3.ユージ・ハリマ 前編
俺の人生はどこでおかしくなった?
ユージ・ハリマは首を捻って考えた。
播磨佑二として、日本に暮らしていたときには大きな問題はなかった。中流家庭に育ち、中流大学を卒業後は食品加工会社の広報部に職を得た。佑二の学歴に対して、その会社は少々敷居が高かったのだが、学生時代、その会社が作る冷凍食品に大変お世話になりましたと面接でアピールし、「それ、七割の方が言うんですよ」面接官に言われたとき、
「それだけ、素晴らしい商品であるということでしょう? 私が御社の広報に就職すれば、来年は全員が同じことを言うようになりますよ」と、やけくそ半分で言ったことが決め手となり、佑二は順調に社会生活をスタートさせた。
しかし社会人三年目の夏、佑二はせっかく務めた会社を退職してしまう。医学を志す決意をしたのだ。きっかけは、両親の死であった。佑二は、もともと晩婚であった両親が四十二歳でようやく授かった男児であった。
佑二を育て上げた母は、もともと病気がちだったが、六十を過ぎて肺炎を患ったことがきっかけとなり、長く喘息様の症状に悩まされていた。その母が、風邪を拗らせ肺炎が再燃し、病院のベッドで息を引き取った。
母が死んだあと、父は物忘れが酷くなった。訪ねてきた若者が自分の息子だと分からなくなってから、ようやくそれが病であると気付いたが、時はすでに遅かったのだ。
介護を頼める親戚もおらず、佑二は実家に移り住んだ。福祉の手を借りつつ、どうにか父を支えていた佑二であった。ある日、夜中になってようやく眠った父に毛布を掛けてやり、佑二が湯船に浸かっていたところ、父の叫び声が聞こえた。
その頃の父は老人性鬱の症状が酷くなり、昼夜を問わずむせび泣き、暴れ回ることが多くなっていた。佑二はもちろん、風呂に入るときもドアを閉めることはない。わずかな音でも聞き逃すまいと、風呂に浸かっている時ですら気が抜けない生活が半年続き、佑二の精神的疲労は限界に近かった。
父の泣き叫ぶ声に耳を塞ぎ、湯船に顔を沈めた佑二だったが、すぐに風呂から上がった。
隠すものも隠さず脱衣所を飛び出し、父の部屋へ駆けつけた佑二が目にしたのは、炎であった。襖が、畳の一部が、カーテンが、布団が、父の部屋にある全てのものが、燃えていた。
その中心にうつ伏せに倒れていたのは、着衣に少々の乱れはあるものの、父に間違いなかった。助け出そうにも、火の回りが早いのか自分が遅かったのか、部屋に近づくこともできなかった。このままでは自分の命も危ない。
とにかく、消防と救急車を。そう佑二が思って踵を返したとき、佑二は確かに聞いた。
――逃げろ佑二。すまんかった。
振り返った佑二が父の姿を見ることはなかった。すでに父の部屋は炎に舐めつくされ、天井まで火が上がっていた。脱衣所で脱いだ服を抱え、携帯電話で消防を呼びながら、佑二は生家を脱出した。
警察と消防の調査が終わり、出火の原因は何者かが食用油を自室に撒いて、火を付けたことによると分かった。恐らくは、自殺だろうと告げられた。
人は、様々な原因で死ぬ。病気、事故、自殺、犯罪、天災。佑二は父の死後、死にゆく人を救う仕事に就きたいと思うようになった。
佑二は、両親の遺産を学費に充てて、医学部を卒業した。
研修医時代に出会った四つ年下の女性と婚約した。
二年にわたる研修医生活が終わり、修了証を受け取ったときの充実感を、今も彼は覚えている。
そして打ち上げの帰り、酔って駅のホームに転落した男性を助けようとした佑二は、特急列車に轢かれて第一の人生の幕を閉じた。
痛みを感じる暇もなく、真っ暗になった視界に唐突に現れたまばゆい光。光は言葉を発し、佑二の不遇の死を嘆き、第二の人生を歩む気はないかと提案した。佑二は、婚約者の元へ帰りたいと強く望んだが、光は瞬いて笑い、当時の彼女の映像を見せた。そこには、知らない部屋で、知っている男と痴態を繰り広げる女の姿があった。
マリッジブルーの解消法みたいなものだと言って、光はまた笑った。
佑二は、異世界への転生を決意した。
転生後、成長した彼は、光に与えられた魔力でもって、異世界の英雄となった。魔力を振るって魔物を狩る力だけでも、他の転生者たちとは比べ物にならないほど強かった。異世界での両親からもらった名は捨てて、彼はユージ・ハリマと名乗った。
ある日、ハリマは倒した魔物を解剖した。ただの興味本位であったが、魔物には二種類あることが分かった。単純に言えば、魔力に侵されているものと、そうでないもの。
