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ジーニアス・ホルダー  作者: 野水瑞乃
6/8

四章 そして生まれる焔

          1


「リナリア、エレク、行くぞッ!」

「ひゃッ、わッ!? いきなり何ですかッ!」

 フレイティアはリナリアを抱きかかえ、本舎三階のマルセルの研究室の壁にできた大きな穴から勢いよく飛び出す。

「誰に向かって命令しているッ!」

 しかし、エレクの口調にはほんの数時間前に含まれていた嫌悪感などは存在せず、ともに戦う戦友に向ける冗談交じりの激励を感じさせられた。

「ったくよぉ。勝手に突っ走るなガキども!」

 アイシャが三人に続き、その後ルーシーも飛び出す。

 フレイティアは着地すると、そっとリナリアを下ろし、目の前に立ちふさがる明確な敵に対して怒りの炎を燃やした。

「てめぇだったんだな、マルセル‥‥‥なぜだッ! 何でてめぇがこんなことしてんだッ!」

 今まで沈黙を貫いてきた『ヘルメットの人物』は、ようやくその堅い口を開く。

「簡単なことだフレイティア。お前が悪いのだ。お前の存在が僕の全てを狂わせた。だから僕は、お前を殺すことで狂ってしまった歯車を正す」

「ああん? てめぇ何を言ってんだ。俺がいつ、何をしたッ!?」

 フレイティアはマルセルの言う言葉が理解できない。自分はマルセルに恨みを買うようなことは何もしていない。今まで散々、恨みを買うような行為を犯してきたが、そもそも彼とはレイアクール支部で初めて会ったのだ。思い当たる節などありはしない。

「分からないのは当然だ。これは僕の一方的な恨みなのだから。だから、一方的に嬲り殺す」

 マルセルがそこまで言うと、すでにフレイティアは動き出していた。脚から大出力の炎のブーストを吹かして、ヘルメットをかぶりロングコートに身を包むマルセルに突っ込む。

「どうして‥‥‥どうしてフレイティアはヤツを目の前にして動ける!?」

 フレイティアの背中を見ながら、エレクは歯噛みする。

 彼は、フレイティアが普通の人間でないことを知らない。リナリアと一セット。元凶悪食い逃げ犯。そんな共通認識程度の情報しか持ち合わせていない。だから、『ヘルメットの人物』を目の前にして何の躊躇いもなく動ける赤髪の男が信じられなかった。

エレクは今でも、あのヘルメットにロングコートのシルエットを見ただけで身体が麻痺したように動かない。見ただけで無意識の防衛本能が働き、逃げるという選択肢に直結する。その場に踏みとどまるので精一杯だった。

 それはエレクだけではなく、アイシャ、ルーシー、リナリアも同じだった。アイシャとルーシーに至ってはなまじ優秀であるため、動けなくなるほどの『怯え』など感じたこともないのだろう。あからさまな動揺がその表情から読み取れる。

「やはりお前は動けるのだな。人間ではないからか? ふざけやがって」

(人間では‥‥‥ない?)

 マルセルが何気なく言ったその一言に、エレクは反応する。そして、目の前の赤いシルエットを怪訝な顔で見つめた。

「おおおおおおおおおおおおッ!」

 フレイティアの拳がマルセルに直撃するまで、あと四メートル。しかし彼は避けようとしない。それどころか、反撃の構えを取る。脚を前後に大きく開き、右腕を引く。そして、何もない空中の一点を穿つ、鋭い一撃を放った。

「はぁん? お前、何やって――うぐおああッ!?」

 マルセルの繰り出した右手はフレイティアには届いていなかった。それにも関わらず、まるで拳のクリーンヒットを食らったかのように、フレイティアは弾き飛ばされる。

「がはぁ!?」

 どうして視界が暗転するか理解できないまま、フレイティアは泥を食う。

「そこだッ!」

 同時のタイミングでアイシャが肩を動かす。見ると彼女の腕は肘から先が消えていた。彼女の『才能』である『転移領域(ループ・トリック)』は腕をどこへやったのか。

 その場にいた誰も気づかなかった。アイシャの消えた腕は常に腰に身に付けている剣を携えてマルセルの背後から貫かんと迫っていたのだ。むろん、マルセルが気付くはずもない。

