ワケなど聞くまでもなく夏の夜は明ける
調理場の手伝いだけということで、夏休みの間聡子の旅館でバイトすることを父さんと母さんはやっと納得した。
最初は仲居をしたいと言ったところ猛反対された。一六歳になったばかりで夫婦の布団を上げ下げするのか、スケベジジィのお酌でもするつもりかなんて、そんなことまで言われた。
私は単に東京に行くためのお金が欲しかっただけで、働くことが目的ではないし、学校に見つかっても面倒くさいから、いざという時のために聡子んとこだったら手伝ってるだけと言い訳できるからっていう、その程度の理由だった。
聡子んとこは超高級ってほどではないけれど、ここら辺ではそこそこの旅館で、小説家や有名人が泊まりに来ることもあるらしかった。
芸能人に会ってみたいという気持ちがなかったというと、嘘になる。でも、仲居さんだったら「心付け」がもらえるから、場合によってはたくさんのお金が早く貯まるなんて話もあった。
「住み込みで旅館してる仲居なんて皆ワケありだ。」
父さんは私にそう言って、旅館でバイトをするとしても、仲居さんたちとは口をきくなとまで言った。
とはいえ、父さんや母さんだって、まったく知らないところで娘が初めてバイトをするよりはずっと安心だったはずで、女将さんの前では愛想のいい米つきバッタを演じてくれた。調理場ならば料理も身につけられるとか、さもそれらしい作り笑いまでしていた。
聡子のおばちゃん、女将さんは貫禄があった。三年前に大女将が亡くなってから、頼もしさが増していた。
着物を纏っていてさえ伺える筋肉質な身体つきは、強さの現れであった。
聡子のおじちゃんはというと、いっつもふらりふらふら、趣味の魚釣りに興じていて、旅館の近くで見かけたことなどなかった。
大女将のお通夜や告別式でさえ、釣りに出かけたままだったらしい。
旅館の朝は早い。
朝食だってバカにはできない。
炊き上がったお米を丁寧にお櫃に移し、だし巻き卵は冷めないうちに切り分ける。糠漬けも丁寧に掻き回して、厚みを揃えてスライする。サラダもまんべんなく適量を美しく盛り付け、鮭の切り身、お味噌汁、海苔、それぞれ位置を寸分間違えないようにお膳に乗せる。これを何十も用意する。
仲居さんが運びやすいように出して上げる。
ふう。
最近はお茶ばかりでなく、お水、コーヒー、紅茶だって用意してあげる。
新聞、雑誌も不足なく。
お代わりが必要なことだってもちろん。
もう、皆が食べ終わるまで気が気じゃない。
終わったと思ったら片付けが始まる。
片付けが終わる頃にはお昼の用意が始まり、お昼の片付けが終わる頃には夕飯の買い出し、そして夕飯の準備が始まって…。
もちろん休憩はあるけれど、こんなのとても毎日やってられない。シフト制でよかった。
一週間も経って、やっと自分のペースがつかめた頃、その人はやって来た。
新しく住み込みで務める仲居さん。もう見るからにワケありな女性だ。
ほっそりした華奢な身体、繊細な指先、色白の肌に黒い長い髪。長い睫毛が印象的な、とにかく美人さん。
女将さんは二の句も告げずに御崎さんを採用した。
まだ若いのに仲居の経験はあるということで、それ以外、どこでなにをしていたかは女将さんのみに伝えてあるということになっていた。
