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6.獣王レオン 前編

 獣王。


 イスキリス大陸南方に広がる密林の最奥に居を構え、獣人族を名乗る彼らの頂点に立つ男が、そう呼ばれている。


 獣王の名はレオン。


 人間であった頃の名は南道怜音。


 彼にしてみれば、怜音という名で過ごした人生は、在りし日に戻れるものなら戻りたいと思えるようなものではなかった。


 南道の家は貧しかった。


 日本という国において、貧困にあえぐ家庭がどれほどあるか、正確に把握している人物は少なく、それに手を差し伸べるべく活動している人はさらに少ない。そして、それが実を結ぶ例ともなれば、一般家庭に暮らす人々が能動的に探さなければ、目にする機会はほとんどないだろう。全てがそうだとは言わないが、メディアで放送可能なものは、彼らの中でも『恵まれている』環境にあるのだ。


 もちろん、そういった家庭の総計には、自業自得としかいえないような状況に暮らすものや、そもそも現状を打破しようとする意志がないものも含まれてはいるが、家庭の経済を担うのは親であって、子に罪はないし、同じ人間である以上は切って捨てる訳にもいかない。


 大多数の人は、そういった社会の影の部分からはできるだけ目を逸らし、税金は払っているのだから国がなんとかしろと、我が身と少ない家族を守るので手一杯であることを内外にアピールしながら、人間らしい部分に蓋をして暮らしていくのだ。


 それでいいと怜音は思っていた。手を差し伸べてくれないならば、無視してくれと。


 怜音の家には父親がいなかった。


 生物学的な父親は、母親が怜音を身ごもったことを知ると、姿を消した。日本において姿を消すなど、常識的には不可能だ。各種の書類や保険証などを偽造して、他人に成りすますことはもちろん可能なのだろう。しかしそれは当然犯罪行為であって、引っ越しや病院にかかる際など、のちに発覚する可能性が充分にある。一生そのリスクを負う覚悟で『蒸発する』という決断に至ったとしても、探す側にある程度の金と根気があって、かつ国内にいれば探し出されてしまう確率は低くない。


 しかし、怜音の母親には金も根気もなかった。


 母親は、父親が暮らしていたアパートに住み、アルバイトをしながら結婚を夢見ていた。父親もアルバイトをしながら、音楽で身を立てる夢を追い続けていた。

音楽家(ミュージシャン)。そう自称する人は数あれども、有名レコード会社と契約を果たし、武道館で演奏することが叶う人間は一握りだろう。夢を持つことは大事だが、それを叶えるには努力と才能、出会いも含めて運が必要だ。そして何よりも、夢のために何かを捨てる強さ。


 父親はこれらのうち、捨てる強さだけは持っていた。


 妊娠を機に、いよいよ結婚を強く意識した態度を取る母親を、あっさりと父親は捨てた。後に母親は怜音に対し「あの頃お母さんがしつこくし過ぎたから、お父さん嫌になっちゃったのよ」と語り、死の間際まで「ごめんね」と繰り返していた。胃と肝臓と肺を病んだ彼女が死の床で、うわ言のように繰り返していた謝罪の言葉は、怜音に対してだったのか、生きているかもわからない父親に対してだったのか。


 そもそも病を得る原因となったのは、好きでもない酒を供する仕事を選んだことだった。母親がその仕事を選んだのは、日中我が子の面倒を見ることができ、かつ高収入であったからだ。それでも、南道家の家計は苦しかった。出費のほとんどは、父親が唯一残した借金であったことを知ったときから、怜音が父親対して抱く感情は憎悪のみとなった。


 母親が深夜に帰宅する際、スチールの外階段をピンヒールで登る音が響くと苦情が出たため、彼女はどんな悪天候だろうと、階段下でヒールを脱いだ。

怜音が小学校三年のとき、遠足のおやつを少なめにすることで貯めた三百円と少しを握りしめ、百円ショップで購入したのは大人用の長靴であった。


 油性マジックで『お母さん』と大きく書いて、「お母さん、これで足寒くない?」と母親の顔を覗き込んだ我が子をきつく抱いて、母親は泣いた。


 生きていれば、父親はどこかで夢を掴んだのだろうか。かつて母と自分を捨てた悲哀を詠っているのだろうかと考えると、怜音の背筋には怖気が走った。ラジオから流れて来る男性シンガーの歌声が、愛を語ろうと、友情の詩を詠っていようと、まったく共感できなかった。


 母親から胃に悪性腫瘍ができたと聞かされたのは、怜音が高校を卒業した三月であった。すでに手術は不可能なほどに進行しており、肝臓と肺に転移も見つかっているという。


 怜音は母親の病について調べた。化学療法と放射線治療を受けるため、入院が必要であると強く訴えた。しかし母親は、通院治療を続けると言って譲らなかった。一人で病院に行き、何の治療を受けているのかも教えてもらえない日々が続き、怜音はある日、密かに母の跡をつけた。