魔力汚染の影響が、もっとも強く出るのは脳であるように思われた。ハリマが戦うとき、常に問答無用で襲い掛かってくるそれらには、知性というものを感じなかったが、魔力汚染を受けていないものは、話し合いに応じたり、種族意識をもって繁殖しているものも在った。事実、それらの脳の違いを見ると、魔力に汚染された魔物のそれには特徴的な斑紋が浮かんでいることが分かった。
ハリマは、魔物を操れないかと考えた。自ら手を汚し、傷を負いながら魔物を狩り殺す日々にも少々疲れていたことと、旅を続ける間に増えた、なぜか女性ばかりの仲間を気遣ってのことであった。
魔力を鎖のように成形し、それを魔物の頭部から脳へと侵入させた。日本で医学を学んでいたことが大いに役立った瞬間であった。脳地図を書き換え、彼の魔力によって操作する技術はすぐに完成された。ただし、その対象は魔力汚染された魔物だけであった。そうではない魔物は、鎖の魔力が脳に達した瞬間に死んでしまった。
その後のハリマの活躍を長く語る必要はない。魔物を操り、魔物同士を戦わせてその数を減らしていく彼の地位は不動のものとなり、ギルドからは特級認定を受け、百老と対等に語り合い、王都にあって王本人よりも人心を集めていた。
ここまでの佑二及びハリマの人生は、本人も認める通り、概ね順調であった。魔物を倒すのは『魔物使役』と名付けた魔力操作で王都周辺に配した魔物に任せ、ハリマは王都の会員制サロンで女と共にくつろぐ日々を送っていた。
そんなある日、田舎ギルドの若い長が遺したという『魔王出現に関する第一次報告書』が届けられた。神が創ったという魔物とは異なる生物が、次々転生者を殺して回っているという。それを受け、特級クラスの転生者はレザイアへ集合するように、王命まで下る始末であった。
付いて行くと言い張る女たちをなだめるため、決められた期日を大きく越えて王都に滞在していたハリマを、イスキリス大陸全土を襲ったのは未曾有の大災害であった。
大陸が三つに割れ、都市は壊滅した。地震による津波と降り注ぐ灰、窒素や亜硫酸ガスを多分に含む雨の影響で、イスキリスどころか星全体が生き物の住めない環境になりつつあった。
どうにか自分と女たち、周囲の住民を結界で守ることに成功したハリマは、王と共に空に浮かび上がったレザイアを目指した。
魔法都市にはすでに他の特級転生者や百老が集結しており、今後の対策を練っていた。政府の中心をレザイアに移し、『緊急対策本部』が設置されたことは、日本に暮らしていた転生者が多く在った証拠であろう。本来魔王対策を練る予定であったわけだが、高い実力を備えた転生者が、緊急時にこうして集結していたことは、僥倖であったと言えよう。
竜を狩る者と、南の獣王は現れなかったが、ハリマ達はそれを気遣うことはなかった。災害ぐらいで死ぬような実力では、特級認定などされないし、南の凶暴な獣人族の王になどなれないからであった。
そこでハリマは大災害の原因が、アマンティア大火山の噴火であると聞かされた。レザイア南部の村や町の住民からの聴取では、南に向かって飛ぶ白竜の群れを見たという証言が多く得られており、それと魔王を関連付けて考える者が少なからずいた。しかしそれを検証する時間はなかった。
アマンティアの噴火原因は結局のところわからないが、まずは星の環境汚染を食い止めることと、可能な限り人命を救うこと。この二つが最優先事項と定められた。
ハリマは魔物を操り、イスキリス全土を駆け巡った。どんな劣悪な環境であろうと、彼の操る魔物は痛みや恐怖を感じることなく、果敢に踏み込んでいった。孤立した原住民を救い、がれきに埋もれたものや地下に隠れて出られなくなったものを救った。
魔法都市の技術者たちは、空へ上がり、直接灰を除去する方法を研究していた。ここでもハリマの魔力操作が大きく寄与することとなった。彼は膨大な魔力以外に光の存在から与えられた力を持っていた。
それは、亜空間ポケットとハリマが名付けた、無制限に物体を収納できるというものであった。ハリマの魔力によってのみ、亜空間への扉を開くことができるそれをもってすれば、空を覆い尽くす灰を除去できるだろうと考えたハリマは、良心から、その能力を公開した。
確かに、成層圏近くまで上がって、亜空間ポケットを使えば灰の除去は為せる。さらにはレザイアの技術者の中に多く在る、『抽出』という魔法技術を習得した者たちと協力すれば、海洋に溶け込んだ毒素をも、抽出した傍からそこへ放り込んでしまえばよいという結論に達した対策本部は、すぐに行動を開始した。
これまで海洋を渡って他の大陸を目指したのは、百老の一部だけであり、その行方は知れない。現在死亡が確認されている九十六名を除いて、生存が確認されているのは王族の生き残りが二名と、ホケ教の開祖の三名であり、他大陸に渡ったとされる一名は行知れずとなっている。対策本部は、魔王誕生を知らせる緊急魔鳥は、彼のもつ魔力を追って飛んでいったのだから、少なくとも死んでいるということはあるまいという結論に落ち着いていた。ともかくこの場にいない者のことまで構っていられなかった彼らは、十年ほどかかってついに飛翔艇を開発した。
