挿話 降臨せしものたち ~ペオーズ~
「なあ、あんた。ここが何か知ってるか?」
転生者殺しと司法の犬が衝突した場所から北へ馬で一か月ほどもかかる位置に在る町、アズルにはたくさんの酒場がある。エオジットの王都にほど近く、都で商売を済ませた商人たちや、冒険者たちでごった返す町は活気に満ち、夜の酒場は彼らの様々な欲求を満たすため、夜が更けるほどにその喧騒を増していくようだった。
そんな酒場の中でも一際賑わいを見せている「ジャッカルの尻尾亭」に、奇妙な客が訪れたのは今から五年ほど前の話だ。
ひたすらに騒がしい周囲を一瞥することもなく、言い寄る娼婦を完全に無視し、背中にもたれかかってきた酔っ払いの怒声すらも耳に入ってない様子でカウンターに立つ男がいた。店の主人は一杯目に蒸留酒をオーダーしてから置物のように微動だにしない男に怪訝なまなざしを送っていたが、静かすぎるが故、逆に存在感を増してきた珍客に話しかけてみた。
「…………」
話しかけられた男は、カウンターに両肘を突いており、右手で琥珀色の蒸留酒が満たされたショットグラスを支えるようにしていた。一見するとそれを飲むべきかどうかを逡巡しているように感じなくもない。
だがそれは、一時間ほどまえならば――彼が店に入ってきた当初であればの話だ。肩まで伸びたストレートの銀髪と黄金の瞳というエオジットの民には決して発現しない形質をもつ男は、店主の問いに答えるどころか顔すらも上げなかった。
「なあ、あんただよ」
たまらず店主は、珍客の正面に移動して声をかけ直した。長年勤めてきた相棒のバーテンダーに、ちょっと頼むわと言い置いて。
「……私か?」
「……ああ、そうだよ。ここらへんじゃ見ない顔だし、さっきから黙ったままだ。ここは酒場だからな。カウンターを占領するならもう少し楽しそうに飲んでもらわねえと」
ようやく答えた男の声が、とても澄んだもの――冒険者のだみ声や、商人たちの無駄に慇懃な造り声ではないものであったことに一瞬目を丸くしながらも、すぐにカウンターに身を乗り出して喋り始めた店主は、いったん言葉を切ってぐるりと辺りを見渡すとため息をついた。
お客が寄り付かなくなっちまわあ。
店主はそう言うと左の口角を上げて眉尻を下げ、両肩を竦めて見せた。彼の言う通り、長身痩躯の男の周囲には、あまりにも無反応なのを気味悪がってか娼婦も近づかず、白いローブ姿を中心にドーナツ状の空間が出来上がっていた。
「……そうか」
「そうかって……あんたなあ」
男の答えに、店主は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。彼はどっこらせと言いながら男とは対照的に太った身体を揺すって大量の酒瓶が並んだ棚を振り返り、先ほどショットグラスに注いだのと同じ液体が入ったボトルを掴んで再びカウンターに向き直った。
「見たところ、この辺の出身じゃないんだろ? こいつは俺らに取っちゃ母ちゃんのミルクみたいなもんよ。ジャッカル様の店に来て、こいつを飲み残して帰るなんざ許さねえぜ?」
「……馬鹿な」
「ああ?」
「いつからお前たちは、母乳が蒸留酒に変わるような進化を遂げたのだ?」
「はああん?」
ドンッ! と音を立ててボトルをカウンターに置き、ニヤリと笑った店主だったが、愕然とした表情を浮かべた男の言を聞くと眉をしかめた。
「いくらラグズの創造する生き物が多様であるとはいえ、体内で発酵蒸留を行うような進化の道を辿るとは……。本当にこの星は、摩訶不思議な現象で溢れかえっているな」
痩身の男は白銀の頭を左手で抱え込むようにし、右手に持ったショットグラスを持ち上げて中身を気味悪そうに眺めながらおののいた様子を見せた。
「ちぇっ。なんだかわからねえが、毒じゃねえからよ。感想なら飲んでから聞かせてくんな」
