第十四話 彼らの『戦争』2
「人間っていうのは脆いもんだな、王様」
ぜえぜえと息を吐きながらなんとか命を繋ぐ日々。
人間は脆い。
寝床――人間界から奪ってきたというベッドで横になっていると、彼はそう言った。
顔の半分が鱗で覆われた種族の長……見た目は二十歳を過ぎたばかりの俺とそう変わらないというのにその表情と口調は落ち着いていて、俺なんかよりも凄くしっかりしている。
部屋の中には、何も無い。奪ってきたベッド。暖炉には薪がくべられ、今も部屋の中が冷えないようにと火が点されている。
この世界では一般的な石造りの家屋、その石壁も室内の温度を冷やさないようにと明るい色合いの織物が掛けられ、窓には外が見えるようにと綺麗に磨かれたガラス。
人界との最後の戦いで得た戦利品だという、その価値は分からないが綺麗な調度品。
ともすれば中性時代の貴族が住んでいたような室内で、それを楽しむ余裕も無い。
熱のある頭がぼーっとする。
吐く息が熱い。
流れる汗が気持ち悪い。
風邪……ではない。もっと根本的な――生命の危機。
もうすぐ死ぬのだと、その思考が常に頭に浮かぶ……自分の死期を感じる人が居るとか聞いた事があったけど、まさか自分がそうだとは思わなかった。
汗で湿った枕に頭を沈めながら、顔に鱗がある男……セルディアを見る。
「農村部はどうだ? 使い物になりそうか?」
「人界に近いからな。土地も……お前の言葉を借りるなら、大地に栄養がある。緑も多い。言われた通り、食った魚の骨や家畜の糞を埋めたりもしている……効果のほどは分からんがな」
「そうか」
魔界の大地は、淀んでいる。
大元は水。
雨が降り、地表へとしみこみ、地下へと流れる。
その『普通』が出来ていない理由は、その地形。降った雨が山肌を下り、川となり、海へと流れる――けれどそれが出来ていない。
魔界の川はそのまま湖のように溜まり、しかし地下へと流れる事が出来ずに腐り、淀んでしまう。
その淀みが風に乗って空気を澱ませ、淀んだ水と澱んだ空気が草木を枯らす。
それが何十年、何百年――もしかしたら何千年と繰り返されたせいで、魔界は死ぬ直前となってしまっているのだ。
それが分かっている。
たった数年でそれを癒す事なんてできはしない。
俺が出来るのは、元の世界の知識を基に『まだ無事な』人界から奪ったばかりの大地の土に魚の骨……カルシウムや家畜として飼っている魔物の糞をたい肥代わりにして栄養を増やし、それを腐った大地へと混ぜ込んでいく。
それで少しでも大地が息を吹き返せばいいと思う。
それが無理でも、緑豊かな、奪ったばかりの土地が生き残ってくれれば、あだ救いがある。
そこに田畑を作り、野菜や果物を作っていけば、魔族は生きていける。戦わなくても、奪わなくても、自分達で自給自足の生活を送る事が出来る。
ああ、でも。
コホ、と咳をする。
辛い。
その未来を想像できても、見る事が出来ない。
やりたい事、やらなければならない事はまだまだ沢山あるのに――その全部をまだ伝えきれていない。
なにより――もうすぐ自分が死ぬのだと、認めるのが怖い。
この世界へ召喚されたばかりの頃より痩せ細った腕。掛け布団を持ち上げる事すら難儀する、皮と骨だけの腕。青白く、血管が浮いた、老人のような腕。
その腕を動かすと、セルディアが落ち着いた表情のまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「無理はしなくていい」
「していないさ」
無理、なのだろうか。
無理、だったのだろうか。
異世界人の俺が、この世界の人を救う。拙くうろ覚えでしかないネット情報で誰かを救う。
