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 閉店して暗くなったディーラーの前で北島くんを降ろして、礼を告げると彼は深々とお辞儀をして俺を見送ってくれた。彼の仕事はこれで終わりだが、今から一時間半をかけて千葉のマンションへの帰途に着くのだという。


 申し訳ないと思うと同時にご苦労なことだと悪態をつく。


 家族と暮らす夢のマイホームの代償が毎日の往復三時間の通勤だ。


 俺にはその三時間が惜しい。だから少々家賃が高くとも二十三区内にガレージ付きのマンションを借りた。車を手に入れたのも、いつ何時でもすぐに動けるようにするためだ。ガレージの賃貸料は月額四万五千円、ちょっとした貧乏学生の下宿代に匹敵する。しかしそれでも俺にとっては時間と効率性には代えられない。


 ドアをロックし、そのまま部屋には戻らず二百メートル先の雑居ビルへと足を向ける。美容室のある二階を見上げると、まだ明かりがついていた。


 二十一時きっかり。間に合った。


「やあ、すみませんね」


「いいえ、構いませんよ。斉木さんはお忙しいから」


 四十代前半だが、生き生きとしてまだ三十代半ばくらい見えるこの美容室の店主、吉野さんは俺を見るなりてきぱきと準備を始める。


「今までお仕事でした?」


「いや、明日のことでいろいろ走らなきゃいけなくてね」


「頑張ってくださいね」


「え?」


「もうっ、え? じゃないでしょ」


 吉野さんは笑って俺の肩を叩く。もちろんわざととぼけたんだ。


「結婚ねぇ。ま、あたしが言うのもなんだけど、それだけが人生じゃないけどね」


 彼女も分かって言っている。


「吉野さんは恋愛結婚、だった?」


 ええ、とため息混じりに答える彼女の吐息が、うなじに触れたような気がした。


「でも後悔はしていないわ。あたしたちはあれで精一杯だった。お互いのやりたいことをやりたいようにやった結果だからね」


「そういう夫婦ってやっぱり上手くいかないのかな?」


「別にそういうわけじゃないわよ。ただ、互いに一緒に居る意味を見出すことができなかったのね。お互いに店があって、ほとんどがそこでの生活。お互いに守るべきものが別々で大事なものも別々」


「お互いの店を一つにしてってのは考えなかったの?」


 一応話の流れで放ったあいの手のようなものだ、彼女の答はわかっている。


「それでうまくいくと思う? あたしはまっぴら。四六時中旦那と一緒にいなきゃいけないなんて息が詰まるわ。それに喧嘩も絶えないでしょうしね。そうなればきっとお互いが嫌いになって別れていたと思う」


 彼女は話しながらも手を止めることはない。プロなら当然だが。


「世間の三十代はそう思う人が増えてるみたいですよ。自立した一人の人間としてあるために、結婚というしがらみを嫌う、とかなんとか――独身で四十を迎えるのも珍しくなくなってきてますよね」


「歳を取ると自身を規定されることが億劫になるのよ。……ああ、あたしはそういうのじゃないわよ。一度も結婚したことがないんじゃなくて、一度は結婚したけど肌に合わないからやめただけ」


 洗髪は家で済ませるからいいと、伸びすぎた髪のカットが済むと席を立つ。


「ま、今回は叔母の顔もあるし、親孝行だと思って行ってきますよ」


「そんなこと言わずに、いい人だったらお付き合いしてみればいいでしょ。別に独身にこだわらなきゃいけない訳でもなし。まだ多くの女性は男性のもとで安心安全に子を産み育てたいと願っているものよ。男性の経済力を当てにして普通の家庭を築くことをね」


 別に普通の家庭を断固として否定しているつもりはない。だがそういった家庭、それを支える男を見ていると窮屈に見えてならないというだけだ。手持ちの弁当、少ない小遣い、趣味があってもろくに時間もお金もつぎ込めない。朝から晩まで働いても子供の世話をしなければ罵倒される。俺はごめんだ。


 俺は吉野さんの見送りに手を振ると雑居ビルを出た。


 外に出ると、春を予感させる空気に鼻腔をくすぐられ、くしゃみをひとつ。


 さて、今夜は早めに寝るとして、寝酒でも買いに行こうかと部屋とは反対方向にあるコンビニへと歩みを進める。そういえば歩いてここらあたりをぶらつくなんてのも半年ぶりくらいではないだろうか。前まであった串カツ屋が潰れて“テナント募集”という張り紙がなされていた。


 ところがその店舗だった上階に奇妙な店、いや店と言っていいのか、窓に大きく“時間売ります”と切り抜いたカッティングシートが貼り付けてある。


「時間売ります……時間屋……」どういうことだろう?


 時間など売れるものではなかろう。


 まだ営業中なのか明かりが灯っている。その店舗にはどうやら雑居ビルの外側の階段を使っていかなければいけないらしい。


 なに、少し覗いてみるだけだ。おおかた趣味の時計店か、あるいは骨董品屋あたりだろう。


 雑居ビルの階段を上がると薄暗い廊下が有り、当該の店以外はスナックばかりだ。まさかここもただのスナックってことはないだろうな、だとしたらがっかりだ。“くつろぎの時間を売ります”なんてな。


 ドアノブに手をかけそっと開き、首を隙間から差し込むようにして店内を伺う。明らかにスナックではない。そして時計屋でもなければ骨董品屋でもない。店内は五坪もないだろう。やけにあっさりしていてリビングセットのようなものが一揃えあるだけだ。