空に上がる前夜、百老の二人―イスキリスに統一王国を誕生させた転生者の夫婦―がハリマを自室に呼び寄せた。
「お前の亜空間ポケットという能力は実に素晴らしい。星を、イスキリスを救うため、その力を発揮してくれること、うれしく思う」
御簾の向こうに鎮座する老人は、一万年以上生きているという化け物なのだが、矍鑠とした口調で話していた。対するハリマは傷跡だらけの頬をポリポリと掻いて、ぞんざいな口調で返答した。
「気にすんなよ爺さん。このままじゃ俺の可愛い嫁さんたちが、元気な子を産めねえからな」
「……この星で、家族をもつか」
「ああ。俺は彼女たちを愛してる。転生者の中には日本に帰りたいなんていう奴もいるが、俺はまっぴらごめんだね。星の除染が済んだら、こっちで宜しくやっていくさ」
「……」
御簾の向こうに座る老人が沈黙し、身じろぎしたのを見て、ハリマは訝った。百老と会話をすることはときどきあったものの、このような沈黙を挟むことはなかった。お互い言いたいことだけ言って、解散するのが常だった。
「なんだよ爺さん……急に黙り込んじまって」
ハリマがわざとおどけた調子で言うと、老人は口を開いた。
「ハリマ。お前には、ワシの老化遅延を受けてもらう」
「ああ?なに言ってんだよ爺さん。俺は、それはやらねえと言っただろう」
百老たちはかつて、魔物が溢れかえった世界を救うため、自らの老化をひたすら遅くする秘法を編み出した。それによって長期にわたり戦い続けた彼らは、まさに生ける伝説としてこの世界に君臨していた。ホケ教の開祖だけは、あまりに長い生によって歪んだ精神をもつようになってしまったが、その力が強大に過ぎるため、ハリマであってもその行いを諌めるような真似はできないでいた。
あまりに長い生。
親しくしたものを看取り続ける生とは、どれほどの喜びと悲しみを積み重ねることになるのだろうか。ハリマには想像もつかなかった。御簾の向こうに坐する二人は、それを予見して夫婦で老化遅延を受けた。それは賢明な判断であったろう。愛する者と悠久の時を平和に過ごすなどと言えば、美談に聞こえるかもしれない。
しかし、即身仏もかくやと言わんばかりに乾き、細くなった肢体を隠すように衣を重ね、御簾の向こうから出てこようとしない老夫婦の気持ちを思うと、通常の寿命で生を終えられることは決して悪いことではないとハリマは考えていた。
「ハリマ……星の除染には、二百年はかかるのだ」
「!?」
「上空を覆う灰を除去するとはいえ、そこは雷雲が渦巻き、有毒なガスが充満する死の世界だ。いかなお前でも、結界で身を守りつつ、亜空間ポケットを開いたままで活動できる時間はそう長くあるまい?」
「……」
図星であった。ハリマは言い返すことができず、長きにわたってイスキリスを見てきた老人の言葉を待った。
「お前が空で作業を行っている間も、河川や海洋の汚染は進んでいく。空の除染が済んだら、お次はイスキリスの大地と周囲の海だ。まずは土地を浄化せねば、我らも原住民も暮らしていけぬからな。お前はこの星に、どれだけの海があるか知っているか?」
「……」
「ハリマよ。大きな力をもっていながら、力に溺れることなく、魔物を退治て民を救い、この星で愛を育もうとするお前を、ワシも可愛がってきた。できればこのようなことは言いたくないが、これは強制だ。断ると言うなら、実力をもって――」
「いいよ。爺さん」御簾の向こうで立ち上がろうとする老人の言葉を遮ったハリマは、御簾の前まで進み出て、膝をついた。「あんたらが頑張って守ってきた星だ。百年だか二百年だか知らねえが、俺がきれいにしてやるからよ。女どもは…きっと分かってくれるさ」
「ハリマ……ありがとう……」
「いいってことよ。爺さん」
世話係の男が御簾を上げた。
差し出された夫婦の手を恭しく取り、ハリマは頭を垂れた。
五百年が経過し、星の浄化を終えて再び平和な暮らしが戻ってきたイスキリスでは、レザイアを新たな王都とし、ハリマは大海溝から時々現れる魔物を狩って暮らしていた。
ハリマは、突然現れた猫耳の魔物に気絶攫われて以降の記憶が曖昧だった。
攫われた後、猫耳の幻術や魔王の脅しに屈した振りをして、エオジットの侵攻を未然に防ぎ、魔王すらも倒したハリマは、魔王の配下であった猫耳を捕虜とし、新たに配下に加えた魔物を従えレザイアに凱旋してきた。
そこで彼が目にしたのは、恐ろしい白竜によって占拠された都市であった。