 そのはずだった。

 しかしマルセルは振り返ることなく、剣の刃を掴む。アイシャは自分の奇襲が失敗したことに気付き、驚きながらもその手を引こうとするが、マルセルの腕力に負けて、あえなく剣を諦めた。

「くそッ! 完全に死角を突いたはずがッ!」

 剣を手にした人間が次に行うことはただ一つ。マルセルは剣を持ち直し、殺すための英知を存分に振るう。

 ただし、何もない空中を斬りつける。

 直後にバサッとアイシャの髪の先端が切り落とされた。

「なッ!?」

 何も感じなかった。髪がハラハラと宙を舞う様子を見て、初めて斬られたのだと知る。

しかし、それだけではなかった。ビシィッ!!という裂ける音が背後から聞こえたのだ。振り返ると、本舎が大きく切り裂かれていた。何が、どのようにして? という疑問が真っ先に思い浮かぶが、原因は考えるまでもなく、明らかにマルセルにある。

だとしてもだ。

 アイシャはこれまで『斬撃を飛ばす程度の才能』なら腐るほど見てきた。そんな百戦錬磨の彼女なら決して見切れない『才能』ではないはず。それなのに、分からなかった。

 それはまるで、何もない空間に斬撃だけが唐突に現れたように見えた。

「マルセル、てめぇの『才能』ではそんなことできるわけねェはずだ」

 口から血を吐きながら、フレイティアは立ち上がって言う。

「俺はてめぇの『才能』を一度見た。その時はただ、レントゲンの映像を模型にして分かりやすくしただけじゃねェかッ! いや、そもそも――」

 そこまで言いかけて、フレイティアはあることに気付く。それは、このレイアクール支部を襲撃した犯人が『北』であり、マルセルもその一員であることから導き出される結論。『南』と『北』を分け隔てる絶対的な違い。それがマルセルには無かった。

「てめぇのそれがどんな『才能』であるかは問題じゃねェ。『北』の人間のてめぇが、どうして『才能』を持っているかが問題なんだッ!」

 その場にいた誰もが同じことを思っただろう。

 どうして『北』の『技術』を駆使するマルセル・オービットが『南』の『才能』を有しているのか。

 大前提として、『才能』は十歳の少年少女が『大樹アトラス』を介してジーニアスと契約することで授けられる。そしてそれは変わりようがなく、本来ならば変えようのない法則だった。

 ただ一つ、フレイティアの例を除けば。

 それにもかかわらず、こうして目の前で猛威を振るうもう一つのイレギュラーは何なのか。

「前に言ったよなぁ。ジーニアスとの契約は心臓を交換することによって成立すると。だとしたらだ――」

 表情の読めないヘルメットの中で、マルセルはまるで挑発するように言う。

「心臓を移植したらどうなるかな?」

 そしてもう一言、彼は誰もが予想しなかった言葉を放った。

「そしてリナリア、君がいて初めて僕の、僕たちの研究は完成するんだ」


          2


 そもそもの話だ。

 南大陸に存在する『才能』、それを与えるジーニアスとは何なのか。

 北大陸では『南』が保有する『才能』についての研究が長きに渡り行われてきた。多くの学者が諸説唱える中、学会で最も有力な派閥はやはり『精霊』の存在を肯定するものだった。

 なぜなら、それ以外説明がつかないから。

 すべての事象を科学的に解明し、技術を以て実用化する『北』にとって、それが表すことはただ一つだ。すなわち『技術の敗北』。弱みを克服するために、努力を重ねることで技術を身に付ける『北』の敗北。

 しかし、それを公言してしまえばアイデンティティが失われることになる。それゆえ、暗黙の了解として、ジーニアスの存在や『大樹アトラス』に関してのこれ以上の追求は禁忌とされてきた。

