004
ひどい臭いがしていた。
それは不衛生な環境だけが原因ではない。今、目の前にいるネクロイドたちの皮膚と内臓から洩れ出るものだ。
ナナイは鼻粘膜を刺す刺激に眉を寄せながら、腐りかけた体に九mmパラベラムの弾丸を撃ち込んでいく。
襤褸の服が破れ、青白い皮膚が弾け、真鍮製の弾が筋肉に食い込む。
だが彼らが痛みに呻くことは一切なかった。声を漏らすことすらしない。ただ白濁した眼球で標的を捉え、その首目掛けて腕を振り上げる。
左、右と両腕が規則的に薙がれる。鋭く尖った爪が、ナイフのような獰猛さでナナイを狙う。時に関節が本来の法則を無視して曲がり、追撃してくる。
鼓膜を揺さ振る鋭い風切り音と共に、薄汚れたコンクリートの壁や捨て去られていたガラクタが破壊された。それは素手でありながらも、人の命を奪うには十分過ぎることを言外に知らしめていた。
空中に何かが舞う。
それは剥がれた爪だった。罅割れた爪から、ネクロイドの指先へと視線を移す。血の気を失った肉が裂けて潰れ、骨が砕けていた。
しかし、それでも連中は動きを止めず、執拗なほどに攻めてくる。絶えることなく苛烈な攻撃がナナイを襲う。
ナイフを取り出し、腕を切り落とす。膝を蹴り飛ばし、膝蓋骨を粉砕する。
それでもなお、怯みはしない。それどころか露出した断面図で殴りかかってくる。ぶら下がった状態の膝下を自分でもぎ取り、鈍器代わりに使う。
片手片足だけの状態になっても、敵は全く怯まなかった。
死体だからだ。
コンピュータウイルスに肉体を乗っ取られ、操られるだけの存在に成り果てた人形だからだ。
そこに意思はなく、もう既に命などない。だから四肢が悲鳴を上げようと、血肉が引き裂けて臓物をブチ撒けようと、動きを止めることはない。
己を失い、傀儡と成り果てた死者なのだから。
「うざったい……っ」
唇から悪態が零れ出る。
顎を狙い放たれた、突き上げるような一撃。それを避けて、ピンと張った腕を掴んで引っ張る。次に刈るように足払いを掛け、前のめりに転倒させる。
露になった、無防備の首筋。そこに左手を伸ばし、外部の機器に接続するために取り付けられた、うなじ部分にあるアダプタに触れる。
触れると同時にクラッキング・ツール、『ブラックハット』を作動。
グローブが媒介となり、死体の電脳とナナイのシプナスが繋げられる。脳裏に浮かぶのは広大なネットワークの海。呑み込まれないように情報を掻き分け、奥へと侵入していく。下へ、奥へ、アンダーグラウンドに向かって。
ほどなくして見えるのは、靄を纏った穢れたキューブ状のデータの塊。あちこちから火花が飛び散り、呪いを電子に乗せて撒き散らす。
これが死体を動かす元凶……ネクロ・ウイルスだ。
ゆっくりと周囲の回線を抹消し、逃げ場を奪う。これでネットワークへ逃亡し、他の死体に感染するという事態を防ぐことが出来る。
――――潰れろ。
ナナイは開いていた左手を、握り潰すように閉ざす。ツールウェアがウイルスと周囲の回線ごと、データを焼いた。
燃え尽きたキューブが砕け、燃え滓がパラパラと下層へ落ちて行く。
どこまでも長く感じられた、時間。けれど、現実世界では三秒にも満たない間のことだった。
「GUOOOOOOOOOOOOOONNNNN……!!」
ネクロイドの口が大きく開き、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げる。咆哮に近い絶叫は甲高く、ビリビリと鼓膜を揺さ振る。
だがそれもほんの束の間。すぐに絶叫は止み、全身の機能を停止した。本体をデリートしたことで、物言わぬ死体になった……いや、戻ったのだ。
「まずは一体」
宣言しながら、頭部を狙った踵落としを防ぐ。
遠ざかろうとする足を捕らえ、傍の配水管を支点にして、梃子の原理で骨を圧し折る。グラリとバランスを崩したところで背後に回り、先ほど同様に汚染された電脳を破壊する。
「二体」
残りの敵の方へ向こうとした時、吠えるような叫び声。
立て続けに倒したことで警戒レベルが上がったのか、二体のネクロイドがナナイへと飛び掛った。
研ぎ澄まされた爪、むき出しになった牙で襲い掛かって来る。音速に届きそうなほどの素早さと、獣じみた身のこなし。避けるのも防ぐのも困難だった。
まぁ、一人だった場合での話だが。
「防衛プログラム始動」