「いるのよ、ときどき、ああいう人。」
聡子はあんな人には慣れているという風だった。
大女将のお婆ちゃんに、女将になるためだけに厳しい躾を受けてきた聡子は、眉をひそめたままそう言った。
「得をするのは、母さんね。」
私にはその意味が分からなかったけれど、聡子には笑顔で答えた。
御崎さんは、実に働き者だった。
朝から晩まで働いていた。
無駄口を聞くこともなく、休憩を取りすぎることもなく、遅刻や早退もまったくなく、働いていた。
仲居としての働きぶりは申し分なく、ほかの仲居さんの手伝いまでこなしていた。
着物の着こなしが美しく麗しく、ほかの仲居さんとの違いを見せつけられているようだった。
ほかの仲居さんだけでなく、調理場や、風呂場、清掃担当の人たちまで、皆に評判が良かった。
もちろん、中には御崎さんを妬み、あらぬ噂をするような人たちもでてきていた。
ある晩、私は夕食の片付けを担当していた。
早々に洗い物をしていたところ、お酒のお代わりが欲しいと酔ったお客さんが調理場まで入って来てしまった。
私を見つけると突進して来て、若い女の子にお酌して欲しいんだと私の腕を取った。
調理場のオジサンたちは、このお客さんを抑えることができなかった。
そこへやって来たのが御崎さんで、実に見事な立ち回りで、お客さんの腕を優しく取って調理場から連れ去り、宿泊室へと連れて行った。
まるでそれは艶やかな舞でも見ているようで、なんとも美しい身のこなしであった。
もちろん私は杳子さんのファンになってしまった。
杳子さんは、人を寄せ付けないところがあった。
休憩時間などはいつも姿を消してしまい、勤務時間のほかはどこでなにをしているのか、さっぱり分からなかった。
食事のときなども多くを語らず、笑顔はどこか寂しそうな感じが伺えた。
それでも、私が話しかけると、きちんと答えてくれた。
「杳子さん、東京に住んだことある?」
「ええ、少しだけど。」
「渋谷の交差点とか行ったことある?」
こんなときも、例の寂しげな笑顔で答えてくれた。
杳子さんが住んでいたなら新宿だろうか。いや、六本木?きっと、綺麗な夜景が見下ろせる高級マンションに住んでたんだろうな。行ってみたいな、そんなところ。
そんな私の他愛ないお喋りにも、常に寂しげな笑顔でうんうんと頷いてくれた。
お客さんが来た。
裏口に廻る前、表玄関でちょうどお客さんが通り過ぎて行くところだった。
女性が一人だった。一人客の女性の予約は取らないはずなのに。
たまたま女将さんの対応する声が聞こえてきた。ご主人は仕事の都合で遅れて到着するとのことだった。
けれど、旦那さんは夕飯の時刻になっても到着しなかった。
先に夕食を始めるかの確認をするよう、女将さんは杳子さんに言いつけていた。
調理場に来た杳子さんは、なんだか少しいつもと様子が違うようだった。
ご婦人の分のみで先にお食事を取っていただくので、ご主人の分は取っておくようにとのことだった。
そう言ってから杳子さんは私に小声でこう言った。
「典子ちゃん、ご主人のお膳の用意まで居てもらえる?」
私はもちろんと即答した。でもその後で、違和感を覚えた。
奥様の分のお膳を用意したのが私だから、ご主人さん用にも同じようにお膳を用意できるのがいいのかな?
