああ、こりゃちょっとやばいかもな」
郁人に返答したわけではないが、琉海は窓から見える光景に危機感を覚えた。
琉海が見たのは、羽の下にあるジェットエンジンから煙が出ているものだった。
それでも琉海は言葉にしたほど、動揺しておらず、心の中では大丈夫だろうと、安直に考えていた。
しかし、次の瞬間それは打ち砕かれた。
バキンッ! と琉海の席の窓が割れ、破片が機内に飛び散ったかと思うと、すぐに空気が外へと排出されていく。
「「きゃあッ――!?」」
「うおッ――!?」
「くッ――!?」
前席の雫と刀香の二人の悲鳴が聞こえてくる。
郁人と琉海も歯を食いしばって空気に抵抗していた。
シートベルトを着用しているので、空気の圧力はあっても、吸い込まれる心配はないはずなのだが、抵抗していないと、一気に引き込まれてしまつと錯覚してしまうほどの吸引力をしていた。
そんな状況に追い打ちがやってくる。
ガガガガガガッバキバキバキバキッ――
『きゃああああっぁぁ――ッ』
『うわあああぁぁぁ――ッ』
「ぐうッ――」
「――――ッ!?」
再び機体の外側を何かがぶつかり、琉海たちの座る壁側がごっそり削られた。
壁がなくなり、外の景色が見える。
そこには、絶望の風景があった。
飛行機の片翼が根元からなくなっている。
機体の側面を削ったのは、飛行機の片翼だったようだ。
それと同時に機体も一気に下降する。
悲鳴がさっきまでの数倍になり、機内は混乱の状態となる。
壁際の生徒は声にならない悲鳴を上げていた。
その中で郁人の声は異質なものだった。
「お、おい……おい、だ、大丈夫か……」
郁人の声は震えていた。
「ど、どうしたの!?」
郁人の声を敏感に聞き取り、何かが起きたのだろうと察する刀香が声を張り上げる。
「る、琉海が……る、琉海が……」
「なに!? 琉海がどうしたの!?」
郁人の声で琉海に何かあったのだろうと理解するが、首を後ろに向けることも難しい状態では、刀香たちに詳しいことはわからない。
「琉海くんに何かあったの!?」
雫も不安からか、珍しく大声で叫ぶ。
「い、郁人……うるさいぞ……そんなに耳元で……叫ぶな……ごふっ……」
空気が外へ抜ける強風の中、琉海がしゃべるが、その声はか細く、一番近くにいる郁人に聞こえているかも怪しかった。
「る、琉海……お、お前……だって、お前の腹から血が……」
郁人が言うように琉海の腹部に飛行機の大きな破片が突き刺さり、どんどん服を赤く染めていく。
郁人はどうすることもできない。
飛行機もどんどん下降していく。
機内の豪風と揺れ。さらには、琉海の腹部を突き刺していた破片がシートベルトを切り裂いてしまった。
琉海の意識は血が流れるのと比例して薄れていた。
力を込めることも難しい琉海は、外へ抜けていく風に抵抗する力はなく、簡単に体が浮く。
「行かせるか!」
浮いて外に飛んでいきそうになった琉海の腕を郁人が掴む。
郁人は絶対に離すかと力いっぱい掴んでいたが――
「きゃああぁぁッ!」
前の席に座る雫の悲鳴が聞こえた。
郁人は雫の方を見てから、琉海に視線を向ける。
そして、手を放してしまった。
琉海は風に流れ、飛行機の外へと放り出された。
意識がはっきりしない中、自分が死ぬであろうことは、なんとなく実感していた。
それが微かな意識の中で感じた最後の感覚だった。