第十一話 彼にとっての『戦争』2
石造りの室内、質素な家具に囲まれ、絵画や壺のような調度品は何一つない。
精々が壁に飾られた今朝方積まれたばかりの綺麗な花だけが彩っているだけの部屋。魔王としての仕事をする執務室――というには、本当に何も無い。
ただ、魔界の中での問題を書物に記して俺のところへ報告され、それに対する返事を書くだけの場所。
窓の外を見ると、《魔界》などと物騒な名前の割には眩しく輝くほどの青空と純白の雲、燦々と照りつける太陽。そんな太陽の下には深い森と、蒼い草に覆われた何処までも続く大地。
けれど、別の窓。
西側は美しい大地だというのに、東側は痩せ細って所々の地面が剥き出しとなってしまっている光景。西側から植物を移植してみたが、長年の間魔物の侵攻に晒されている大地は植物が育つには大地に栄養が足りていない状態だ。
こればかりは、これから先も長い目で、ゆっくりと大地を回復させていくしかない。
魔物と戦えない魔族達の手で耕され、肥料をまいて、川の水が澱まないように海へと繋げ、少しずつ魔物の集団を奥地へ押し返して……。
そうして南側を見ると、遠くに見えるのは沢山の家屋と広い海。どこまでも続く、太陽の光を反射して綺羅綺羅と輝く雄大な海。
輝く海へポツポツと見えるのは、小さな船だ。外洋へ出るほどの造船技術など無く、木材を削って形を整え、うろ覚えの製鉄技術で作り出した釘で打ち合わせただけの簡素な船。
漁という概念が無かった魔界で俺が提案した、即席の食料調達方法。
なにせ、魔界はまだ獣が住める状態ではない。
そもそも獣が存在しない――野に在るのは、魔族に害をなす魔物。魔族や人族どころか、植物や動物……あらゆる生命を食い尽くすバケモノだ。
それを何とか北の地へ追い出したのは良いが、それでも時折雪と氷で覆われた北土から抜け出しては魔界の領地を荒らしていく。
せっかく育てた作物や、悪い時にはそこに住む魔族すら――。
「ああ、頭が痛い」
「北土には竜族も居るはずなんですがね……どうして魔物って、減らないんでしょうね」
「こっちが聞きたいよ」
執務室にあるソファ(中身は翼を持つ魔物の羽毛を毟って詰めてある)の上に転がっていたシュオンが、気の抜けた声で呟いた。
こいつはもう……。
「お前もドラゴンだろうが。ちょっと飛んでいって、半分くらい喰ってこいよ」
「いや、それ。ご主人に言われて二年くらい前にやりましたから」
そうだったかな。
こうも考える事が多いと、時間の感覚が曖昧だ。それが年単位で起きているのだから、俺も大概だと思う。
あれだ、人間の精神って百年以上も生きていけるように出来ていないのだと思う。
物忘れが激しいとは思わないけど、一年前や二年前の事なんて、よほど大事な事じゃない限りは忘れてしまう。
それは、俺がこの世界に来て三十年くらいたった時から感じている事だった。
「まあ、多分だけど。ドラゴンが魔物を駆逐するより、繁殖して増える方が早いんだろうな」
「虫ですね」
「実際は、虫なんかよりよっぽど面倒で厄介で凶暴だけどな」
「それを知るために半年くらい魔物を喰わされ続けた僕って……」
「いいだろ。食うに困らない、半年もずっと満腹の状態を維持できたんだから」
「ひどい」
とまあ、バカなやりとりをしながら色んな部署から回ってきた書類に目を通す。
部署と言っても、簡単な役職で分けたようなものだ。
北土担当は魔物退治。西土担当は農作業をして野菜なんかの育成。南土担当は漁による食料の調達。東土担当は荒れた大地を再生させる。
ただ、毎日送られてくる書類には魔物の大群が北度の寒冷に対応してきたとか、西土の農家で子供が生まれたとか、南土で見た事も無い魚が獲れたとか、東土に植えた木々が枯れたとか。そんな話。
いい話もあれば、頭が痛くなる悪い話もある。
そのどれもに対応できるはずもなく、これらを纏めて五日おきに開いている各部署の担当者との話し合いで今後の方針を決める。
俺がしないといけないのは、取り敢えず方針の大まかな流れを決める事。こうしよう、ああしよう。それを考えて、担当者と話しを煮詰めるのがここ数十年での大まかな流れだ。
なにせ、異世界の人間とは言えこちとらただの元大学生。知識なんぞネット上の物しかなく、それも今ではほとんど忘れてしまった。
なにせ百年。百年以上。
もう何年生きているか自分でも覚えていない。大体百年といった感じで、もしかしたら二百年か三百年くらい生きているかもしれない。
不老不死というのは、時間の感覚を忘れる。
それは、長く生きて数えるのが面倒になったとかではない。数えたくなくなるのだ。
どれだけ長く生きたとか、考えるだけ無駄。どうせ、これから先もずっと生きていく――この星が滅ぶまで。吹き飛ぶまで。
文明が崩壊した程度では死ねやしない。