後方で、鈴を鳴らすような音が耳を打つ。
「ファイアウォール発動、プロトコル階層へRAN――――物理レイヤー防護壁を形成します」
ほっそりとした指先がピアノを演奏するように、キーボードの鍵盤を弾く。少女の唇から紡がれる言葉は、まるで御伽噺に出てくる魔法使いの呪文だ。
実際、淡い光が魔法のように地面から湧き上がった。
柔らかな光は、ナナイの目の前で防壁に姿を変える。実体化した情報で形成された壁は攻撃を防ぎ、襲い掛かってきた彼らの体を吹き飛ばす。
少女はキーで再び律動を刻み、リズミカルに音を奏でる。
「続いて、エネミー装甲低下プログラム、殺傷力低下プログラムを作動」
次に出現したのは禍々しい霧。今度がネクロイドたちの体に纏わりつき、彼らの力を奪い取っていく。
弱体化したネクロイドに、今度は白と黒の猫アバターが飛び掛る。奴らは接近戦に秀でているようだったが、それに関してはこの二匹も同じだ。しかもこの状況で有利なのは猫たちの方。すぐにどんどん押されていく。
そうしてネクロイドたちの注意が白にゃんたちへと向いている間に、シャルルはハッキングを開始する。
その間に、ナナイは脳髄を奪われて死んだネクロイドと相対する。真鍮製のパラベラム弾が眼窩に突き刺さり、眼球を破壊。空になった弾倉を捨て、新しいものを装填する。
視覚を失い悶えている間に接近。頭部に上段回し蹴り、下顎に肘鉄、後方に回って向こう脛に蹴りを入れる。衝撃に耐えられず膝から崩れ落ちたところで頸部に左手を当てる。
「ハック完了、汚染データを確認。ただちにクラッキングを開始します」
シャルルの方もハッキングを終えたのか、クラック作業に入り出す。足元から伸びる電子光がネクロイドを捉える。
絶叫が甲高く、虚空へと木霊していく。
その場に残ったのは、五体の無残な亡骸。サイバーゾンビになって以降、体を酷使させられたのか。戦いを終えて改めて確認した彼らは、生前の姿からは想像も出来ない程に変わり果てていた。
「ちょっと、すみませんね」
シャルルは一言そう告げてから死体たちの電脳にアクセスし、記憶情報を調べていく。ナナイが使用するツールでは破壊しか出来ないが、彼女ならば残った電脳から情報を収集することが出来るのだ。
「何か分かった?」
「この四人は、そこの脳を食べられたネクロイドに襲われてゾンビ化したみたいです。あとその人は……」
透き通った碧色の目が、頭部に穴の開いた死者へと視線を落とす。
「多分感染源だと思う人に生きたまま頭部を粉砕されて、脳を食べられながらクラッキングを受けたようでした」
「器用な奴だね。ハンマーやドリルで脳を傷つけずに穴を開けるとか……」
「いえ、素手みたいです」
「……素手?」
驚いて、問い返す。
一瞬聞き間違いかと思ったが、シャルルは「素手です」と頷いた。
「一体どんなゴリラだよ。それかサイボーグか?」
「食事するから違いますよ。見た目も……暗がりのことだから分かりにくいですが、線の細い女性みたいでした。実際に女性なのかは分かりませんけど」
「痩せ身のメスゴリラか。マジで会いたくねぇ」
顔を顰めながら吐き捨てるように呟く。生身で頭蓋骨を粉砕して脳を食べる女なんて、悪夢以外の何者でもない。
「でも会わないと駄目ですよ。その人をどうにかしないと、依頼達成になりませんから」
「分かってるよ。けどそれだけだと誰なのか分からないね……他のネクロイドも倒していかないと」
「ええ。次の場所に行きましょう」
二人は一端バイクを置いた場所へ戻り、別区域へと向かった。
◇◇◇
黒髪の少女の姿があると、思わずまじまじと見つめてしまう。
それは別段、やましい理由があってものではないと思う。レダルテ自身でも完全に言い切ることは出来ないが、艶やかなブルーブラックの髪に淡い期待を抱いてしまうのだ。
そんなことが度々あった。
でも結局のところ、いつも出会うのは別人ばかりで。「もしかして」と抱いた期待は、「何だ、違うのか」と落胆に変わる。
だけど、昨夜に出会った少女。
依頼を受けて自分を助けに来た彼女。
「すごい……似てたんだけどなぁ」
零れ落ちた呟きは、機械修理中の作業室の中で容易く掻き消される。それだけ小さな独り言だった。
だけど、隣にいた彼には聞こえてしまったらしい。
「もしかして、また『約束の子』探しか?」