「大火山の噴火以降お前たちの生活を観察し続けてきたが、酒というものを飲んだものの変化は実に興味深いものだった……。私がこれを摂取すると、どうなってしまうのだろうか……?」
妙な野郎に関わっちまったかなと店主が口を尖らせたことなどお構いなしに、男はショットグラスをつまむようにして眼前に持ち上げたまま矯めつ眇めつ、それの観察を続けていた。
「俺の酒を飲んだ奴ぁ、イイ気持になるもんだ。ほら、グイッといきな!」
「グイッと……とはなんだ」
「ったく。でかいなりして酒の飲み方も知らねえのかい? じゃあ、一つ俺様が呼ばれてやらあ! こうやるんだよっと!」
店主は男の言葉に呆れ顔を作る手間をも惜しむかのように、左手一本で器用にボトルの詮を開けると、いつの間にか取り出したショットグラスに中の液体を満たして一気にあおった。
「っかー!!」
「……っかー?」
喉を鳴らして琥珀色の液体を一飲みにした店主は、それがもたらす粘膜刺激に対して甲高い声で反応したが、それを見つめる男の瞳はまるで珍妙な動物でも観察するかのように揺れていた。
「いいから、ほら! 俺がやったみてえに飲んでみな!」
「……ふむ」
男は摘まんでいたグラスをそっと口元に近づけ、一瞬の逡巡を見せた後に一息に飲み干した。
「……どうだ?」
「どう、とはなんだ」
「うめえか?」
「うめえ、とはなんだ」
「…………」
酒場を切り盛りする店主としては当然の質問をしたようだったが、訊かれた男の方は首をかしげるだけだった。
「ちぇっ。なんとも歯ごたえの無いやつだぜ」
「私を噛んだのか?」
「ああ? 馬鹿野郎、『歯ごたえ』ってのぁな……もういい。不味くなかったんならいくらでも飲みな。あんたと話してると調子狂っちまう」
恰幅のいい身体を捩って男の前に新しいグラスを置き、店主はそこに琥珀色の液体を満たした。
「ああ、そうだ」
「?」
その様子をぼんやりと眺めていた男は、脇に避けられたほうのグラスに手を伸ばし、店主が眉を潜めるのも気にせずに口を開いた。
「……っかー」
「遅えよ!!」
「遅かったのか」
「ったりめえよ! 酒が喉を通った直後、鼻にツーンと来る前に口から出しちまうのがいい飲み方なんだ」
「ぬ……そうか。次は、うまくやろう」
「はあ? ……ぶふっ。わーっはっはっは!!」
あまりにもかみ合わない会話に嫌気がさすかと思いきや、店主は大口を開けて笑い始めた。
「ふむ。笑うという行為は人間特有のものだと聞くが、何がお前にそうさせるのだ?」
「ははっは。ひひひ。腹いてえぜったくよお……」
店主は、巨体を揺すって笑う自分を再び観察し始めた男の質問には答えず、まあ好きにやってくれと言い残してカウンターの向こうの客の相手をしに戻っていった。いつの間にかバーテンダー一人では捌ききれないほどの客がひしめいていたのだ。
「…………ふむ」
一人残された男は新たな一杯を煽り、彼が生み出されてから初めて味わう感覚を吟味しているようだった。その表情は真剣そのものであり、三杯目、四杯目と手酌による酌が進んでも美麗な顔を包む皮膚に赤みがさすことはなく、瞬く間にボトルは空になった。
「……っかー。……おお」
男が十六回目にそう言ったとき、彼は顔を上げて笑みを浮かべた。
「なるほど。確かに鼻に刺激臭が抜ける前に、口から吐息に混ぜてしまうことで、その後にせりあがってくる芳醇な香りというものがわかるのだな」
「嘘! あんた、それ、全部飲んだの!?」
ようやく合点がいった様子で男の表情が緩んだとき、突然浴びるように酒を飲みだし、あっという間にボトル一本を飲み干した男に声をかけるものがあった。
「……?」
男に声をかけたのは、「ジャッカルの尻尾亭」のウェイトレスの一人であった。茶色の髪を長く伸ばしている彼女は、渋柿色に染められたシャツと黒い綿で織られたズボンを着用し、首からジャッカルをモチーフにした店のロゴが縫い込まれたエプロンをかけていた。