 しかし、そこで立ち止まらない人間が二人いた。

『才能とは、本人の意志とは無関係の所で行われる暗示、刷り込みによって開花するものである。南大陸は意識と潜在意識の境界領域を越えた技術を行使しているのだ』

 それが彼ら、一人の男と一人の女の出した結論だった。

二人はその存在が消えた後も、まるで呪いのようにマルセル・オービットの魂を縛り付ける。


          3


無言のまま、マルセルはアイシャから奪った剣を振るう。それだけで地面が割れ、建物が裂ける。どこへ逃げればそれから逃れられるのかも分からず五人は散り散りに跳躍した。

「リナリアがてめぇらの研究どう関係してるってんだッ!! こいつは『南』で生まれて『南』で育った、ふつうのガキなんだぞッ!」

「君が知らないのも無理はない。これはリナリア自身も知らないことだ。そして、教えるつもりもない。これは僕の中で完結しさえすればいい。お前たちはただ『犬死に』するために来たんだァァァァ!!」

 ついさっきまで立っていたところが抉れ、土煙が立つ。フレイティアはそれを確認し、マルセルの攻撃を『避けられる』ことを知る。

「どうにも噛み合わねェなァ。俺は、お前のことなんか聞いてねェ! リナリアをどうするかってのを聞いてんだよッ!」

「言っただろ? そんなこと、君に話す義理は無い」

 その時だ。フレイティアの真横を通過する形で炎の奔流がマルセルを飲み込まんと迸る。

「私のことはどうだっていい。でも、そんな勝手な理由でフレイを傷つけるなら許しません」

 リナリアはフレイティアと同じ燃えるような瞳でそう言った。しかし、その直後にリナリアは辛そうに、えずきながら膝をつく。一瞬の感情の爆発が生んだ攻撃ではあったが、マルセルに相対する負担は想像以上に大きかったらしい。

「君は良い目をするようになったね」

「?」

 何気ない一言に多少の疑問を感じたが、深く考える余裕などなかった。

 マルセルは炎から逃れるために、真横に向かって飛ぶ。彼が身に纏う白のロングコートのようなスーツやヘルメットには焦げ目の一つもつかない、完璧な回避だった。

(躱したッ!?)

 エレクは、そんな過剰すぎるマルセルの回避行動に違和感を覚える。

(なぜ躱した? あいつの攻撃の威力なら炎を薙ぎ払うのも無理ないはず。それにだ――)

 回避の反動で膝をつき若干姿勢を崩す『ヘルメットの人物』を見て、エレクは分析を進める。

(本来なら回避行動は最小限の移動で済ませるのがセオリーだ。そうでないと攻撃に転化できないし、相手の追撃にも対処できない)

 そこで生まれる仮説。

 マルセルは今にも逃げ出しそうに震える脚を自らの意志でつなぎ留め、精一杯の声を振り絞る。

「マルセル医師、そこまでしてスーツを守る理由は何ですか? もしかして、傷が付いたらいけない理由でもあるんですか?」

 エレクは思う。おそらく、マルセルが着ているスーツこそが『北』の技術だ。ルーシーはヘルメットを装着していないマルセルに対しては敵意を行動に変えることができた。つまり、ヘルメットを装着することで奇妙なスーツは完成するということだ。しかし、未だその効力を測りかねるスーツの破壊は、唯一マルセルへの敵意をスムーズに攻撃へ転換できるフレイティア以外かなわない。

「そのスーツにどんな仕掛けがあるのかは分からないが、諸刃の剣と見たッ! フレイティア、一発でいい。一発でいいからやつを殴れッ!」

 と言っても、自分はこうしている今でもマルセルに近づこうと思えないのだが。エレクはそんな自分が情けないと歯噛みする。が、同時に、大事な局面を任せられる仲間の存在に感謝した。

「了解ッ!!」

 それにもかかわらず、赤髪の青年は快く応えてくれる。

「俺は、何もできない。すまない」

 だから、より一層エレクは己の不甲斐なさを感じずにはいられない。しかし、フレイティアはエレクのそんなか細い一言を笑って跳ね除けた。

「はッ! 辛気臭ェこと言ってんじゃねェよ!」

 エレク・デミオンは、所詮は一人で闘えない無力な存在だ。しかし、それに劣等感を覚える必要などないことに気付いた。もともと人間は一人では生きてはいけない。だが、そんな無力な存在が集まることで、一つの大きな力を生む。彼の『才能』は絶対的な危機を乗り切ることでそれを証明した。