う〜ん、そんなことって多分ないし、そもそもご主人さんは何時頃到着するのか分からないし、私がそのためだけに夜遅くまで待つというのもなんだかおかしい。
とはいえ、まだ洗い物もあるし、明日の準備とかもあるからまだしばらくはいいんだけど。
「あのお、」
あれ、お客さんが調理場まで入って来てしまった。
「さっきの仲居さんは…?」
聞くと、桔梗の間のお客さんで、杳子さんを探しているらしかった。
「すぐに行かせますので。」
料理長が慌てて答えたけれど、お客さんは立ち去ろうとしなかった。
「御崎さん…でしたっけ、いつからここで?」
「…はぁ、えー、まだひと月くらいかな…」
と、そこへ女将さんがやって来て、お客様を連れて行った。
調理場はなんだか静まり返ってしまった。場を取りなすように、料理長は皆に声をかけて、調理や洗い物を促した。
そこへ、杳子さんは別のお客さんの飲み物やお代わりを取りに来た。
料理長が一部始終を告げると、平然としたままうんと頷いて、それから私に桔梗の間へ冷たいお水をお持ちするようにと言った。
料理長もなんとも私も抗いようがなく、私は氷水をお盆に乗せて桔梗の間へと向かった。
離れの桔梗の間までは少し遠かった。
以前、杳子さんに教えてもらった通り、襖の前に正座して、膝の前にお盆を置いて、お部屋の中のお客さんに一声かける。
「どうぞ。」
お客さんの返事が聞こえてから、襖を開けて、お盆を手にして、中へ入る。
入ったところで正座して、お盆を置いて、襖を閉める。ああ、できてる、うん。
お客さんの方を向いて、お盆を手にして、立ち上がる、ああ、よろけない、うん、かろうじて。
「大丈夫?」
「すいません。」
あれ、このお客さんの笑顔もどことなく寂しげで…。
「…似てるでしょ?」
「あ、えーと…。」
私はどう答えていいか分からなかった。
まずはどうしてもさっきの仲居さんの「下の名前」を教えて欲しいとのことだった。
「ああ、前に教えてもらいました。木の下に日と書いて『ヨウ』と読むんだって。遠く、微かな様子を表すとか、杳として行方が知れないとかいうでしょうって。」
お客さんはなんだか寂しそうな顔で俯いていた。
「ちなみに私は典子です。」
私は間をもたせようとした。けれど、規則正しい子であって欲しいという父の願いが込められているということは嘘ではない。
こんな話をすると、やっぱり目の前のこの人が見せてくれる笑顔は寂しげで、杳子さんによく似ていることが分かった。
「お客様は?」
「ユウコ。」
「どんな字ですか?」
「香りの子って書いて、ユウコって読むの。」
「へぇー。名前も似てるんですね、あッ。」
「いいのよ、典子ちゃん。でも、お願い。連れて来てくれる?」
「はいッ。」
絶対そうだ。杳子さん。香子さんは妹さんでしょう?
私は調理場へ向かって一目散に駆け出した。
玄関口に男の人の影が見えた。けれど、その人は入り口に向かって入るのではなく、誰かを追っているかのように、裏口の方へ向かっているように思われた。
えっと、今はそれどころじゃなくって杳子さん!
んでもやっぱり杳子さんは調理場にいない。料理長もそう言った。
んじゃ、杳子さんのお部屋!
お客様の離れとは別方向の裏手の内の一棟。住み込み社員さんたちのお住いが並んでるところ。
杳子の部屋には明かりがついてないけれど、叩いてみる、三度ほど。
隣のお部屋の昌江さんが出て来た。
「勤務中でしょ?」
反対側の奈美さんが出て来た。
「さっき戻って来て、バタバタと出てったよ。」
そこへ女将さんがやって来た。
「杳子は?」
皆がエッとなった。
奈美さんが体当りするまでもなく、杳子さんの部屋のドアは簡単に開いた。
そもそもの質素さは別にして、人が戻ってくる気配がしなかったのは、大きなバッグが見当たらなかったからだろう。
それから皆で旅館の中を手分けして杳子さんを探した。
さらに、旅館の周辺も、駅の方までも皆で杳子さんを探した。
私を心配して迎えに来た両親までも、一緒になって杳子さんを探した。
聡子も、普段見かけることのない旅館のご主人も皆で杳子さんを探した。
けれど、言うまでもなく、杳子さんは見つからなかった。
朝方、女将さんは朝食の支度に取り掛かるようにと言いつけるところだった。
玄関口で手に荷物を持った香子さんが、朝早くで悪いけれど精算をすると言った。
香子さんは、精算台の上にお財布の中の一万円札をすべて差し出した。
女将さんが首を横にふると、香子さんはこう言った。
「姉はあの人を連れて行ってしまったんですね。」