それは、無理でしかなかったのだろうか。
世に溢れていた物語のように、自分が特別だと自惚れる事は、無理なのか。
……そう思い、笑う。
はは、と。小さく、掠れた声で。
それだけで喉が痛んだ。
発汗による水分不足。唾液すらまともに出せず、口内がカラカラに乾いている。同じように乾いた唇が割れて、血の味がした。
味覚だけは残っていることに、また笑ってしまう。
「川の様子は?」
「言われた通り、大地を掘って海の方へ繋げようとしている……が、遠い。魔法を使っても、まだしばらくは掛かりそうだ」
「そうか。生きている内に、魔界の綺麗な川が見れるといいな」
「見れるさ。魔族は長命なんだ」
「俺は人間だよ」
「魔王だ。魔族の王だ――我らが求め、求めてしまった……魔王だ。だから、お前は死なない」
その言葉が、胸に染み入ってくる。
ゆっくりと、ぬるま湯のように。染み入って、融け込んで……乱れる吐息、霞む視界、しじまの様に響く耳鳴りが、落ち着いていく。暖かくて、心地良い言葉だと思った。
「ありがとう」
「礼を言うくらいなら、一日でも長く生きろ」
助けて、と請われた。その為に召喚され、その為に生きてきた。
理不尽だと思った。無情だと思った。
けれど、そう悪くないとも思っていた。
この異世界では地球の知識は革新的で、誰もが創造もしていない。行き過ぎた化学は魔法と同じだとどこかで聞いた記憶があったけど、この世界には本物の魔法がある。
けれども、その魔法よりも俺の知識は重宝された。
……特別だった。
魔王。魔族の王。ただの大学生でしかなかった俺が、尊敬される。特別扱いされる。
心地良かった。気持ち良かった。悪くないと、思っていた。
容姿も考え方も、生き方も全く違う。
何もかもが違うから、何もかもが理解できない。でも、俺の話を聞いてくれた。俺をまっすぐに見てくれた。俺を、必要としてくれた。
けど、心のどこかで――恨んでもいた。
もう戻れないという事。
そしてなにより……こうやって死んでいく事。
怖くて、恐ろしくて、憎い。
きっと、召喚されなかったら普通に生き、普通に死んでいた。八十か、九十。長生きできたかもしれない。
けど、俺はもうすぐ死ぬ。
魔界の風で弱り、水で弱り、食物で弱り。……死んでいく。
「ようやく、少しだけ……」
死の際に立ってようやく、少しだけ理解できたのかもしれない。魔族という存在が。
「今年は、誰も死なないといいな」
「死なないとも。漁に出て魚は確保してある、燻製にして日持ちするようにも……人界の土地を奪った際に農夫が残していった種も、芽を出した」
「出したのか」
魔界の大地に植えた野菜の種。それがどんな野菜の種かは知らないけど、それが心残りだった。
俺を安心させるためのウソか、それとも真実なのか。セルディアの表情からは読み取れない。
ただ、この男がうっすらと微笑を浮かべているだけで良かった。
「そうか」
「ああ」
一緒に畑を耕した。鋤や鍬の使い方を知らない魔族へ、実践して教えていったのを思い出す。
楽しそうに笑う様が好きだ。
人間も、魔族も変わらない。
笑顔は――見ているだけでこっちも楽しい気持ちになれた。
奪いたいから奪うのではない。
生きるために……食うために奪う。命ではない、肉ではない。
食べ物を食べるために、奪う。人も、魔族も変わらない。なにも、何も変わらないのだと、ようやく気付けた。
だから――。
「皆、喜んでいただろう?」
「ああ」
どれだけ複雑に考えても、簡潔に考えようとしても、答えは同じだった。
俺は人間だ。それは変えられない。