「ああ、そうだな」

(今、自分にできる最善のことをやろう)

不敵な笑みをマルセルに向けながら、フレイティアは背中を任せられる仲間の存在の大きさを感じる。ほんの数時間前までいがみ合い、互いを心底嫌っていた二人に、いったいどのような心境の変化があったのだろうか。

「マルセル、てめェとリナリアの関係はこの際どうでもいいぜ。でもなァ、てめェは俺たちの仲間を大勢殺した。それはどんな理由があっても許されねェことだ」

 失って、初めて分かることがある。

 失った者が、何かを繋ぐこともある。

 フレイティアは人の死に直面したリナリアの心に触れた。自分に生きてほしいと切に願う、リナリアの優しさを感じた。そして、今にも壊れそうな彼女を守るためにその拳を振るいたいと思った。今まで一人で生きてきた彼にとって、それは初めてのことだったのだ。

(リナリアが俺に命の尊さを教えてくれたんだ)

 それが、人間でもジーニアスでもない中途半端な存在、フレイティア・ヴェスタが彼女に気付かされたことだ。

「今となっては何もかもが手遅れかもしれねェ。でもよォ、いくら手遅れだからって、最悪の結末に向かおうとしている現実を見過ごすことは俺にはできねェ!! 見過ごしていいはずがねェんだッ!!」

 彼は殴り倒されることが分かっていても、それでも前へ進む。自分にできることはそれしかない。しかし、やるべきこととやりたいことが一致した彼を止めるものなど、何も存在しない。

「そして君は、今度こそ僕に切り刻まれるわけか」

 足、背中から炎を噴射させながら迫るフレイティアに対してマルセルがとったのは、ただその場で剣を振るうことのみ。距離も、タイミングも関係なく襲い掛かる見えない斬撃が無慈悲にフレイティアの首を狙う。

「あのバカッ! 今度こそ死ぬぞ」

 フレイティアの無謀で無策な突進を見たルーシーが焦りの色を浮かべる。が、どうしても前に進むことができない。マルセルに対する敵意を孕んだ行動が起こせない。

「くそ! どうしてもマルセルを目の前にすると身体が動かない」

 だが、ここで自分が動かなければ間違いなくフレイティアは殺される。それならば、何もしないで終わるくらいならば、どれほど馬鹿に思われようと試す価値はあるだろう。

 ルーシーの思考はとっくに吹っ切れていた。

「なら、これでどうだッ! 『怪力乱神(スーパーナチュラル)』、『力』ッ!!」

 「怪」は怪異。理解を越えた現象を起こすこと。

 「力」は力技。暴力で圧倒すること。

 「乱」は乱逆。道理にそむき、あらゆるものを乱すこと。

 「神」は神秘。超自然の力を手にすること。

 ルーシーは自らが契約したジーニアスの名を叫び、装備を外した右手で思い切り地面を殴りつける。その瞬間、ドーン!! という地鳴りとともに大地が裂け、その亀裂はフレイティアの足元に達する。

「のわわッ!?」

 マルセルに向かって一心不乱に突進を試みていたフレイティアは足場が突然裂けて消えたことで、情けない声を上げながらその裂け目に挟まる。

「やはり、敵意のない行動は起こせるようだ。そして、やつの攻撃は極めて直線的。剣を振った直線上がその攻撃範囲らしい」

四つあるモードの中で、ルーシーが選択したのは『力』だった。問答無用で全てを破壊する圧倒的な暴力の形態。あらゆる状況に合わせて臨機応変な対応がとれる最も万能型に近い才能こそが彼女の強み。若くして王権直属の『花見』機関の副局長にまで出世したルーシーの『才能』だ。

「危なかったなフレイティアくん。しかし、次はもうないぞ。今は君に頼るしかない状況なんだから、もっと考えて行動しなさい」

「いてて‥‥‥ったくよォ。いったい何だってんだッ!!」

 地面の割れ目に挟まり、抜け出そうともがくフレイティアは憎らしげにルーシーを見る。が、地割れはマルセルの所まで達しており、その馬鹿力を見たフレイティアは口をつぐむ。この人を敵に回したら死ぬだけでは済まない。冗談ではなく、そんな貫禄だった。