「それ、‘ボッテガ’でしょ? マジですごいよ~! 親父に絡まれて飲み始めたのは見てたけど、飲み干しちゃうなんて思わなかったよ~」
突然声をかけられて訝しげに振り返った男の隣に無遠慮に近づくと、ウェイトレスは空のボトルを彼の左手から奪い取り、しげしげと眺めて感想を漏らした。さらに、彼の背中をバシバシと叩きながら‘親父’と自ら呼称した店主に向かって声を張り上げた。
「ちょっと、親父! なにジャッカルみたいに尻尾丸めて逃げてんのさ! 彼は『ボッテガチャレンジ』を制した勇者だよ? 払うもん払わなきゃ!」
「うるせえぞ、イレーナ!」
酒場の喧騒の中にあっても、イレーナと呼ばれたウェイトレスと店主の胴間声は店内に響き渡り、荒くれ者や物見高い商人たちの注目を集めていた。
「おいおい、ボッテガを飲み干しただって!?」軽そうな皮鎧を着込み、背中に弓と矢筒を背負った冒険者風の青年が身を乗り出した。
「ウソだろ? あれ飲むくらいなら傷薬の方がましだぜ」その隣で三人の娼婦を侍らせていた壮年の男が目を剥いた。
「ほほお~。一口飲めば二日酔いどころか三日酔いは必至という噂のアレをですと……?」豪奢な装飾が施された絹の服を着て、葡萄酒を傾けていた商人風の男が好奇の視線を向けた。
先刻、店主が白髪の男に語って聞かせた酒の紹介と、周囲の客が認知している情報とは幾分食い違いがあるようだった。彼らは噂の強酒を飲みほした酒豪の姿を見ようとしてカウンターを取り囲んだ。
「おぅい、ダルトン! ついに年貢の納め時だな!」
「本当に賞金払うのかぁ!? んな金あんのかよお!?」
ボッテガチャレンジを制した男を取り囲む群集の中から、店主に向かって声がかかると、彼は「うるせえってんだ!」と叫び返した。そして、男とは反対側のカウンターの端へ足早に進むと、そこから身を乗り出して壁から何かを剥がし取り、代わりに真新しい紙を同じ場所に張り付けた。
「ぎゃははは! 『ボッテガチャレンジは好評につき本日で終了』だとよ!」
「じゅっ、十年以上通ってっけど、誰もチャレンジしてねえ! 残念だぜ~、『好評』だったのによお!」
新たに張り出された告知に店内が沸き、笑い声を上げた客たちをいちいち睨みつけながら、鼻息荒くダルトンが戻ってきた。
「ちぇっ。まさか飲み干しちまうとはよ……」
銀髪の男の前まで来ると、ダルトンは心なしか肩を落として舌打ちしたあと、彼の何が起きているのかわからないといった表情を見て嘆息した。
「はあ~。まあ、いい。あんたが飲み干したのは、ここいらどころかエオジット中で一番強い酒だ。一瓶飲み干せたら金貨十枚でえ! 持ってけ泥棒!」
最後のセリフは涙まじりに叫び、麻袋が男の前に音を立てて置かれ、中に入った金属製の何か――彼らの言から察するに金貨だろう――がジャラリと音を立てた。
男は麻袋とダルトンを交互に見比べ、次いで自分を取り囲む野次馬を見渡した。そして首を傾げながら正位置に向き直って口を開いた。
「……金貨は、受け取れない」
男がゆっくりと吐いた言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。
この男は何を言っているのだ。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、開店からその日までで初めてかもしれないほどの静寂がジャッカルの尻尾亭に満ちていた。
男はそんな様空気を気にした様子もなく、高濃度のアルコールを大量に摂取した後とは思えない平生至極の口調を崩さずに言葉を続けた。
「私は、泥棒ではない。それに、先ほどお前が一杯飲んだだろう。私が一人でこの瓶を飲み干したわけでもない」
したがって、金を受け取る権利はない。
最後にそう言って、麻袋をダルトンの方に押しやった。