けれど、そんな俺を信用してくれている。信頼してくれている。その気持ちだけで十分だった。
姿形なんて、二の次だった。
「よかった」
俺は、魔族が好きだ。好きになった。好きだから、ここで死ぬ。
魔族を好きになれたのは、魔族のおかげだ。
・
木材で組まれた櫓を、手足を使って一気に登る。丸太を掴み、蹴り、ビルのように高かったそれを数秒の内に登りきると一気に見張りが落ちないようにと作られている落下防止の柵へと手を掛けて見張り台へ着地。
「……は?」
そのまま右腕を一薙ぎ。
見張り台の広さは、畳一畳分あるかないか。そこに立つ兵の数は一人。人界側――前線側ではないからだろう、手薄だ。
そのまま殴り飛ばすと、落下防止の柵へぶつかって崩れ落ちた。鉄の兜の上から殴ったので生きていると思うが、ちゃんと息をしているのかを確認。
そのまま、前線基地を高い位置から見下ろす。
篝火が沢山焚かれているので、兵士の数と位置を確認するのは簡単だった。
多分、一等明るい箇所――あそこが基地の管理者、指揮官が居る幕舎だろう。見張りの兵士……鎧兜が上等だから、騎士といったところか。騎士が四人、入り口を固めている。
他にも、基地を見回っているのは三人一組の兵士達。俺が今居る櫓の数は十を越え、そのどこにも兵士が一人立っており、全員が銃を持っている様だった。
まあ、山賊だって持っているんだ、国に仕える騎士、兵士に普及していないわけもないかと溜息。
「夜目はどれくらい効くんだったかな」
人間だった頃を思い出そうとするが、どうにも昔過ぎて思い出せない。
月明かりの夜、人間はその夜の闇をどこまで見通せただろう。そんな事すら、もう思い出せない。
ただ、今ある『眼』で俯瞰するように基地の間取りを頭の中へ叩きこむ。
兵士の巡回ルート、人が集まっている場所、篝火の位置、幕舎の数。
そして、フローラさんから教えてもらった『武器庫』までのルート。
目的地の『武器庫』までの距離は、そう遠くない。それはこちらが戦場の後ろに位置する場所だから。
誰だって、大切な弾薬を前線近くに配置したりはしない。守り易い中央、もしくは人界側である後方へ置くのが普通だろう。
後ろからの奇襲が無いと分かっているなら、尚更だ。
櫓からはあの高い『境界』の壁も夜だというのに良く見える。
あの壁を越える魔族は居ないと思っているからの布陣。……まあ、確かに越える事が出来る魔族はそう多くない。居ないとも言わないが。
「よし」
それ等の位置、目印となるモノを記憶してから息を吐く。そして視線を下……丸太を組んで作られた柵、そして人界へ向く門へと向ける。
少し離れた草むらに隠れているリィリア達を確認して、一気に櫓から飛び降りた。
ビル三階は越えそうな高さから飛び降りると、そのまま柵の上から門を見張っていた兵士の隣へ着地。
「…………!?」
その人が言葉を発するよりも早く、兜の上から頭部を殴打。それでも気を失わずに俺を睨んできたので、鎧の上から腹部を殴って気絶させる。
鉄の鎧がひしゃげる音に慌て、両足が浮くほど強く殴ってしまった事に少し慌てたが、息をしているので大丈夫だろう。
そのまま門を挟んで反対側の柵に居た兵士も同じように殴って気絶させ、続いて門の上から降りるようにして強襲――門の前に立っていた二人の兵士も気絶させる。
「もう大丈夫」
鉄の上から力任せに殴った右腕を軽く振りながらリィリア達を呼ぶ。別に何も感じないけど、フローラさんからはまだ人間だと思われているので、一応の人間アピールだ。
けれど、そんな俺の努力をどう思ったのか、フローラさんは俺の代わりにシュオンを胸に抱えながら、驚いたというかドン引きした顔で俺と気絶して門に背中を預けて座り込んでいる兵士の顔を交互に何度も見た。