「フレイティアくん、分かっているはずだ。マルセルの攻撃は見えないが、それでも避けられる。とにかくやつが攻撃の姿勢を取った瞬間は避けることだけ考えなさい。とにかく全力で跳ぶんだ」

「そんなこと言われなくとも分かってんだけどよォ、それじゃあいつまでたっても近づけねェだろォがッ!」

「まだかアイシャ! まだマルセル攻略の糸口は見つからないのかッ!」

 フレイティアの焦りに呼応するかのように、ルーシーがアイシャを急き立てる。マルセルと最も長い時間を過ごした彼女だけが、マルセルの『才能』の本質を見抜く可能性を秘めている。アイシャは先ほどからずっと考えてはいるのだが、未だに結論が出ずにいた。

「うるせぇ! こっちだって必死に考えてんだッ! ちったぁ黙ってろッ!」

 そう大声を上げて、血が出るほど唇を噛みしめる。

「分かってんだ。私だって――」

(マルセルの『才能』の本質‥‥‥くそッ! 私が見てきたのは写真を立体的な模型で具現化してきたものだけだ。それをどう利用すればこんなことができんだよッ!)

 アイシャは一向に突破口を見つけられない自分の不甲斐なさに歯噛みする。しかし、嘆いている暇は一瞬たりとも存在しない。アイシャは無理にでも心を落ち着けようと一度深呼吸し、十数メートル先のマルセルを見据えた。そして、脳の引き出しを一つ一つ開けるように記憶を探り、彼の言葉を思い出していく。

『僕の才能はね、こういった写真を立体で見ることができるんだ。だから、平面では見えない部分も見ることができる』

(これは‥‥‥まだ記憶に新しい。それに印象も強かったから思い出せるぞ。確か、フレイティアにリナリアの心臓にある欠陥を説明しているときだったか)

 アイシャが記憶を掘り返す作業に没頭している最中に、フレイティアは再びマルセルに立ち向かわんと裂けた大地から身を乗り出す。しかし、このまま先ほどのように走り出せば今度こそ肉塊の未来は免れない。エレクはそんな状況を受けてリナリアにある提案をした。

「リナリア。俺から一つ提案があるのだが、いいか?」

 先ほどの負担がまだ色濃く残っているリナリアは、蒼白な顔で頷く。

「君のことは俺が全力で守る。だから安心して欲しい」

 エレクの真剣な眼差しを受け、リナリアは彼の瞳に宿る強い意志を見出した。

「それがフレイの助けになるなら――」


 そしてフレイティアはマルセルと対峙する。いや、対峙しているのは彼だけではない。フレイティアは立ち上がったところで隣にルーシーが立っていることに気付いた。

「だんだんあいつの攻略法が分かってきたよ。器用なマネをする必要があるが、要するにヘルメットの姿に対して『敵意』を向けなければいい。というか、向けられない。だから私は君を守るためだけに行動をすることにした」

 『守る』というワードに対し、自分を弱く見られた気がして少しムッとするフレイティアではあるが、彼女の実力は身を以て知っている。自分よりも遥かに強いということを。

「まったくもってイカれてやがるぜ。ああ、分かったよ。具体的にはどうすんだ?」

 今は何としてもマルセルのスーツに傷をつけなければならない。一人では太刀打ちできない以上、一丸となってぶつからなければならないのだ。それが分からないフレイティアではない。

「こうするんだよ‥‥‥モード『怪』」

 フレイティアは彼女を見ていて違和感を覚える。

(ああん? 一瞬影がブレたような?)

