9.イスキリス滅亡 前編
イスキリスの王都を、レザイアに移して五百年。
レザイアの中央に建設された王城の中心に位置する玉座に座り、王は五百年前と変わらず、皺ひとつ浮かんでいない自分の右手を見ていた。
彼は力ある転生者の血族にして、王としての責務を果たすため、百老の秘法を受け入れて復興に尽力した。そして、アマンティアに連なる山脈が吹き飛ぶという未曾有の大災害によって与えられた被害が、ようやく回復したとして、事態の収束を宣言し、平和がもどったと認識した矢先の出来事であった。
戦闘能力だけでなく、星の環境を救ったユージ・ハリマが失踪したのだ。
これまでもふらりと姿を消すことはあったが、そういうときは「……海が見たくなった」などと呟いてからの話であったため、王は気に留めていなかった。実際彼は、数日から数週間で王都に帰還し、何事もなかったように過ごしていた。
しかし今回の失踪直前、明らかに人間ではない存在の姿が監視魔道具の映像記録に残されており、王は非常事態を宣言するか逡巡した。ユージがあっさりと捕縛され、連れ去られた。東の大海溝の直前までは追跡できたが、そこから先は魔道具を通じての可視範囲外だ。
捜索隊を組織すべきか、そのぐらいなら自分が探索に出た方が早いかと考えているうちに、ユージは帰還した。
千体近い、異形の魔物を従えて。
千の魔物を連れて都市を破壊し始めたユージ。予想外の行動に驚いている暇もなく、王は原住民の避難を最優先させつつ、騎士団を都市防衛のために出陣させた。
魔物の群れと衝突した騎士団は、木の葉のごとく蹴散らされた。王は即座に撤退を指示したものの、血気盛んなユージの嫁どもがそれを拒否。彼女らに従う戦力が都市の各地で交戦を続けていた。
ただでさえ弱体化が進んでいる転生者ではあったが、組織的に行動することで個々の弱さをカバーしていた。今後も星で暮らして行くためには一定の防衛戦力は維持せねばならない。大海溝の底から、南の火山島から、空から山から海から川から、沸々と湧いてくる魔物を狩り続けなければならないのだ。
王は民を地下のシェルターへ収容し、強力な結界を張って防御を固めた。都市で戦いを続けている転生者は遠からず全滅することは分かっていた。実際監視魔道具から、ユージ本人によって嫁が抹殺された瞬間の映像が送られていた。
王が必死に考えを巡らせ、確実に敵に回ったらしい魔物使いへの対策を講じていたそのとき、轟音と共に結界に何かが衝突した。
夜空を明るく照らし、魔王が放った黒穿槍によって最強の結界に大穴が穿たれた。大災害から都市と民を守り抜き、民から聖壁と呼ばれ神聖視されてきた王の結界は、いとも簡単に破られたのだ。半ば本能で、すぐさま穴をふさぐことには成功したものの、王は激しく動揺していた。
若い血潮が身体にみなぎっていた頃ならいざ知らず、五百年以上生きてきた王は、身体こそまったく衰えを見せなかったが、精神の摩耗が進んでいた。どうにか心の均衡を保ってこられたのも、いざとなればこの結界によってすべてを守り、対策を講じる時間を稼げると盲信していたからだ。
衛兵が走り、上空に魔王が現れ、その一撃によって結界が損傷したと報告した。唯一心の拠り所であった、自らを王たる者と信ずるに値すると言えた聖壁ですら当てにならないと知らされた王は、玉座を離れ、屋上へ走った。
そこで目にしたのは、何の感情も籠っていない黄金の瞳でもって、王城を睥睨する黒い翼の化け物だった。純白のローブに白い髪と黄金の瞳は、開祖が奇跡を行う際の姿と酷似しているが、背中に生えた漆黒の翼によって、神的な雰囲気はまったく感じられず、足元から震えるような恐怖心が王を襲った。
屋上から周囲を見渡せば、美しい白亜の都市は魔物の咆哮と破壊の音、夜空を染める炎に包まれて、まるで煉獄の様相であった。ユージの裏切りと魔物の襲来は、上空に浮かぶ魔王の陽動であり、真の目的は王城―すなわち自分の命だと認識した王の頭に、皺がれた声が響いたのはその時であった。
[坊主……神託があったでの。ワシが出よう]
かつて王は、百老など化け物と変わらぬと思っていた。
魔力を身体に循環させ、体細胞の老化を著しく遅らせることで、万の時を生きるなど馬鹿馬鹿しいことだ。
魔力によって魔物を打ち倒し、大陸に魔道具を行き渡らせて、奪い合う利権もない。領土の争いもない平和な世を築いてきた王族にとって、世界は退屈なものでしかなく、無駄に長く生きてこの世に留まろうとする老人たちは、奇怪な存在に思えた。