「どうかした?」
「え、あ、いえ……えぇ?」
その視線が上を向いたり左右を向いたりして落ち着かなかったが、まあ驚いているだけだろうと思って今度は柵に使われている丸太の微妙なへこみを蹴るようにして柵の上へ飛び上がり門の裏へ回って閂を外した。
銃なんてのが普及しているのに、こういう所は何だが……言葉は悪いけど原始的。
よく分からないなあ、と思いながら門を僅かに開けてリィリア達を基地の中へ。
「それじゃあ、静かに行くぞ」
「ええ」
俺の言葉に、リィリアは気合を入れるように肩にある銃を担ぎ直して、フローラさんからシュオンを受け取る。
ルートは覚えている。俺が先頭、リィリアとシュオンが真ん中、一番後ろがフローラさん。
足音を立てないように篝火の陰から陰、幕舎や積まれている木材の死角へ移動。巡回する兵士達をやり過ごすと、あっさりと武器庫へ到着する事が出来た。
まあ、後ろから忍び込まれるだなんて予想していないのだろう。まだ気絶させた兵士の事すら気付かれていないように思う。混乱は広がっていないし。
丁度良く武器庫の入り口が見える位置にある建物、その壁の横へ並べるように積まれた木箱の陰に身を隠して、一息吐く。気配というか、足音や息遣いで人の位置を確認できるけど、やっぱりこうやって『忍び込む』のは人生で初めてなので、少し緊張する。
「それで、ここからどうするの?」
フローラさんが小声で、物陰へ身を隠す俺へ身を寄せるように言ってきた。耳に吐息が当たって少し擽ったい。
視線の先には、先ほど通った門と同じく木造の建物――けれど、扉は鉄製、入り口に立つ兵士は四人。その四人とも、鉄の胸当てなどの軽装ながら、肩にはリィリアが持っているような銃を担いでいる。
けれど、一目でわかる――リィリア……山賊が使っていた銃よりも新品、新型の銃、と言う奴である。
形状は似ている。グリップがあって、銃身が長くて、断層が無い単発式……けれど、リィリアが持つのは木造の部分が多い。けれど、武器庫を守る兵士が持っているのは、完全な鉄製。木造の部分は、少なくとも俺の目には無いように見える。
「技術も日進月歩ってやつかね」
「ん?」
「なんでもない」
俺の呟きにフローラさんが反応したけれど、それとなく誤魔化して視線を空へ。
集中。
耳に届くのは、微かな風の音と兵士達の話し声、足音。
その足音は、近い。
「少し待って」
腰の剣を抜こうとしていたフローラさんを手で制して、息を吐く。
いち、に……頭の中で十を数える頃、巡回の兵士が近くを通りかかった。フローラさんとリィリアが息を呑む。
その雰囲気を感じながら、警戒。
こっちに気付くかな――と思いながら待つ事、数分。見張りの兵士と少し話した後、巡回の兵士はそのまま仕事へ戻って言った。
耳に届いた話だと、どうやら彼らはそれなりに仲のいい関係らしい。まあ、どうでもいい情報だ。
「よく分かりましたね」
「耳が良いんでね」
「それに、さっきの櫓へ上る時も……」
何かヘマをしただろうか。そう考えるが、答えに至るよりも早くリィリアの頭を軽く撫でるように叩いた。
「それじゃあ頼むよ、お姫様」
「ええ。任せて頂戴、王様」
軽口をたたくと――リィリアは、身を隠していた物陰から姿を現した。
巡回の兵士は十分離れている。他の兵士達も、この近辺には居ない。少なくとも、俺の目にも耳にも、彼らの姿も音も無い。
「誰だ!?」
即座に銃を構えた四人――だけど現れたのはリィリア、魔族と戦う前線基地には不釣り合いともいえる上等な洋服に身を包んだ幼女。