――けど、後悔もしていない。
不老不死になった経緯。その結果。
望まれて不老不死になったけど、そこには自分の意思があった。生きたいと願った。死にたくないと思った。なにより……そこまで考えていると、部屋のドアがノックされた。
珍しいと。
「はい、どうぞ」
魔族の中で、ノックをする人はそう多くない。
そういう文化がまだ浸透していないというのもあるし、そもそも数十年前まで家すらなく洞窟のように地面や岩を掘って暮らすのが主流だったのだ。ドアというものも、俺がプライバシーの為に作ったに過ぎない。
つまり、南土にある海、そこにある民家にはドアが無い家もあるという事だ。
プライバシーが無い――仲間意識が強い、近所付き合いが深い。そう考えれば良い点なのだろうけど、いつかこの辺りも浸透してほしいと願う。
とまあ、そんな事より。
俺の返事へ一拍の間をおいてドアが開かれると、そこに立っていたのはセルディナ――顔の半分が魚のような鱗に覆われ、青白い肌を持つ魔族の姿。
顔だけでなく服に隠された肌の殆どが鱗に覆われており、服の袖から見える手は獣のように爪が尖っている。他にも、足は日本でしっかりと立っているけど、その後ろにはドラゴンを連想させる、けれど俺の知るドラゴンよりも細い――トカゲのような尻尾。
青白い肌よりも尚白い、灰色の髪。そしてそんな白い外見の中で爛々と輝く赤い瞳。
種族に名前は無いけれど、セルディナに似た魔族が多いので竜麟族と名付けた。
そんな彼が、目付きを鋭くしながら入室してきた。
ああ、怒っているな、と。
なんとも居心地悪く感じて、椅子の上で身動ぎをする。シュオンの方は、相変わらずソファで脱力していた。
「王よ、失礼します」
「ああ、うん。どうした。報告書は上がってないようだけど」
「報告書を上げても、返事は数日後になってしまうのでっ」
俺の前に立つと、両足適度に開いて胸を張り、両手は腰の後ろへ。まるでどこかの軍隊のようだ、と思った。
記憶にあるのは、厚手の軍服に身を包んだ歴戦の兵士。
肌の色は違えど、なんだか共通するものがあるような気がする。
「またその話か」
「すでに、ディオラ、アールヴァインとも話は通してあります」
「はあ」
ちなみに、この軍人を連想させるセルディナは西土担当である。こういう堅物的な雰囲気の男だが、不思議と農作業が好きで住民からも慕われている。
俺も良く手伝いに行くのだが、こんな調子なのに若い女性と一緒に耕した畑に種を植えたりしているのだ。
そんなセルディナの口から出たディオラとは、海部がある南土の担当者。そして、アールヴァインとは魔物退治の最前線をもう数十年も維持している戦士である。
「話しの内容は想像できるが、言ってみろ」
「人族が『境界』という壁を築いたのもそうですが、最近の連中の行動は目に余ります」
「それで?」
「アレは明らかな挑発行為です。先日も、自分達が造った『境界』を越えてこちら側へ侵入してきました」
それは報告を受けていた。ここ最近……と言っても五十日程度だが、何日かおきに人界側から人が魔界へ侵入してきているらしい。
俺が魔王になってから初めての事だが――それが何を意図しているのか分からない。
けれど、俺以外の魔族からするとそんな人族の行為は気に障り、侵入してきた人族を捕えて情報を吐かせようと考えている者がいる。
目の前のセルディナも、その一人だ。
ただ。
「気にするな。どうせ、魔界が今どうなっているか知りたいだけだろう」
「そうは思えません。もしこちらへ侵攻してくるつもりなら――」
「連中も、たった百年で魔族がどれ程強力な種族かなんて忘れない」
「それでも――王よ。もし人族が攻めてきたなら、真っ先に襲われるのは農村部の戦えない者たちなのですよっ」
そう言われると、返す言葉が無い。
人は弱い――それは、百年以上も前の知識だ。魔族の『魔法』へ対抗する彼らが手に持っていたのは、鉄の剣や槍だった。
そんなもので魔族の強靭な肉体を傷付ける事はおろか、超常の現象を起こす『魔法』へ対抗できるはずもない。
その力で魔族は人族から土地を奪い、俺が魔王として召喚された事で一旦魔族の侵攻が止んだ時を契機に『境界』を築いて人界と魔界を物理的に遮断した。
魔族でも超えるのに難儀するほど高い壁、『魔法』でも簡単に破壊できない厚い壁。
それを人族が越えるという事は……やはり、何か考えがあるのかもしれない。そう考えてしまうのだが……。
「それでも――魔物の脅威がある今、戦力を北土から動かす事は出来ない。そして、勇んで人族に危害を加えたら、主力を欠いた状態で人族との戦いになる。そうなれば、それこそ農村部の被害は目も当てられない事になるんだぞ」
「それですが、アールヴァインから戦力の一部を農村部へ回せるとの話をいただいてきました」