「――――気に入った!!」
それからしばらく続いた静寂を破ったのは、イレーナだった。
「親父は持ってけっつったのに、金貨十枚を突っ返すなんて信じられない大馬鹿野郎だね! あんた、名前はなんて言うの?」
バシバシと背中を叩きながら、イレーナが男に問いかけた。問われた男は少し虚空を見つめてから、薄く笑って答えた。
「兄弟たちには、『ペオーズ』と呼ばれている」
「ペオーズ? 変わった名前だね~。あっ! こら親父!」
「てやんでえ! いらねえってんだから、こいつは返してもらうぜ!?」
ペオーズとイレーナのやり取りを黙ったまま見つめている野次馬どもの視線を躱しつつ、そっと麻袋に伸ばしたダルトンの手の平をイレーナがピシャリと叩いた。
「男が一回出した金を懐にしまうもんじゃないよねえ? そうだろ皆!?」
イレーナはダルトンと麻袋の上で手を重ね、一進一退の攻防を繰り広げつつ、野次馬を振り返って叫んだ。よく通るソプラノの声が酒場に響き、呆然としていた客たちの目に光が戻った。
「お? おお! そうだ、イレーナの言う通りだ!」
「おい、にーちゃん! いいからもらっとけって」
「ダルトン! そいつがいらないってんなら、代わりに貰ってやるぞ!?」
野次馬から絶大な支持を獲得したイレーナが、麻袋から手を離して腕を組み、やや胸を逸らしてダルトンを見た。その視線から逃れるように顔を背けた店主は、奥歯をギリギリと鳴らし、現在進行形で苦虫を噛み潰しているような顔になっていた。
「どーしたダルトーン! なんとか言えー!」
野次馬の中から、弓矢を背負った冒険者風の男が進み出て言った。しかしダルトンは何も答えず、奥歯を軋ませるばかりだった。すると冒険者風の男はカウンターまでにじり寄ってきた。
「よお、あんたも黙ってないでよ、今なら金貨、持って帰っても誰も何も言わねーぜ? まあ、本気でいらねーんなら、俺が――」
そう言われた長身の男は、イレーナとは反対側に立つ男を見やり、ああ、そうだと言って口角を吊り上げた。
「そんなに金属の塊が欲しいのなら、一つ賭けをしないか?」
その後、ジャッカルの尻尾亭では盛大な酒盛りが始まった。いくら飲んでも酔うことはない白銀の髪をもつ男は、並み居る荒くれ者のウワバミたちを次々と酔いつぶし、一晩で金貨十枚分の酒を消費したのだった。
それから五年後、転生者殺し及び魔王を名乗る存在が指名手配となった日から一か月と少し。
ジャッカルの尻尾亭のカウンターで、銀髪の男が酒を飲んでいた。左手には『ボッテガ』と銘打たれた空き瓶を持ち、右手で摘まむようにしているショットグラスの底には、琥珀色の液体の残滓がわずかに残されているのみだった。
「リーダー! ガイをやった奴と、ケルベロスが――うおっぷ! 酒くせぇ!」
そこへ飛び込んできたのは、背中に弓と矢筒を背負った青年だった。五年前とは違い、よく磨きこまれた薄い金属製のブレストプレートを装着していた。
「そうか……やっと現れたか」
男の報告は途中で途切れてしまったが、銀髪の男には伝わったようだ。
「どうする? 行くの?」
大の男でさえ顔を背けるほど強烈なアルコールの臭気をものともせず、長身痩躯のペオーズの影に隠れるようにして寄り添っていた女が口を開いた。茶色の髪を長く伸ばしており、それがカウンターに乗せるようにしている豊満な胸の上あたりで内向きにカールしていた。
「そうだな……。リバースキリング……魔王には、私も会わねばなるまい」
「ガイの敵討ちだな! 腕が鳴るぜえ」
「……」
弓を構えて鼻息を荒くする冒険者を見下ろした男の額には『ᛈ』の形の刺青があり、流れるような銀髪に隠されてはいたものの、確かに燐光を放っていた。
干渉者登場が久々すぎて、ルーン文字をいかにして入力するか忘れた作者を笑ってやってください。今年もよろしくお願いいたします。