向けた銃をどうするか迷ったのは一瞬で、三人がその銃口を外した。もう一人も、周囲を警戒しているようで、リィリアへの警戒は緩んだように思う。
それを確認して、木箱を足場にして建物の屋根へ。腕の力だけでそれほど高くない建物の屋根へ上ると、下でフローラさんが「なにをしているの」と小声で聞いてきた。
「ちょっと待ってて。このまますぐに終わらせてくる……シュオン、フローラさんを頼むぞ」
「はーい」
気の抜けた声だったけど、まあ大丈夫だろうと思っておく。美人には優しいし、あれでドラゴン――並の魔族なら束になっても勝てないような存在だ。
そう思いながら屋根伝いに巡回の兵士の有無をちゃんと目と音で確認してから武器庫の屋根まで移動する。
「こんな夜に、子供?」
「子供ではないのだわ。お遣いできたの」
「……お遣い?」
「ええ」
眼下で、リィリアと兵士達の遣り取り。
篝火の中にリィリア無邪気な笑みが浮かび、担いでいた少し古い型であろう銃を下ろした。
「落ちていたのだわ。これを届けるように言われたの」
子供特有ともいうべきか、乱暴に銃を差し出すリィリアの行動に慌てたのは兵士の方だ。
銃がどれだけ危険なのか教えられているのだろう、棒を突き出すように銃口を向けたまま差し出された銃を慌てて受け取ると四人の見張り達はどうしたものかとお互いを見て――油断。
その瞬間、武器庫の屋根から飛び降りて二人の兵士に肘鉄。続いて驚く間も与えずその顎をかすめるように殴打。
最後の一人は足首を掬うように蹴り倒し、その喉を軽く踏みつけて悲鳴すら上げられないようにする。
うむ、上手くいった。
「リィリア、生きているか確認してくれ」
「ええ……大丈夫。息はしているし、多分気絶しているだけだと思うのだわ」
倒れた兵士達の様子を傍へ屈んで確認したリィリアの言葉に息を吐くと、シュオンに言われたのか物陰から飛び出してきたフローラさんが慌てた様子でまた兵士達の様子を見て、無事を確認して息を吐いた。
「ちゃんと生きてる?」
「ええ……けど、櫓の時もそうだったけど。これだけの高さから落ちて、よく無事ね」
「体が丈夫なのだけが取り柄でね」
その声音から、明らかな警戒を感じた。
まあ、今更だ。俺達と一緒に基地へ忍び込んだのだから同罪……しかも、言われたのではなく自分の意思でだ。
そこに気付いているようで、深くは聞いてこない。
今はただ、俺が思う停戦――それを遂行するだけだ。
先程兵士達に差し出した自分が持っていた銃を回収しているリィリアへ視線を向ける。目が合うと、幼女の淫魔はその外見に不相応な艶のある笑みを浮かべた。
「それじゃあ、リィリア。コイツを頼むよ」
「ええ」
そこでようやく、喉を踏んで押さえていた兵士から足を退ける。
「だれ――っ!?」
その口を、リィリアの小さな手が抑えた。
たったそれだけで男は喋れなくなり、驚愕に目を見開いて自分を黙らせる幼女を見る。何が起きているのか理解できない――その感情がありありと浮かんだ表情。
言い換えれば、小さな子供に何をされているのか理解できない恐怖。自分がどうなるのか分からない恐怖。そんな恐怖に歪んだ表情、とも見える。
「喋っちゃだぁめ、わかった?」
リィリアの言葉に男が頷き、次の瞬間にはどうして頷いたのかと目に涙を浮かべるほどに表情を恐怖に引き攣らせた。
そしてリィリアがその口から手を離すと……口を開くが、声が出ない。
パクパクと開閉を繰り返す唇は、なんとも不格好だった。
それは昨日の昼、村の道具屋で村人にした事と同じ。淫魔の『魅了』で男を支配する異能――それでも完全に意識を奪えていないのは、リィリアに対する『魅力』よりも、この現状に対する『恐怖』が勝っているからか。