 母親は、病院には行っていなかった。


 怜音が見たのは、知らない男性と待ち合わせ、ホテルに消えていく母親の姿だった。


 二時間ほどでホテルから出て来た二人は別れ、母親は家路についた。

 少し離れて、怜音は母親の動向を見ていた。母親はデパートに寄り、紳士服売り場へと向かった。何がしかの商品を購入し、伝票に何かを記入していた。


 怜音は、母親の意味不明の行動を見て困惑していた。デパートで男性の洋服を買うような経済的余裕は、母親が働けなくなった南道家にはない。今もどうにか生活できているのは、生活保護のおかげであって、父親の借金返済も終わっていない。

ここで怜音は、定期的に催促にやって来る田上という男が、「あんたなら、今でも十分客が取れるぜ……?」と下卑た視線を送っていたことを思い出した。


 先ほど母親とホテルに入って行った男が客か、と怜音は思った。怜音の中に母親を蔑むような気持ちが生まれた。しかし同時に、そこまでして購入したかった品物は何だろうかと訝った。


 そっと母親の背後から近づき、その手元を覗き込んだ怜音が見たのは、送り先の枠内に自宅の住所と怜音の名前が書き込まれた伝票であった。品物はリクルートスーツとなっていた。


 母親が怜音に気付き、あら、と言った。怜音は何も言えず、デパートを飛び出した。一瞬でも母親を蔑んだ自分を恥じた。彼女が病身を顧みず、昼間に男の相手をしてまで購入したのは、怜音が着るためのスーツであった。


 自宅に戻った怜音は、気持ちを落ち着けて母親の帰りを待った。後を付けたことを素直に詫び、身を売るような真似は止めるように説得するつもりだった。高卒でも就職先はあるし、まずは病気の治療に専念するよう、改めて話し合おうと考えていた。


 しかし、自宅に母親が戻ってくることはなかった。固定電話を置いていない南道家に、区役所の職員が現れたのは、夕方五時だった。


 生活保護科の職員から告げられたのは、デパートで母親が倒れ、救急病院に搬送されたこと。一命はとりとめたものの、しばらく退院は難しい状況にあることであった。生活保護受給中であることから、担当職員が怜音に連絡するために寄越されたのだ。


 怜音はすぐさま、教えられた病院へ向かおうとしたが、担当職員の男性がそれを押し止め、黙って札を数枚渡した。


「タクシーを使いなさい。それに、見舞いに行くなら花ぐらい買わないと」


 不思議そうな顔をする怜音に、職員が言った。


 怜音が受け取れないと言う前に、職員は南道家を辞した。


 アパートに面した道路には、すでにタクシーが待っていた。怜音は、職員が自転車で去って行った方に向かって深く頭を下げ、タクシーに乗り込んだ。


 母親寝かされたベッドの周囲には、いくつかの機械が設置されていた。担当医師が、母親の病状と、それぞれの機械の役割について説明したが、怜音はほとんど聞いていなかった。母親の病気についてそれなりに調べていた彼にとっては、原発腫瘍部からの出血、止血困難、転移病巣の拡大などの単語から、母親の命がそう長くはないと悟ることができた。


 自力で呼吸することすらままならない母親の肺に、頸部を切開して挿入されたチューブを通じて、定期的に空気を送り込む機会の音と、心臓の拍動に合わせた電子音が病室に響いていた。


 左の手首に繋がっているチューブの先には、輸血パックが吊るされていた。


 口中に挿入された細いチューブの中は真っ赤に染まり、今も彼女の胃の中が血で満たされていることを示していた。


 怜音は母親の側に近づき、その口が弱々しく動いているのを見た。声こそ出せないものの、その動きから、彼女が「ごめんね」と繰り返しているのが分かった。

 



 母親の胸が、機械によって生み出される、規則的な上下動をしなくなるのに、時間はかからなかった。


 怜音は母親の死後、その両親に引き取られることとなったが、それを頑なに拒否した。苦境を知りながら、一切手を差し伸べようとしなかった親族など、そのまま無視していればよかったのだ。


 怜音は、法的に仕方なくといった表情を隠しもしないで現れた老人の世話になる気など、さらさらなかった。


 どうにかアパートの家賃を払うため、アルバイトに勤しんでいた怜音が深夜に帰宅すると、玄関に見覚えのないボロボロのスニーカーが脱ぎ捨てられ、部屋の中に見知らぬ男性が座っており、ぼさぼさの黒髪の隙間から覗く濁った眼が怜音を捉えると、「よお」と片手を上げて、緊張感のかけらも感じさせない挨拶をした。