獲物を見つけた猫みたいな悪戯っぽい笑みを浮かべ、ジャンはレダルテの脇腹を軽く小突いた。
ジャンはこの研究所のメカニックで、レダルテの先輩に当たる。しかし屈託のない気さくな性格から、先輩後輩というより友人という間柄になっていた。
「にしてもお前も諦めないよな。十年くらいだっけか? 一目惚れした子を探しまわるなんて、一途だなぁ~」
「そ、そんなんじゃないよ!」
慌てて否定するも、彼はニヤニヤと笑う。面白がっている時の顔だ。今回もこのネタでいじくろうとしている。確実に。
「いやいや。もう全然会わないような子を諦めないとか、もう恋としか言いようがないだろ? ライクじゃなくてラブだろ? 認めろって、いーかげん」
「ジャン、作業しよう! そんな無駄話する暇はないって!!」
「んで、そのすごい似てた子ってどんなだったんだ?」
「あ……えっと、顔はすごいそっくりだったんだよ」
手を休めずロボットのメンテナンスをしながら尋ねられ、レダルテも同じく備品を組み立てながら答える。はぐらかすなりすれば良いと自分でも思うのに、性分柄なのかついつい律儀に返答してしまう。
「青みがかった黒髪でさ、目も薄青くて、ちょっと吊りあがってた。東方系の顔立ちで、肌は白くてきめ細かかったかな」
「成る程。お前の好みド真ん中か」
「だから違うって! ……それに彼女、性格がオルティとは全然違ったし」
声を少し荒げた後、そう付け加える。
ナナイという少女は、有体に言えば男勝りな女の子だった。数人の男相手でも怯まない度胸、冷静沈着に相手を殲滅する戦闘技術、そして男性的な口調と素っ気無い言動。見た目以外の全てが、あの子とは真逆だった。
レダルテの知っているオルティは、元気だったが女の子らしかったし、どちらかと言えば守りたくなるような子だ。間違っても男顔負けな少女ではない。
それに彼女は、レダルテのことを知らなさそうだった。たぶんあの時が、初のご対面だ。出会いではあるが再会ではないだろう。
「それに今は、そんな浮ついたこと考えてる場合じゃないよ」
「あぁ、ネクロイドな……」
ジャンは唸るように言い、癖のついた髪の毛先を指で弄くる。
現在のギンシュは、事件のせいでピリピリしている。特に科学者は普段以上に神経質になっているので、研究所の空気も重くドンヨリして、息苦しい。
一体いつまで、この気まずい状況が続くのだろうか。
「レダルテ、お前気ぃつけろよ? 前みたく一人でフラフラ散歩すんなよ? 今回の誘拐はまぁ何とかなったみたいだが、今度はそうはいかないだろうし」
「分かってるさ。……足にナイフとか仕込んだ方がいいかな?」
レダルテは己の両足へと視線を落とす。
ツナギのズボンで見えないが、膝から下は義肢になっている。十年前の一件で脛から足が使い物にならなくなったため、サイバーレッグに取り替えたのだ。生身よりは頑丈だが一般用なので、攻撃にはあまり使えないけれど。
「でも義肢に武器を仕込むのは、規制に引っ掛かるかな。どうしようか」
「普通に護衛を付けとけ。……それか、この国を出てユグドラシル行っとけ。お前、『あの』エコー様に気にいられてるんだろ?」
そのことを言われ、グッと言葉を詰まらせる。
確かにそのようだった。ユグドラシルの『心臓』と言われている彼女は、レダルテを気に入ったのか、上層部に自分を引き抜こうと交渉しているらしい。たまに所長からユグドラシルに留学する気はないか、などと尋ねられることもある。
それに誘拐に助けられた時、ナナイはユグドラシルから依頼されたと言っていた。その依頼した上層部というのは、多分エコー様だ。
「確かに良いかもしれない、けど……どうしてそんなこと、急に言い出したんだい?」
「だって、あの国は安全だろ。少なくとも、今のギンシュよりは」
ジャンは流し目でレダルテを見ながら、答える。
「お前は危なっかしいとこあるからな。一人で外を出歩いたりして、襲われたらひとたまりもないだろ。それよりは留学なりして他国に行った方が、命の危険はないだろ?」
そう語る彼の眼には、心配の色が窺えた。
「……ありがとう、でも大丈夫だよ。あと、ジャンこそ気をつけなよ。君だって、メカニックとして凄いんだから狙われるかもしれない」
「言われるまでもねぇよ! 俺がリカを置いて死ぬかっつーの!!」