けれど、それも時間の問題だろう。
時間が経つにつれて、男の瞳から光が失われていくのが分かる。
「魔性の女ですね」
「アホか」
シュオンの言葉に笑い――。
「将来は美人になるでしょうし、ご主人は尻に敷かれますねえ」
「その前にお前を俺の尻に敷いてやろうか」
「いい? 貴方はこれから、私達が見えなくなったらここにある銃と弾薬に火を点けて、使えなくするの」
バカな事を言っている間に、リィリアの『命令』が進んでいく。
男は頷く。最初はその行動に疑問を抱いていたようだったが、今では夢遊病者の様に趣向を繰り返しているだけ。
やっぱり、幼いとはいえ淫魔の『魅了』は恐ろしい。相手が男なら、逆らえないからな。
「タツミが悲しむから、誰も死なないようにするのよ? 貴方は銃と弾薬を吹き飛ばすだけ……分かった?」
「はい」
遂には、首肯だけでなく返事までする。
それで終わりと、リィリアは笑みを浮かべて俺を見上げてきた。
「できたわ、タツミ」
「ああ、お疲れさん」
「えへへ」
頭を撫でてあげると、外見相応の明るい笑み。淫魔の貌と、幼女の顔。
その差が、リィリアの魅力の一つなんだよなあ、と撫でながら思ってしまった。
「……その、あの」
「ん?」
フローラさんが、とても言い辛そうに……言葉を選ぶようにして、リィリアを見ていた。
「何者、と聞いても?」
「後でなら」
からからと笑って、ここが人界軍の基地内だと思い出してすぐに黙る。
「よし、それじゃあ退散するか」
「ええ。夜更かしは美容の大敵なのだわ。早く帰って、眠りましょう」
「リィリア、寝る時間、間違えてるよね……」
フローラさんの腕の中でシュオンが呟き、来た道を戻る。
リィリアに『命令』された男を見ると、その命令へ従うように気絶している他三人の兵士を武器庫から離れた場所へ移動させていた。
アレはアレで、なんだかシュールだ。
そう思いながら巡回の兵士をやり過ごそうと物陰へ隠れていた時だった。
耳をつんざく爆音と、一拍遅れて身体の芯から震えるほどの衝撃。
咄嗟に身を隠したまま傍に居たリィリアとフローラさんを胸に抱き、身体を丸めてその衝撃をやり過ごす。
「え、え?」
胸の中でリィリアが目を白黒させながら周囲を見回す、フローラさんは爆発の衝撃で目を回したのかぐったりしていた。
この辺りは、人族と魔族、身体能力の差だろう。
「何でなの? どうして?」
「あー……お嬢さん、大丈夫ですか?」
どさくさに紛れてシュオンがフローラさんの頬を舐めて意識をしっかりさせようとする。
その感触に意識を取り戻したのか、フローラさんは少し遅れて周囲を見回し、俺が抱きしめるようにして衝撃から庇った事に気付いて顔を赤くした。
こういう時は、夜目が利くって便利だと思う。
……すぐにリィリアから腹を抓られたけど。
「武器庫の爆発だな」
「うう……どうしてなのだわ」
「僕達が見えなくなったら、って『命令』したからね」
「あ」
周囲が慌ただしくなる。
向かおうとしていた門の方から、見張りの兵士が気絶しているという声が聞こえた。
侵入が気付かれた、と思って間違いないだろう。
「まあいいさ。それじゃあ、逃げるか」
兵士達が慌ただしく動き出す。怒声が響き、もう一度爆発。あの武器庫にどれだけの弾薬が置かれていたのか――蒼い夜空が茜色に染まっている。
火の勢いが増していく。他の建物まで引火したのかもしれない。
門の方へは、まだ人は集まっていない。声からして数人……十にも満たない数だ。
それなら押し通せる。そう思い、リィリアを抱き上げ、同じようにシュオンを抱いているフローラさんの手を引いて駆け出した。