1
今、俺の願い事が叶うならば、時間が欲しい。
などと鼻歌を歌っている場合ではない。本当に忙しいのだ。
時間がないならもっと早く全てのことをこなすべきだと人は言う。だがそうそう上手くもいかない。
今日中に東京大阪間を往復することができたとしても、修理を依頼した自動車を閉店時間までにディーラーへ引取りに行くことはできない。しかしそれは本日中でなければまずいのだ。明日には車で遠出をする。
不具合を抱えたまま運転するのは不本意だから急いでいた。だがいろいろな仕事や事情が重なり、引き取りが直前になった。
明日は栃木の実家でお見合いなのだ。母方の叔母がありがたい事にこの不肖三十になる甥のためにセッティングをしてくれた少々ありがた迷惑な話なのだが、彼女らのメンツもある。俺は不承不承首肯するより仕方がなかった。
だからこそ車が途中で止まるなどということがあってはいけないから慌てて修理に出したというのに。それに朝にクリーニングに出した一張羅を、帰ってすぐに引取りに行かねばならない。どう考えてもこれらを一度に済ませることは座標軸的にも時間軸的にも不可能だと思われる。
今朝の時点で在庫切れした歯磨き粉も調達せねばならない。臭い息でお見合いをするわけにはいかないからな。笑顔の口元にはキラリと光る白い歯だ。
第一印象は大事だ。近所の馴染みの美容室は、特別に閉店後に対応してくれるというので、二十一時には帰らねばならない。
いや、それほど今回のお見合いに力を入れているわけではない。まだ独身でいたいという気持ちもある。それに結婚するという実感もない。
彼女はここ三年いないままだ。三十を目の前にして俺は会社からの信頼も得て、主任のポストを勝ち取った。彼女が別れを切り出したのは、俺が仕事が忙しくなり構ってあげられなくなったというのが主な理由だろう。あの時は彼女も二十三と若かったから、それも致し方ないと今は吹っ切れている。
男の独身というのは仕事と家事のウェイトレシオを鑑みるに、どうしても仕事へと偏る。それは男が仕事をするべき生き物だからだ。そのように原始の時代から決められている。だから自身の生活は意識せずとも荒廃してゆく。
外食が増え、洗濯はまとめて週に一度だけ、掃除なんて一ヶ月に一度できればいい方だ。休日にスーパーに行けなければ冷蔵庫の中身はやがて空になる。そして安易にコンビニで弁当を買うはめになる。
それに何より面倒なのが役所関係の手続きだ。やれ住民票をとれだの、所得証明を出せだの、平日の五時までしか開庁していない役所に健全な出勤をするサラリーマンは一生かかっても赴くことはできない。だから営業の外回りなどのついでに近くに寄って用事を済ます。
一週間があと一日増えればできる。だがそんなことになっても仕事する日が増えるだけだ。世間全体の時間が増えたところで意味はない。
俺自身の時間が増えなくてはいけないのだ。どこかに時間を売っている店でもあれば言い値で買ってやる。金なら余裕はある。恵まれない子供たちに学校を建ててやれるほどではないが、同年代の妻帯者よりもワンランク、ツーランク上の生活ができるくらいの余裕はある。
そうも考えると、家庭というものがいかに金のかかるものなのかが計り知れる。その上今以上に拘束される。真っ平御免だな。
俺はスマホに送られてきた見合い相手の写真を開く。彼女は振袖を着てこちらに向かってほほ笑みをたたえている。ちゃんとした写真館で撮影されたものだ。古典的だなと心の中でほくそ笑む。
新幹線の売り子のタイトスカートのヒップラインに目が泳ぐ。ああそうだ、俺はまだ落ち着く気はない。周囲から独身貴族などと揶揄されても、俺は今のこの暮らしが気に入っているんだ。あと時間さえあればもう言うことはない。