その、どこか嬉し気な言葉に、机へ肘をつき、額を押さえて溜息を吐く。
「戦士を農村部へ置いたら、それこそ人界側に『魔族はまた戦う意思がある』なんて要らん不審を抱かせてしまうだろうが」
「ですが、もし向こうが先手を打ったならこちらは一方的に蹂躙されてしまいます」
戦いは起きない。
口にするのは簡単だ。けれど、ここは剣と魔法の世界。法律なんてないし、憲法なんてものも無い。
そんな『言葉』は国を守ってくれないのだ。チカラには力。武力には暴力。剣には爪を、矢には魔法を。
それが正しいと分かっているけど、どうしても踏ん切りがつかない。
俺が周囲から最近どう思われているか、知っている。気付いている。
元人間の魔王。元人間だから、人族と戦いたくないのだと。
当たり前だ。死にたくないから、そして誰にも死んでないから不老不死になった。俺が生きる事で魔界を少しでも住みやすくして、一人でも多くの魔族に長生きしてもらえるように。
同じだ。魔族に死んでほしくないように、人にも死んでほしくない。
それが戦いでなんて、バカげているとすら思ってしまう。
相手は話が通じない魔物ではないのだ。話し合える『人』なのだ。言葉が通じるのだ。
何故安易に武力を振り翳そうとする――。
そんな俺の苦悩など知らないシュオンは、ソファの上で退屈そうに欠伸をしていた。
「北土の戦士を勝手に動かすな。最近は魔物も北土の寒冷に慣れてきたようだし、いつ『新種』が現れるかもわかったもんじゃない」
「王よ――魔物も危険ですが、人も……」
「分かっている。だがな、人族は言葉が通じる相手だ。魔物じゃない、話が通じないバケモノじゃない――そんな相手と戦って死ぬお前達の姿を見たくないんだ」
分かってくれ、と。
言うとセルディナはそれ以上何も言わなかった。コイツとも長い付き合いだ。俺が魔王になってからはこうやって堅苦しく『王』なんて呼んでくるけど、前はもっと距離感が近い奴だった。
だから、分かるのだ。
こいつが本当に魔族を心配している事を。
そして、きっとわかってくれているはずだ。俺が魔王になった理由を。魔族に生きてほしいという願いを。
だというのに、人間との戦いなんかで死んでほしくない。
魔物でだって嫌な思いをしているのに、これ以上はやめてほしいと思う。
甘いか?
甘いだろう。
自分でも分かる。分かっている。
それでも――こちらから手を出さなければ戦いは起きない。そう思ってしまう。
「分かりました」
「お互い、頭を冷やしてからまた話そう」
「いえ。王よ……貴方には、魔王の座から退いていただきます」
・
「どうかしたの、タツミ?」
椅子に座り、膝の上にリィリアを抱えながら考え事をしていると、そんな声。
腕の中のリィリアが、じいっと俺を見上げていた。
「いいや。どうして?」
「ずうっと考え事をしているのだもの。折角の二人っきりなのに、私はせつないのだわ」
「そりゃあ悪かった。ごめんごめん」
そう言って、抱く……というよりも抱える腕に少しだけ力を込める。それだけで、リィリアは身体から力を抜いて背中を俺に摺り寄せてくる。
「また、魔界を出た時の事を考えていたの?」
「ん……リィリアには隠し事が出来ないな」
「ふふ。だって、私は今日までずっとタツミを見て生きてきたのよ? 貴方の事は、私が一番よく理解しているのだわ」
嬉しそうに言って、膝から落ちないように腰へ回していた手に小さな手が重ねられた。
「みんな、タツミを心配しているのだわ。貴方は元人間だから、人族だから。人と戦えないのだと、戦争になった時『魔王』として居たら、気を病んでしまうからって」
「うん。知ってる」
「本当は、戦争に関わってほしくないのだわ。少しだけ魔王のお仕事から離れて、魔界の片隅で一緒に畑を耕していたかったのだわ」
「……リィリア、畑に出るの嫌いだろ?」
魔界に居た頃は、俺が畑へ出ようとするといつも嫌な顔をしていたのを覚えている。今よりもっと内面が幼かったころ、それこそ目に涙を溜めて「行かないで」と言われた事も一度や二度ではない。
けれど、畑の調子、大地の具合を確かめるのも俺の仕事だったのだ。
その事を思い出しながら言うと、リィリアは溜息を吐いた。とても、深く。
「違うのだわ。全然違うのだわ。……分かっていたけど、タツミは鈍感なのだわ」
「…………」
なんだか酷い言われようだが、どうやら俺が今まで思っていたのは見当違いな事だったらしい。
だったら本心は何なのか。
それが分からなくて、答えを促すように腰へ回している腕に力を込める。
「タツミが畑に出たら、みんなと話すのだわ。魔王だからとか関係なく、農作業の指示を出したり、世間話をしたり」
「それが仕事だからな」
「ソレが嫌」
畑に出るのと、畑で指示を出すの。何が違うのだろう?