一転して陽気に言い放つと、ジャンは首に下げていたアンティークなロケットペンダントに何度もキスする。レダルテはそんな友人に苦笑を禁じえない。
リカことエーリカは、半年前にジャンと婚約した恋人の名前だ。国外からの流民である彼女は衰弱しきった状態で行き倒れ、偶然出くわしたジャンが介抱したのが事の始まりである。
居場所のない、衰弱しきった彼女を自宅で介抱し、そのまま二人は同居することになった。その出会いから次第に二人の間に愛が芽生え、交際からトントン拍子で婚約にまで発展した。同居から同棲になった二人は、今では外でも家でもイチャついて周囲にバカップルぶりを見せ付けている。
特にジャンのエーリカへの愛は凄まじい。一日一回は必ず同僚達にノロケ話をして、婚約者どころか彼女もいないのが大半の彼らを「爆発しろ!」と叫ばせているのが、日常になっていた。たまに先輩方に追い掛け回されたりしているが、それでもエーリカ馬鹿ぶりを改める気配はない。
「こら! 静かにしないか!!」
研究チームのリーダーが、暴走し出したジャンを叱責する。そこでようやく彼は普段の状況に戻り、作業を続ける……が、顔はデレデレとしていた。まだ頭の中はエーリカで一杯のようだ。
そんな友人の幸せな様子を何となく見つめたあと、レダルテは部品を組み上げロボットのパーツを組み立てる。出来上がったそれをロボットの壊れたパーツと入れ替え、不備がないかテストする。問題なさそうだった。
そういえば今何時だろうか。レダルテは補助電脳で時間を確認する。合成音が午後六時半をたった今、過ぎたところだと教えてくれる。
窓から見える空は夕暮れだった。高々と上がっていた太陽が沈み、茜色の空に漆黒が織り込まれていくところだ。星が煌き出すのも時間の問題だ。
もう研究所が締まる時間だった。研究員、技術者たちは今行っている作業だけを終わらせ、作業室を出て行く。レダルテもそれに続き、更衣室へ向かう。
白衣とツナギを脱いで、ロッカーにしまう。次にロッカーからズボンとシャツを取り出し、紐状のネクタイを締める。ベストを着てジャケットを羽織り、荷物を片手に研究室を出る。
研究所の外では、養父からの使いが車を停車させて待っていた。後ろの席に乗り込み、車が家へと向けて走る。
使いとレダルテの間に会話はなく、車内は静寂に包まれていた。
スパニッシュ家の養子となった自分の価値は、エンジニアとしての技術くらいしかないだろう。元々その技術力が欲しくて縁組の申し込みが来ただけで、レダルテも住む場所や研究に困らないだけの資金が欲しくて養子になった。期待通りの成果は出す予定だが、それ以外で関わり合うつもりは毛ほどもない。
我ながらお寒い家族関係だとは思うが、どうでもいい。スパニッシュ家の人間は書類上のものでしかない。レダルテの家族はもういない。皆消えた。
向こうもレダルテを息子と認めてはいなかったし、レダルテ自身も赤の他人を血縁と認めるつもりはなかった。互いに考えは一致しているのだから、問題ないだろう。
それにしても最近、扱いが前よりも良くなっている。……多分、レダルテがユグドラシルから目をかけてもらっていることを、誰かから聞いたんだろう。相変わらず地位だの権力だのに貪欲な家だ。かつては名のある名家だったらしいが……今はその面影なんてない。家名だけ立派で、中身は無能ばかりだ。
だから、レダルテを養子に取ったのだろうけど。
「はぁ……」
ため息を吐きながら、窓の外を眺める。
高速道路から見下ろす街並は絶景で圧倒的だ。けど、間近で見る場合は屑鉄揃いかもしれない。
それは国に対してもいえる。土地が枯れた、魔術の素質を持つものが少ないこのグラナードには、科学技術を発展させていくしか選択がなかった。そうすることで力を身につけ、現在に至った。
その成果を得るまでの過程で、支払った代償は数知れない。
この国は塔だ。あらゆるガラクタ、ゴミ、亡骸、誰かの人生。それらを礎にし、下積みにし、下敷きにしてそびえ立った。
犠牲の元に成り立つ。それが当然なのかもしれないけど、受け入れやすいとはいえない腐った面を持つ国だ。
そんな国でも――――レダルテには、大切だと思うものがある。
それを失うまでは。あるいはもっと大事なものを別のところで得るまでは。
この家に、この街に、この国に、居ようと思った。
そんなレダルテの脳裏に、黒髪の女の子の姿がぼんやりと浮かび上がった。