 目を擦ってルーシーを見るが、先ほどの違和感は錯覚ではなかった。なぜなら、ルーシーからルーシーが抜け出すように『二人目』が現れたからだ。しかし、その数は二人にとどまらない。『一人目』から次々と抜け出し、最終的に七人にまで増えた。

「な、なんなんだァこりゃ!? 一人、二人‥‥‥七人!?」

 口をあんぐりと開けて驚愕の表情をあらわにするフレイティアを見て、ルーシーはクスリと一度笑う。

「なに、これは単なる『歩法』だ。君も練習すればできるさ」

「そ、それはどうだろうか――」

「そんなことより、敵は待ってはくれないぞ。いいから私の後ろに来い」

 ルーシーに急かされ、フレイティアはいそいそと彼女の背後に回ると、彼女はそこでフレイティアを中心に囲むように陣を組む。

「ちょっとお前はしゃがんでろ」

 ガシッと頭を押さえつけられ、ぴょこんと間抜けに飛び出ていた赤髪が完全に隠れた。そして、その光景を遠くから見ていたマルセルが拍子抜けしたように笑う。

「小賢しい。そんなことをしても時間稼ぎにならないぞ。この距離からでもお前たちを切り裂くのは容易い」

「いいや。一瞬でも時間を稼げればそれで充分だ」

 ルーシーが言い切るか言い切らないかのタイミングで、マルセルが剣を振る。が、同時に七人のルーシーが散り散りに離散し、見えない斬撃を回避した。そこにフレイティアの姿はなく、一撃目を躱されたマルセルは七人に分かれたルーシーの陰に隠れているのだとすぐに悟る。

「ふん、苦し紛れの浅知恵か。そこだッ!」

 マルセルはすぐにフレイティアを隠す分身の目星をつけ、そこに向かって剣を振った。しかし、剣を振り切られてからでは遅い。フレイティアはマルセルの腕が動く瞬間にルーシーの分身から跳躍する。そして案の定、彼が飛び出した直後に分身は消失した。

「くそッ! ほんとに一瞬しか稼げねェなんてッ!」

 砂煙を巻き上げながら地面を滑るフレイティアは吐き捨てる。そしてマルセルの次撃に備えて態勢を立て直し、彼の腕の動きに集中した。

「もう一発行くぞッ――ッ!?」

 完全に回避行動に徹しようとしていたフレイティアは、目の前で起きた光景に目を奪われる。

突如として現れた大出力の炎がマルセルを襲ったのだ。誰がそれを行ったかは考えるまでも

ない。しかし、だ。感情の爆発で無理に放った初撃の後、リナリアは相当な精神的ダメージ

を受けた。その上で放てば当然、躊躇いや怯えの色が少なからず炎の動きに現れるはず。しか

し、リナリアの炎には心臓(こころ)で繋がっているフレイティアにもそれが感じられなかった。

「リナリアァァァ!」

 名前を叫びながら振り返り、炎の噴出点を視認する。

「上手くいったぞリナリア」

「本当ですか! よかった」

 フレイティアが見たのは、リナリアの腕を背後から掴んで操作するエレクと、その状態で目を閉じながら手のひらを前方にかざすリナリアの姿だった。

「止まるなフレイティア! 走れぇぇぇぇぇ!!」

 エレクが大声で叫ぶ。と同時に、マルセルは危険度の修正を行い、剣先を二人に向ける。彼にとってこの距離こそが絶対的有利の理由の一つである。それを覆すリナリアの炎は厄介だ。

「エレク、マルセルの攻撃が来るぞッ!」

「分かってるッ! リナリアッ!!」

「は、はい!」

エレクは後ろから勢いよくリナリアを持ち上げ、黒髪の少女の肩と両足を両腕で支える。いわゆるお姫様抱っこの形だ。彼らが立ち去った後の地面はたちまち抉れ、そんな危うい二人を見るフレイティアは気が気ではなかった。

「フレイティア、俺達は全力でお前を援護する。お前はマルセルだけを見てろッ!」

「ああん! つーかよぉてめぇ誰に断ってリナリアに触ってんだッ! ケンカ売ってんのかこの野郎!?」

「‥‥‥!? 今はそんなことを言ってる場合ではなかろうッ!」

「そんなことだとッ! 俺に寝取られ属性なんざねェんだよッ!」

「我が儘を言わないでフレイッ!」

 リナリアの一喝を受け、赤髪の半ジーニアスの青年は舌打ちをしながらしぶしぶ前を向き、再び走り出す。マルセルまであと十五メートルほど。フレイティアの炎のブーストを駆使すれば、本来なら一秒ほどで到達できる距離。しかし、マルセルの見えない攻撃がその進路を阻む。一歩間違えば即死であろう攻撃である手前、無理して突っ込むわけにはいかない。