「タツミには、私だけを見ていてほしいのだわ。私だけを見て、私だけに話し掛けてほしいのよ?」
「わがままだなあ」
「そうよ。私はわがままなの。わがままで、タツミを私だけのものにしたいの」
唇を尖らせながらの言葉に、苦笑する。
「……それでも、畑に出てタツミが私以外の人と話す方が、タツミが傷付くよりはマシなのだわ」
「リィリア」
「だって、タツミは戦いが嫌いなんでしょう?」
嫌い、なのだろうか。
ただ、『戦い』というものを知らないだけなのかもしれない、と思う。
「分からないな」
「…………」
「この前、フローラさんを助ける時に初めて人を殴ったけど……何も感じなかったんだ」
むしろ、力加減を間違えて殺してしまわないか――それを心配してしまったほど。
殴る事よりも、殴った後の事を心配した。
そして、その事に驚きもしなかった。昔はどうだっただろう。人間だった頃は、喧嘩なんてのもした事が無かった。
その時に人を殴っていたら、どんな気持ちになっていただろう。
ただ、それはもう戻る事の出来ない過去の話。
「多分、俺は戦うことは怖くない」
『怖い』という感情が今の俺の中に存在しているのかも怪しいのかもしれない。
けど。
「でも、皆に戦えって命令するのは、いやなんだ」
「うん」
「魔物相手なら仕方がない。殺さないと殺される相手だ……けど、人間とは言葉が通じる。話す事が出来る――俺が、こうやってリィリアと話せるように」
「うん」
訥々と内心を口にしていく。リィリアは、相槌を打つだけで話を静かに聞いてくれている。
それに、癒される。
こんなにも長く生きたのに、内面は昔と変わらない。
全然成長していない――それを恥ずかしいと思う余裕も無く、今思う事を口にする。
「……戦いで死んでほしくないから、生きて、生きて、生き続けて――ベッドの上で、爺さん婆さんになって、寿命で死んでほしいと思うんだ」
「タツミは優しいね」
「そうじゃないよ」
「だって、魔族だけじゃなくて人族にもそうやって生きてほしいんでしょう?」
そうだ。その通りだ。
戦争なんか無くて――皆に、人生を楽しんで生きて、そして静かに息を引き取ってほしい。
殺されるのではなく、寿命で。
「そうだな。だから俺は、戦争を止めたいんだ」
それが理由。魔界を出た、人界に来た、俺の理由だ。
胸が軽くなる。
一階でフローラさんに戦争を止めたいからなんて口にしたけど、きっと薄っぺらい、感情が籠っていなかった。
何より、自分自身でそう感じていた。
けど、今は違う。少なくとも、人に何と言われようと、絶対に戦争を止めるという気持ちが胸にある。
「うん。私が好きなタツミの顔になったね」
「……そう?」
「緊張していないし、強張ってもいない。自然体で笑顔を浮かべてる――私、タツミの笑顔が好きなの」
「そうか」
じゃあ、いつも笑っていないとなあ、と。
そう言うとリィリアが胸にその頭を押し付けてきた。
「ダメよ。誰彼に笑顔を向けたら……私だけに向けてくれなきゃ」
「わがままなお姫様だなあ」
「わがままなのはタツミだわ。誰にも死んでほしくないから戦争を止めるだなんて、荒唐無稽にもほどがあるのだわ」
「……難しい言葉を知ってるな」
驚いていると、えへんと言わんばかりにリィリアが胸を張った。
「タツミ一人じゃ難しいだろうから、私も力を貸してあげる」
「……危ないぞ?」
「子供扱いしないでほしいのだわ」
その声が少しだけ低くなる。子供扱いしているのではなくて、心配しているんだけどな、とは口にしないでおく。
何となく、恥ずかしかった。
「タツミは命の恩人なのだから、私を好きなだけ使ってちょうだい」
「好きなだけ?」
「ええ。タツミの為ならなんだってするわ――私、いまはそんな気分なの」
幼い少女は、外見に相応しい満面の笑みを浮かべてそう言った。