「いらっしゃいませ」


 左側から女性の声がした。俺はそちらに顔を向け一瞬どきりとした。


 店主と言っていいのだろうか、スラリとした細身の美人がそこに立っていた。白いシャツにグレーのパーカー、デニムのパンツに頭にはニット帽。見る順番がおかしいって? いいんだよ。


 服装は地味で飾り気のないものだったが、それをはるかに凌駕するような、彼女の大きな瞳、艶めかしい唇、綺麗に通った鼻筋、胸まである長い髪。そのどれもが輝いて見えた。


 俺が言葉を失っていると彼女のほうからしゃべり出した。


「ご依頼でしょうか?」


「え?」


 俺が何を言われたのかが理解できずにいると、彼女は首を傾げてもう一度訊いてくる。


「あの、ご依頼ですか?」


「あ、ああ……ええと、外みて覗いただけなんだけど、ここって――」


 彼女はドアを開き俺を中へ迎え入れながら、笑顔を作る。


「時間を売るって、どういうことなのかなって思ってね。不思議な事を書いているなと……」妙な詮索はされたくなかったから早口で告げる。


「よく、みなさんそうやってこられるますよ――でも興味を持ってこられる方は決まってお忙しい方ばかりなんです。つまり時間が足りないって思っている人」


 俺は肩をすくめて彼女を見ていた。図星ではあるが、誰だって時間は欲しいものだろう。時は金なりという格言すらあるのだ。


 俺は彼女に勧められるままソファに腰を下ろす。まさか新手の風俗店か、キャッチセールスではあるまいなと、キョロキョロと辺りを見回す。飾り気のない内装。照明だって店舗らしい凝り方は一切ない。このリビングセットだって、どこかのリサイクルショップでとりあえず調達したようなものに見える。コーディネートという言葉とは無縁だ。


「やっぱり怪しいですよね、こんな書き方」


「まあね。でも掴みはバッチリじゃないかな。で、ここは何屋さんなの? 『時間屋』って何?」面と向かってみると、正直彼女が最初の印象よりも随分若いことが見て取れたので、俺は口調を崩してしまった。二十代半ばくらいだろうか。


「わかりやすい言葉で言えば『家事代行』ですね」


 拍子抜けだった。それほど何かを期待した訳ではなかったが、あまりにストレートすぎて想像が及ばなかった。なるほど、俺のような仕事で忙しい独身者の身の回りを代行してくれるから“時間を売る”ということなのか。


「でも家事だけじゃありませんよ。お客様の時間を創出するため必要と思わえる作業の全てを私が行います」


「は……え?」


「個人秘書と言い換えてもらっても結構です。お仕事全般のお手伝いも可能です」


「うん……とは言えど、君は会社の人間ではないし、社内秘の案件も僕なんかは多く扱うんだ。易々と外部の者に委託する訳にはいかないよ」


「無論私の業務は信用と信頼があってのことです。秘密を守るは当然のこと。ですから私は一ヶ月の契約期間内はお客様と一対一の関係で、契約基本金は一万五千円です。あとは依頼内容のボリュームにより個々にご請求させていただきます。ただし専属契約ですので二十四時間お客様のお側に付かせていただいております」


「に、じゅうよじかん?」


「もちろんお客様が望む場合は、ですが」


「ええと? 月契約金が一万五千円で、その期間内の依頼作業に報酬を支払うという意味かい?」


「報酬は新たに創出が可能となった余剰時間に対してご請求させていただいております。たとえば私が動くことによりお客様の余剰時間が三時間得られたとしましたら、千円×三時間で三千円となります。成功報酬制ですので、仮にお客様に余剰時間が作れなかった場合は無償となります」


「それじゃあ普通の家事代行よりも稼ぎが少なくなるんじゃないか? 君は契約したら僕の依頼がない限り収入がないまま僕に連れ添わなければいけないんだろ?」


 正直胡散臭いとも思う。時給千円の家事代行業は一時間動けば確実に千円を稼ぐ。そしてそれはイコール拘束時間だ。しかし彼女の場合は三時間動こうがもしかするとゼロかも知れない。いくら成功報酬制といっても、俺がやれることを代行するに過ぎないのだからどれだけ多く見積もったとて家事代行の域を出ることはないような気がする。


 俺が腑に落ちないという顔をしていると、彼女は小首をかしげて微笑んで言う。


「そうでもないんですよ。私が五分でできる仕事を代行するだけで、お客様は数時間という時間を無駄にせずとも済む場合もあるのです。そのお客様のあらゆる時間的ロスを私が解消するということ、すなわち時間を売るという事です」


 彼女が家事代行と違うのは“余剰時間をつくるためのあらゆる全て”を行うと明言しているところだ。あらゆる全て、とはどこまでの事を言っているのだろうか?


 やはり成り立つようには思えない。アイデアは斬新で面白いが料金体制が不明瞭で判断基準がない。請求料金はつまるとこ相対報酬だ。状況如何により変動するということだ。


 俺はため息をついて腰を上げた。


「世の中には僕の知らない変わった仕事があるんだね。まあお世話になることは多分ないと思うけど、がんばってよ」


 彼女は俺がこのまま契約するとでも思ったのだろうか、大きな目を不思議そうに俺の顔に向けていた。


 そんな目で見られたってやらないよ。端的に言うと危なっかしいんだ。君がじゃなくて、君のやろうとしていることが。まっとうな仕事をしたほうが身の為だと思う。


「あ、あの!」


 店を出がけの俺を彼女が引き止める。


「これ、よかったら持っていてください。お電話でも暫定的契約は可能です」


 俺は彼女から名刺を受取り、ろくに見もせず内ポケットの二つ折り携帯電話に仕舞った。


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