特に、自ら開祖を名乗ってホケ教の布教に励むユウイチロウなどは、あたら原住民を殺して回る殺人狂にしか見えなかった。その身に神のごとき白い存在を召喚して、奇跡を起こす姿は信者どもにはありがたがられていたが、王にしてみればこの世ならざる異形をその身に宿す開祖に対しては、恐怖を感じても畏怖の念を抱いたことはなかった。
「魔王と神の戦いか……。どうせなら潰し合ってほしいものだ」
王は開祖と魔王が相打ちになってしまえばよいと本気で思いつつ、彼らが戦っている間に何か対策を立てねばと、重臣たち――といっても公平性を内外に示すために原住民から取り立てた人材であり、有事の際は役に立たない連中と内心蔑んでいたのだが――を集めて執務室へ籠った。
なんの打開策も打ち出せないまま、籠城を続ける王と重臣たちの元へ、開祖の敗北と王城以外の都市が白竜によって制圧されたこと、ユージ・ハリマの魔物が突如死滅したことなどが報告された。恐らく、彼は生きてはいまいと王は悟った。
重臣たちは王の足元へ駆け寄り、涙ながらにお守りくださいと訴え始めた。結局のところ、原住民には魔王と戦う力など無く、転生者とその血族の魔力に頼るしかないのだ。長きにわたって、そのような社会の構図を作り上げてきた王にも責任の一端はある。それは十分自覚しているが故に、彼は老化遅延を受け入れて、今日まで生きてきたのだ。
だが、未曾有の大災害を経て、ようやく訪れた平和が一夜にして灰燼に帰し、絶対の信頼を置いていたユージは恐らく死亡し、自らの盾も破られ、神のごとき力を振るう化け物までもが倒された今、王は数百年ぶりに、ただの人に還っていた。
「……あー、うっせぇ」
足元で庇護を願う重臣たちを睥睨し、王は冷めた目で言った。
「俺は五百年以上、お前らのために生きてきた……。もう、疲れたわ」
何が起きているのかわからないといった表情の重臣たちを軽く見渡して、王は立ち上がった。豪奢とは言えない外套を脱ぎ、王冠を投げ捨てた。執務室に設置された会議用の机を回り込み、執務室を出て行こうとする王に、重臣の何人かが追いすがった。それを魔力をわずかながら放射して追い払い、王であった男は大きく伸びをして、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で言った。
「イスキリス王朝は、今をもって滅亡だ。国民は俺が逃がす。あとは、好きにやってくれや」
その瞬間、王城を包んでいた結界が消失した。
「……! 結界が」
城内のとある部屋から隠し扉をいくつも隔てた部屋には、一組の老夫婦が暮らしており、城の周囲を覆っていた魔力が霧散していくのを察知した老婆が思わずつぶやいた。
夫の名はカズシゲ、妻の名はサエ。
長年連れ添った――などという言葉では、彼らの人生を語ることはできない。彼らはかつて、地球という星で別々に暮らし、他の転生者と同様不遇の人生を歩み、不幸な死を遂げていたが、死後この星に転生した後に夫婦となった。それは、この星で言えば一万年以上前の話である。
彼らが転生したばかりの頃、イスキリスの民は疲弊していた。全世界を襲った洪水のために文明のレベルは数世紀分後退し、どうにか種の数を維持するので精いっぱいの生活を余儀なくされていた原住民の子として生まれた二人は、幼少の頃から溢れる魔力をその身に宿しており、原住民たちからは忌避されていた。
それでも、第二の人生を与えてくれた存在に報いるため、必死になって魔物と戦い、やがて別々の地で生まれた二人は出会い、共に第二の生を歩むこととなった。
イスキリスのあちこちで、転生した者たちと出会い、彼らはそれぞれの特性を活かしながら、少しでも生活が豊かになるようにと尽力した。魔物を倒し、河川や道路を整備して、魔道具の開発にも余念がなかった。
いつしか彼らは、星に理想郷を築くことを夢見るようになった。明確な目標を定めた彼らは、それまで以上に奮闘し、邁進した。
始まりの転生者たちが壮年期に入る頃になると、仲間は一人、また一人と倒れていった。ある者は戦いによって、ある者は病に倒れ、ある者は寿命で。
すでに魔力の保有量は群を抜いていたカズシゲは、干渉者より授かった特別な力――老化遅延の秘法を実行に移した。これは、その身に流れる魔力を操作し、身体の働きを強制的に休眠状態に入らせるというものだった。意識を保ちながら冷凍睡眠に入るようなものだ。
当然身体が動かなくなるが、彼の身体は、神経伝達物質が働いて種々のイオンチャネルを介して筋肉の活動を起こさせる代わりに、魔力でもってそれを代替させることで、あたかも正常な動きをしているかのように見せているのだった。