「誰だ!」怜音は部屋のドアを閉めないままで、侵入者に向かって怒鳴った。「俺の部屋で、何を!?」と声が震えるのを押さえつけて言った。


「不用心だよなあ……十八年間、カギ変えてねえなんてよお」男はそう言って、上げていた手を左右に振った、そこには、見覚えのある鍵が揺れていた。


 それは、アパートの鍵であった。


「なんで――」

 男の言う通り、南道家はカギの付け替えなどしたことがない。母親が父親と住んでいた当時の鍵が、そのまま使われている。それを持っているこの男は――。


「初めましてぇ、だよな。俺が、お前の親父だ――と思うんだが……違うかな?」


 怜音は目の前が真っ暗になった。自分が生まれる前に母親を捨てた、音楽家(ミュージシャン)志望の男。母親が死の床に在っても、謝り続けた原因を作った男。その男が今、目の前でへらへらと笑っていた。間違いない。そのにやついた口から覗く特徴的な八重歯は、怜音にも生えていた。生前母親が「お父さんにそっくりだねえ」と目を細めていたものだ。


「お前……今頃……何しに」


怜音は突然の来訪者の正体が父親であると認識して、様々な思いが湧き上がってくるのを止められなかった。そのすべてが憎悪に彩られてはいたが。


「いや、子供にはちょっとな……母さん、いるか?」


 男が言い終わったと同時に、怜音は後ろ手にドアを閉め、施錠した。


 どうやら男は、母親が死んだことを知り、息子を引き取ろうと現れたわけでも、一言謝りに来たわけでも、母親を供養に訪れたわけでもないようだった。


 大方、夢破れ、昔の女のところに甘えに来たのだろうと怜音は考えた。この男はクズだ。


 怜音はそのまま無言で台所に向かった。


「なあ、母さんは――?」


 背中にかかる男の声に、怜音は無言で振り返った。その手には、錆の浮き始めた包丁が握られていた。




 玄関ドアが激しく叩かれる音で、怜音は気がついた。


 窓から入っていた西日はいつの間にか消え去り、夜になっていた。


 ドアの向こうからは、早くここを開けろと男性の声が喚いていた。


 怜音は畳に尻をついて、ドアとは反対側の壁に寄りかかっていた。


 その足元には、先ほどの男がうつ伏せに倒れていた。腹の下の畳にはどす黒いシミが広がっており、背中に包丁が突き立っている。怜音が頭を蹴ってもピクリとも動かなかった。


 怜音は四つん這いになって男に近づき、包丁を引き抜いた。ドロリとした血が付着しているのを不快に感じ、着ていたTシャツで拭ってみたが、そのTシャツ自体が血に塗れていたため、乾燥した血液が刃にこびりつき、余計に汚くなってしまった。


 怜音はそのとき、アパートの外階段を何者かが駆けあがって来る音を聞いた。直後にドアの鍵穴がガチャガチャと鳴りはじめた。どうやら大家が合いかぎをもってきたらしいと当たりを付けた。


 怜音は、いつも母親が寝ていた四畳半に移動した。そこには整理された遺品が入った段ボール箱がぽつんと置かれていた。彼は箱の中から、一足の長靴を取りだした。


 そしてそれを胸に抱いて、跪いた。


 ドアが開けられ、悲鳴と、誰かが部屋に侵入してくる足音が響いた。

 怜音は、ぬめる刃を自らの喉元に当て、倒れ込むようにして、突き刺した。




 獣王レオンは、ふと足を止めた。従者として付いてきた獣人族の女も立ち止まり、空を見上げて唸り声を上げている。


「ドラゴン……? あんなにたくさん」


 視線の先には、はるか上空を高速で移動していく白竜の群れがあった。そして、彼女のずば抜けた視力は、その中の一頭に乗る白髪の男を捉えていた。


「魔王、見つけた」


「そうだな」


 魔王を視界に捉えていたのは、獣王も同じであった。彼は鼻をフンと鳴らすと、白竜の群れが飛び去った方向に進路を変えた。


「レオンは、ギルド、呼ばれている」


 それを見た獣人族の女が、たしなめるような口調で言ったが、獣王は口角を吊り上げて、ナイフのような犬歯をむき出しにして言い返した。


「要は、魔王をぶっ殺せばそれでいいんだろ?」


「たぶん」


「なら、とっとと追うぞ!!」


 獣王は言うが早いか、白竜が飛び去った方へ向かって走り出した。その後を、女も追う。二匹の獣が向かう方角には、アマンティア大火山がそびえ立っていた。




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