7.国籍が欲しい 中編
「魔王様~? 入らないんですかあ?」
栄養補給と同時に貨幣の調達を済ませたレミアの希望で、私たちはロアルで最も高級であるという宿――盛り場の真っただ中にそびえ立ち、かつてエオジットが砂漠であった頃の豪商が建てた宮殿の様な外観ではあったが――の一室にいる。宿で私たちを出向かえ、部屋まで案内した従業員は、私たちの装束や髪の色を珍しがっており、それは町ですれ違った者たちや他の客からの視線からも感じられていた。
「魔王様ってば~?」
先ほどからレミアの声が私を呼んでいる。彼女は今、部屋のバルコニーに設置されている風呂に浸かっているのだ。巨大な岩石をくり抜いたような半球状の浴槽には、暖かい湯が常時張られているらしい。
「いやー、『露天風呂』とかいうものだそうですが、星空を眺めて入るのもいいものですよ~」
野外に在って、周囲を囲むのはバルコニーから転落しないようにと設けられた壁のみだ。雨避けであろう屋根はあるものの、四本の支柱で支えられているそれの中央はガラス張りになっており、これでは裸体を晒しているのと変わらないと思われた。幸い、周囲にはこの宿よりも低い建造物しかないため、衆目の目に晒されることはないようだ。しかし魔力によって空を飛べるものが存在する文化に暮らしている以上は、婦女子が入ることを想定しておかねばならないのではなかろうか。
「この階下には竈なんてないのに、どうやって湯を供給しているんですかね? 人間の考えることはよくわからないけれど、これは秀逸な発明ですよね~」
イスキリスの民も、地熱で温められた水が湧く地に大衆が入れるように巨大な入浴施設を築いていたし、星の長い歴史においてそのような文化はいくつも見られた。しかし、このような――好意的な表現をすれば、解放的な設備を見るのは初めてだった。
「魔王様~? 宿の男がくれた『入浴剤』とやらも今入れてみましたけど、いい匂いですよ♡ 早くいらしていただかないと……ボクだってのぼせちゃうかもですよ~」
つまるところ、このような風呂を好んで造るような輩は、羞恥心というものが欠落しているか、極端に少ないのだろう。
「魔王様……? 久方ぶりの放置を堪能なさっておいでのところ恐縮ですが……ちょっと話を聞いていただけませんでしょうか」
いつの間にかレミアが薄布――タオルとやら一枚を身体に巻いて立っていた。長椅子に寝そべるようにしていた私を背後から覗き込んで声を掛けた、彼女の長く伸びた黒髪から垂れた水滴が私の額を濡らした。
「……どうした、レミア」
「ふっ。初めてボクに気付いたかのような、その反応……」
レミアの目が妖しく光り、人目がないのをいいことに出現した猫耳がパタパタと動いた。彼女はゆっくりと移動して、私の腿に跨った。
「自分で言うのもなんですが、ここまで扇情的な肉体をタオル一枚で敢えて隠し、濡れ髪から滴る雫、柔肌から立ち上る湯気と官能的な香草の香りを感じませんか……? そして部屋にはボクと魔王様二人きり……」
開け放たれたバルコニーへと続く窓から、やや湿った風が町の喧騒とともに独特の香りを運んできた。香りの正体は『入浴剤』とやらが放つものらしいが。
「魔王様……。レミアの心も身体も……魔王様のものなんですよ……?」
レミアは私に跨ったまま、ゆっくりと薄布に左手をかけた。それを取り払うことはなく、少し下方に引いて胸の谷間を強調した。髪から流れた雫が、その渓谷へ吸い込まれていく。褐色の肌を持つ彼女であるが、なぜかこの時ばかりは桃色に見えた。私の身体と接している部分が妙に熱を持っている。さらに、空いた右手を私の腿に這わせ、それがじりじりと這い登って来るのに合わせて彼女の上気した顔が近づいてきた。四つ這いの体勢になった彼女の黒い尾が規則的に、誘うように揺れていた。
「レミア……」
「魔王様――わきゃあああ!?」
数年ぶりに絡みつく感触を味わうかのように、黒鎖がレミアの身体を締め上げた。さすがに鉤爪は付けなかったものの、かつて百老の自由を奪った漆黒の鎖による緊縛は、私の黒弾を受けても負傷しないほどの耐久性を誇る彼女を完璧に捕縛していた。
私は立ちあがって窓を閉めた。身動き取れなくなったレミアは床に転落してしたたかに頭を打ったようだ。
「いたた……魔王様!? これはいったい!? 何事で――うごぉ!?」
無様に床に転がって何か喋ろうとしたレミアの口を、黒鎖が覆うように塞いだ。顔の上半分だけ出した状態のレミアの目からは、先ほどの光は消えていた。