一度この秘法を受け入れてしまっても、カズシゲによって強制解除は可能である。そのかわり、解除された者は、逆流する魔力の影響によって若返ってしまい、二十四時間で死亡するという特殊な条件はあるものの、完全に魔力が枯渇しない限りはほぼ無限に生きられる身体となったカズシゲであった。
彼は、妻が自分と同じ身体を望んだことに驚いたが、彼女の決意は固く、二人はともにほぼ不死のからだとなって、今日まで星のために生きてきた。
やがて世界には安定した居住環境と、魔物をそこに寄せ付けないだけの戦力が配備された。
魔法技術の進歩も目覚ましく、魔力に頼った文明は隆盛を極めたかに見えた。
魔力による汚染問題が浮上し、世には魔王が出現した。さらに未曾有の大災害によってイスキリスどころか星そのものが壊滅的な打撃を受けた時は、さすがに神を呪いもした。五百年かけて、実子のごとく目をかけていたユージに秘法を授け、どうにか持ち直したと安堵したのも束の間、そのユージが魔物を率いて都市を襲い、王城には魔王が攻めてきた。
城内に設置されている映像転送装置―監視用の魔道具と同じ機構のものだが――から送られてくる映像を見ながら、カズシゲはため息をつき、わずかに口角を吊り上げた。
五百年前、ユージに老化遅延の秘法を授けたことで、彼の魔力は底をつきかけていたのだ。体性筋を収縮させるだけの魔力すら残っておらず、どうにか血液の循環や消化、呼吸、排泄に関わる――要するに生命活動を維持するのに必要と思われる組織の活動に魔力を回し、事の成り行きを見ていたわけだが、彼が久方ぶりに表情筋を動かしたのは王の行動を見たからである。
「あなた……?」
夫よりは余力のあるサエは、数年ぶりに表情が動いた夫を見て首を傾げた。同じ映像を見ていた彼女としては、とても笑える状況ではないと考えていたのだ。王は責務を放棄し、城など勝手に攻め落とせとでも言うように結界を消した。
高らかに笑いながら、重臣たちを置き去りにし、シェルターへと向かう王の映像を横目に見ながら、サエは一万年も連れ添った夫に、話しかけた。
[なぜ…笑っているのです?]
聴力と、声帯や舌に魔力を回す余裕はなかろうと、念話を用いて語りかけたサエであったが、カズシゲはそれに、意外とはっきりした発声をもって答えた。
「くく……。王が人に戻ったのだ。イスキリスは……終わりだな」
「私たちが守ってきたものを、簡単に諦めることなどできません」
達観したように言う夫に対し、妻は焦燥を露わにした表情だった。
「サエ……? よもや、抵抗しようなどと考えてはいないだろうな」
「私は最後まで戦います。これまでもそうやって、苦難を乗り越えてきたのです!」
「サエ……。どうか、思いとどまってくれぬか」
「なぜ!? このまま黙って見ていろと言うのですか!?」
「ワシは、この星に転生すると決めたとき、特殊な力を望んだ……」
サエの糾弾に対する答えにはなっていないが、何かを語ろうとする夫の言葉に、サエは口をつぐんだ。元よりサエがそういう性格だが、いつ死んでもおかしくない状態の夫の言葉を、感情に任せて遮るほどは、サエも取り乱していなかった。
「我ながら浅はかだったとしか言えぬがな……。ワシは、不老不死を望んだのじゃ。前世では好いた女を見ていることしかできず、想いを遂げられなかったワシは、今世で家庭を持てたなら、永久に寄り添えるようにとな……」
一万年以上も前、転生を決意したとき――すなわち前世に別れを告げるきっかけとなった事故などのことは、サエも昨日のことのように覚えていた。二人が一緒になる前に、実はサエだけは前世の話を語ったことがある。しかし、長い二人の生活の中で、カズシゲの前世の話は禁句であった。それは、唯一カズシゲが定めた夫婦の約束事であり、死の間際になって禁忌を破ろうとする夫の言に驚きながらも、サエは黙って聞くことに徹していた。
「ワシはな……姓を朝比奈という……。この姓に聞き覚えがあるだろう……?」
「まさか……そんな」
サエは、急速に口中が渇いていくのを自覚していた。朝比奈という姓は、サエにとって忌まわしい記憶を呼び覚ますものだった。
彼女は、前世でストーカー被害に遭っていた。ストーカーは姿こそ見せなかったものの、朝比奈という姓のみが記された手紙や、ひたすらに愛を告白する留守番電話のメッセージ、FAXの送付などの被害が続き、三回の引っ越しを経ても追跡されていた。
警察はしかし、直接接触することはなかった朝比奈には注意のみに止め、事件として取り扱ってくれなかった。サエはノイローゼになり、フラフラと街を歩くうち、居眠り運転のトラックに轢かれて死んだ。