品川駅に着くと既に俺のことをディーラーの営業マンが待っていてくれた。あらかじめ新幹線の中から彼を呼びだしておいたのだ。十八時に東京駅まで迎えに来てくれと。会社には直帰すると電話を入れておいた。
まるでハイヤーのような扱いだが、車は俺の車だ。そいつに乗り込み運転するのも俺だ。担当営業マンをクリーニング屋まで付き合わせて申し訳ないが、このくらいフレキシブルに動いてもらわねば、わざわざ俺がディーラーで車の面倒を見てもらっている甲斐がない。
この無形のサービスも営業マンにとっては営業活動の一環だ。次に買い替えをしてもらうためには商品とサービスで顧客の満足度を満たしてやるしかないからだ。そのために営業マン自身が身を切ることも厭わない。それはやがて自身の血肉となることが分かっているからだ。
そのような理屈で動く社会は何も珍しくはない。これを業務の規定外だとか言っ拒否する頭の固い奴は仕事ができないと同義だと断じてしまってもいい。
「お疲れ様です。斉木さんはいつも忙しそうですね」
二十代後半、俺とさして変わらない営業マンは、助手席に移動してシートベルトを締めながら言う。
「ああ、すまないね。朝から大阪で会議があってね、そのあとガイジンを京都観光に案内して湯豆腐食ってさ、ダッシュで戻ってきたよ」
「湯豆腐っちゃあ、南禅寺ですか」
「嵯峨だよ。何がいいのかしらんが、ガイジンは嵐山が好きだな」
「ああ風情がありますよね」
知ってかしらでか、営業マンは俺の肩を持たずに、ガイジンの趣向を理解したようだ。
「でも僕も斉木さんみたいなバリバリやれる営業になりたいですよ。海外なんかにも出たりするんですか?」
「うん、タイとか台湾が多いけどね。しかし自動車の営業じゃその必要もないだろ」
「確かにそうですけどね。でも僕もいつまでもこの仕事続けるつもりはありませんよ。――ああ、いえ、お客さんに向かって言うことじゃないですけど――」
「いや、構わないよ。北島くんは結婚してたっけ?」
「ええ、去年入籍しました。それで春には子供も生まれるんですよ。だから今の給料じゃちょっと厳しいかなって……新車の販売台数は右肩下がりですし、この業界もいよいよ尻すぼみかも知れないなって思って――」
「転職、かぁ」
「ええ、圧倒的に時間がないですね。今のままじゃ家族と過ごす時間があまりにも少なすぎます。会社は公休も有給も保証してくれますけど、実際時間外で動いていることって多いんですよ。それが営業だと言われれば確かにその通りなんですが」
「悪いね」
「え、ああ……いえ、斉木さんは初めて新車を買ってくれたお客様ですし、僕にとっては特別な方ですから」
彼がお為ごかしを言っていることは想像に難くない。だが、それでこそ営業マンだ。相手に見透かされようと確実に実を持って帰ってくればそれでいい。
俺は閉店間際のクリーニング屋に飛び込んで、明日着るスーツを引き取った。あとは営業の北島くんをディーラーまで送り届ければ本日の外向きのミッションは完了する。
おっと、忘れるところだった。危うくシャワーを浴びたあとの寝間着で、寒い思いをしてコンビニまで走らねばならない羽目になるところだった。三月に入ったとはいえ、昨日から冬の最後の抵抗のような寒波が訪れている。車を置いて部屋に戻ったらもう外には出たくない。
わりに遅くまで営業しているドラッグストアが近所に有り、俺は北島くんに断り、再び車内で待ってもらって歯磨き粉をひっ掴んでレジへと向かう。そこで俺はポケットをまさぐり舌打ちをする。財布が車のカバンの中だ。
レジの学生らしきバイトの女の子に断り、車へと走る。これが無駄だ。この往復する時間。少し気をつけていればこんな時間の無駄をせずに済むのに。俺は北島くんを一瞥することなくドアを開いてカバンを奪うようにして店内へ走った。