「――ぷはっ! う~ん。頭と身体が痛いです……」
「正気に戻ったか」
私は黒鎖を消した。
時折、「ご先祖様の血が」などと言い、扇情的になるレミアではあったが、先ほどのように目を光らせるようなことはなかったのだが。
「入浴剤……か?」
レミアがいつも以上に迫ってきたのは、宿の従業員が「お楽しみください」と置いていった、乾燥した草を束ねたものの匂いを嗅いだ直後であった。そう思い至って窓を閉めて匂いを遮断してみたところ、彼女は正気を取り戻したのだから、この考えは間違っていまい。
「そうですね……お風呂にあれを入れてからの記憶が少し飛んでいます……それにしても、ボクはいったい何をしようとしたのでしょうか?」
「……」
まだ痛むらしい身体をさすりながら問うレミアに、私は何も答えなかった。
「あれ? 魔王様? ボクは何をしたんですかー?」
私は鼻を覆いながら、浴槽に浮かぶ香草の束を取り出して燃やし、風を起こして残り香を払った。
後ろ手に窓を閉め、私はローブを脱いでゆっくりと風呂に浸かった。
なるほど入ってみれば、これを造った人間の気持ちもわからんでもない。見上げたガラスの天板から見える星空は、まるで夜空を四角く切り取った絵が飾られているように見えた。聞こえてくる喧騒はなぜか遠くに感じ、「魔王様~! そろそろ無視が辛くなってきましたよ~!」と叫ぶレミアの声も、時折吹いていくる心地よい風に乗って消えていった。
「おはようございます。セイタンさん、フェレス……さん?」
翌朝。
昨晩しっかりと食事を摂って休息したはずなのだが、妙にげっそりした様子のレミアを伴ってホールを訪れた私を、ブランドンの訝しげな視線が出迎えた。
私は「気にするな」とだけ告げて、彼の案内に従って二階へと上がった。
螺旋階段を登り切ると、一筋の廊下の左右にたくさんの扉があり、私たちはそのうち一番手前の扉を開けて中に入った。木製の扉は緑色に塗られていたが、ところどころ塗料が剥げ落ちていた。他の部屋の扉も様々な色に塗られていたが、「戸籍係」と表札が設置されたこの部屋の扉だけが、そのような状態だった。
「まま、どうぞ座ってください」
笑顔で通された部屋の中は、さらに酷い状態だった。
まず目に飛び込んできたのは、大量に積み上げられた紙束であった。床から私の頭頂よりも少し高い位置まであるものから、膝下程度のものまで高さはバラバラだが、その数が尋常ではない。特にうず高く積み上げられたものが入ってすぐのスペースを埋め尽くしているために、室内の見通しはまったく効かず、窓から差し込む光も遮られているためにごくわずかであり、朝であるというのに室内は薄暗かった。それ故、彼が「座ってください」と言ったところで、夜目が効く私とレミアをしても腰を下ろす場所など見つけられそうもなかった。
「……昨日の小部屋より酷いですね……」
レミアが口と鼻を覆いながら、顔をしかめて言った。
わずかに差し込む光の筋には、器用に紙束の柱を避けながら進むブランドンが巻き上げた埃が照らし出されていた。昨日の応接室の机にしてもこの部屋にしても、普段から掃除というものはしていないのだろう。レミアが応接室よりも環境が劣悪だと感じるのは、大量の埃と共に部屋に充満しているカビの匂いのせいだろう。
「いやあ、あはは。まあ、王朝が誕生した当初はですね、立派なオフィスだったらしいんですがね……」
どうやってそこまでたどり着いたのか、ブランドンは紙束の柱の向こうに鎮座する机に向かっていた。粉雪のように埃がその黒髪に積もっているが、それを気にした様子もなく、彼は語り始めた。
それによると、エオジットに統一王朝が誕生した直後は、『戸籍係』の仕事は苛烈を極めていたらしい。
戦争と交渉によって統一王朝を誕生させた初代の王は、史上初めて『戸籍を作る』という事業に着手した。そもそも『渇きの大地』と呼ばれていたエオジットには、多数の部族が暮らしてはいたものの王国というものは存在しなかった。国を治める者として、まず王が考えたのは『国力を把握すること』だったのだ。
長い努力の末、ついに全国民の分布を調査し終え、晴れてエオジットの民は『国籍』を与えられ、国家の一員となった。
「まあ、一度出来上がってしまえば、あとは産まれたときと死んだとき、あと結婚と離婚ですかね、そのときに申請してもらえばいいだけなんで、だんだん規模が縮小されましてね」
ブランドンは肩を竦め、「今じゃここは、書類の墓場みたいなもんですよ」とため息をつき、説明を続けた。