「ワシが……朝比奈なんだ」
カズシゲが前世の話をしないのは、今世にすべてをかけると誓ったからだ。過去の人生は忘れ、星の未来のために生きようという決意の表れだと理解していたサエは、彼の告白によって受けた衝撃が大きすぎたのか、口元を結んだまま一言も発さなかった。視力に魔力を回す余裕がないカズシゲは、妻の――かつて歪んだ手法でしか思いを伝えられなかった女性の心理を読むことよりも、ただ胸の内を吐露することに全力を傾けた。
「転生した世界で、成長したサエに出会ったとき、ワシは歓喜した……。二人で人生を歩んでくれると言われたとき、そして、共に悠久の時を受け入れると言ってくれたとき……僕がどれほど嬉しかったか……同時に、どれほど恐ろしかったか」
「……」
サエは何も答えなかった。百世紀にわたって抱えてきた秘め事を告白するカズシゲは、口調が生前のものに戻っていることに気付いていただろうか。
「今まで騙していてすまなかった……。僕は……君を死に追いやった男だ。君にとっては、イスキリスを滅ぼす存在よりも憎むべき存在だろう。僕を差し出して、魔王と交渉するんだ」
「……」
サエは、無言で首を横に振った。カズシゲにはそれは見えていないはずだったが、心の機微は伝わったのだろう。彼は、少し焦って言った。
「確かに、奴は交渉になんか応じないかもな。ならこうしよう。僕はもうすぐ死ぬが、まだ少しだけ、僕の身体には魔力が残っているんだ。君には黙っていたけれど、老化遅延は僕だけが解除可能だ。そして解除すれば、二十四時間で死ぬ。逆に言えばそれだけは確実に生きられるんだ。君を逃がしたあと、僕は老化遅延を解除して時間を稼ぐよ」
かつて、サエをストーキングしていた頃のように、長年連れ添った妻をファーストネームで呼ぶこともなくなり、ひたすらに彼女の存命を願うカズシゲであった。
告白が終わり、あとはサエが生き残ることだけを考えていたカズシゲは、彼女がほとんど反応してくれず、かといって無駄に魔力を消費するわけにもいかず、徐々に命の灯が揺らいでいくことに焦燥を募らせていた。
「あなた……」
こうなったら最後の手段として、できるかどうかは別としても、サエを強制転移でもさせようかと思ったとき、サエがカズシゲを呼んだ。告白を始めた時点で、二度とそうは呼んでもらえまいと思っていた、一万年間呼ばれ続けた二人称で。
「私の、老化遅延を解いてください……」
サエが発した言葉の意味が分からず、カズシゲは返答できなかった。
「私は、朝比奈という人物に会ったことはありません。今、私とともに在るのは、一万年も連れ添った夫――あなただけです」
「サエ……」
サエの皺だらけの手が、カズシゲの布団をめくり、細く枯れた身体が、そっと彼の横に寄り添った。
サエの発言と行動に驚いたカズシゲが目を開けると、まず飛び込んできたのは、シェルターへ向かった王が中から原住民を解放し、転生者の騎士たちを城門へ向かわせている映像だった。どうやら、王であることはやめても、原住民を逃がす努力はしているようだった。
サエはその映像を見て頷くと、モニタへの魔力供給をカットした。
細い腕をカズシゲの身体にそっと這わせ、彼女は目を閉じた。
「私たちの役目は……とうの昔に終わっていたのかもしれませんね」
再びモニタに魔力が供給された。一つには城の後方から脱出する国民が映り、一つには城内で何人かの転生者と固まって隠れている重臣たちが、そしてもう一つのモニタには、騎士団を率いて魔王と対峙する王―サエとカズシゲの遠い子孫の姿が映されていた。
「二度目の生を得て……私はたくさんのことを学びました。私たちが誰かのためにと思って行ってきたことは、よい結果ばかりを残したわけではなかったし、あのような者――魔王が生まれて戦いを挑んでくるということは、もしかすると星にとっては、害悪に過ぎなかったのかもしれませんね……」
サエは、夫の腹のあたりに置いていた右手を上げて、彼の薄くなった白髪を撫でた。
「ですが、王に逃がされた民を見てください……? 皆が泣いてはいるけれど、あれは恐怖や、混乱によるものだけではありません。皆が、王への感謝を述べながら、無力であることを悔いているのです……。私たちが魔力をもって築いたイスキリス王朝は、今夜滅亡してしまうけれど、魔力を持たない彼らにも、私たちや、子供たちの遺志が受け継がれていきます。その果てに行きつく未来が、理想郷と呼べるものになると……いいですね……」
サエは、夫の胸に頭を預けた。
豊かな黒髪がそこに広がり、彼女は耳をすませてみた。
夫の鼓動が、聞こえることはなかった。