エオジットの国籍を有する両親の子は、出生を届け出ればエオジット国籍となるのだが、もちろんこの地に暮らす人々の中にも、エオジット国籍を持たない者が少なからず存在するそうだ。これに該当するのは、もともと少数で社会を形成していた民族や、税を払うなど国民の義務を拒否――あるいは放棄した者たちだ。
彼らは国家に属さない以上、冒険者を利用することができない。したがって魔物の脅威に自らの力で立ち向かうしかない。生活の糧を得るためには貨幣を稼ぐ必要があるが、国民であることを拒否した彼らにその手段はない。必然的に彼らは盗賊まがいの集団となり、村有や隊商を襲って略奪行為を行うようになっていった。そのような彼らは『キャメルバーバリアン』と呼ばれる。もともと砂漠が多かったエオジットにおいて、ラクダを駆って移動していたことからそう呼ばれるようになったそうだが、割とどうでもいいことだ。
対して少数民族は、それぞれがもともと暮らしていた地域で生活することを許されており、交易品――例えば希少な薬草や食材、砂金、鉱石など――を扱うごく一部の部族を除き、互いの生活圏を侵さない限りはエオジット国民との関わりを持たないというのが、百年ほど前までの話であった。
大災害以降、バラバラだった民族をまとめて文明を発展させたエオジット国は、近年少数民族の保護に乗り出した。ブランドンが言うにはその背景に、希少な交易品をより円滑に市場に流通させるという狙いと、そこに関わる利権に群がる者たちの思惑が絡んでいるのだそうだが、これもまあ、私たちにとってはどうでもいい話だ。
「……てことはさ、昨日の眼鏡女に『エオジットの生まれです』って言っておけば、わりとすんなり冒険者登録はできたってこと?」
手で鼻と口を覆っていたレミアが、ブランドンの話を遮って訊ねた。
「いやまあ……名前と住所さえ書けば登録だけはできますけど、こちらで戸籍の照会をしますから、嘘をついてもすぐばれてましたよ? それに他の大陸からやってきた、すなわちエオジットにおいて初の――いや歴史上は二度目か――まあとにかく、外国人でございと主張するよりは、話がこじれなかったかもしれませんねえ」
ブランドンは頭を掻きながら、「やはり、まずは王都にお伺いを立てないとどうしようもないですねえ」と言った。
「お伺いを立てるって、どうするのさ?」
レミアがさらに訊ねると、ブランドンは腕を組んで「うーむ」と唸ってから口を開いた。
「まず事態の報告をしなくてはなりませんよねえ。と言っても高速陸艇を使って往復一か月はかかりますから……その間あなた方はここに留まるのか、報告ついでに王都へ行っていただくのか。まずこの辺をロアル議会で話し合う必要がありますよねえ。それだけでも何日かかることやら。その間に行方をくらまされても困りますから、監視には冒険者を使って……報酬に充てる予算も組まなきゃなりませんし、そもそも……」
「魔王様……コクセキなんて無くてもいいような気がしてきましたね」
私が同感だと答えようとすると、ブランドンが「ああ!」と言って両手を打ち合わせた。埃が大きく渦を巻いて、顔の周囲に舞い上がるのを気にも留めず、彼は嬉々とした様子で言葉を発した。
「考えてみれば、誰かに金を積んで養子にでも入ってから申請していただければ、国籍なんてすぐに貰えますよねえ!? いやー、なんでこんな簡単な手法に気付かなかったのか! これで万事解決ですよ!」
立ち上がって器用に紙束の柱を避けながら、ブランドンが私たちの元へ戻ってきた。その手には数枚の紙があり、彼はそれをポンポンとはたいて埃を払い、それを私の胸に押し付けた。
「さあ! これが『養子縁組』と『戸籍変更届』です! 誰か養父なり養母なりを見つけたら、またおいでください!!」
「…………」
一仕事終えたと言って紙柱の向こうへ戻ろうとするブランドンの肩を、私はそっと掴んで止めた。
「――何か……おや? なんですか、その指は?」
私は彼に渡された紙を突き返し、黙ってその顔を指差した。
「まさか……まお――セイタン様?」
「え? フェレスさん?」
私の意図を察したレミアが、顔を青ざめさせた。そんな彼女と私を交互に見ながら、ブランドンは困惑顔のままだった。
私は顔面に突き付けた指を降ろし、久方ぶりに笑って言った。
「ブランドン……」
「はい?」
「汝が、私たちの養父だ」
直後に響き渡った驚愕の叫びによって、戸籍係の部屋には煌めく埃の嵐が巻き起こったのだった。
レミアのお色気失敗!