 慎重に、且つ思い切りよく。マルセルの一挙一動に注目しながら確実に進むしかないのだ。

 マルセルもまた、距離を詰められまいと後ろに下がりながら剣を何度も何度も振る。が、絶妙なタイミングで飛んでくるリナリアの炎が邪魔をし、決定打に欠ける戦闘を繰り返す。フレイティアを狙えばリナリアの炎が襲い掛かり、かと言ってリナリアとエレクに狙いを定めればルーシーのかく乱が合わさり、フレイティアの接近を許す。

 その均衡を崩す可能性を秘めるのがアイシャの記憶だった。

(落ち着け。落ち着くんだアイシャ・ラルクロエ。マルセルの『才能』のヒントは必ずある)

 彼女には先ほどから引っかかることがあった。

(写真を立体模型として具現化。それは平面の映像を立体的に見ることで見えない部分を浮き彫りにすると言ったものだ。だが、もしそれが逆だとしたら? 立体的に理解したうえで、それを具現化しているのだとすれば、本質は全く異なってくる)

 だとしたら――


 後退しつつ剣を振るうマルセルと、その一撃一撃を死にもの狂いの跳躍で間一髪回避するフレイティア。一見、膠着状態に思える戦況だが、マルセルの圧倒的有利は未だ覆らない。

「くそッ! あと少しだってのにッ!」

 それでも徐々に距離は縮められている。目分量でおよそ十メートルといったところか。

(このくらいの距離、いつもならひとっ跳びなのによォ。脚が浮いちまったら格好の的になっちまうから跳べねェじゃねェか)

 少しずつ近づいている実感があるからこそ、より一層歯がゆい。手を伸ばせばすぐ届く距離だというのに、最後の壁がとてつもなく高くて厚いのだ。

「決定力が足りねェ。このままじゃいずれ押し負けちまう」

 いっそ思い切ってブーストによる跳躍を試みようか。決して冷静さを欠いてはいけない状況で、フレイティアの脳を悪魔の囁きがくすぐる。

(リナリアや金髪メガネのバックアップもある。行けねェこともねェはずだ)

 生唾を飲み、フレイティアはそのタイミングを計る。なにしろ一度の斬撃が本舎や地面に大きな亀裂を入れ、さらにはその射程も未知数な攻撃だ。今まで感じたことのない緊張がフレイティアの身体を強張らせる。そのせいで彼は気づかなかったのだ。マルセルの斬撃の余波が残した傷跡に。

 それに、マルセルの攻撃を何度も見ることで少し『慣れ』が出てきたのだろう。攻撃が見えないとしても、直線的であるというルーシーの分析は回避の材料になるのと同時に、若干の油断をフレイティアの心の中に生んだ。

 マルセルの直線上から逃れれば躱せるだろうという、安直で愚直な考えだ。

 回避の瞬間、フレイティアはあろうことか、抉られた地面に足を取られた。まさかこんな初歩的なミスをこの場で犯すなど誰も思うまい。回避の目途が立ったからこそ陥った、基本的なミス。

「なッ!?」

 口の中に砂の味を感じるその瞬間までフレイティア自身、何が起きたか気付かなかった。そして、すぐに感じる圧倒的な『死』の感覚。自分を殺したがっているマルセルがこの隙を逃すはずがない。

「や、やばッ――」

「とどめだッ!!!!」

 不意にフレイティアは首を吊られたような感触を覚え、視界が回転した。

「え?」

 その後数メートル先に、バタンと仰向けに叩きつけられる。顔を上げたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは鮮血とともに舞う青のシルエットだった。

 そして確信する。自分はヘマをしたのだと。彼女が自分を助けてくれたのだと。今すぐルーシーのもとへ駆け寄りたいが、そんなことをしてはそれこそ良い的になるどころか、さらなる追撃に巻き込んでしまう。

「バカ者‥‥‥が。冷静に‥‥‥なれ」

ルーシーのか細い声が、フレイティアの罪悪感を膨らませる。

 せっかく大切なものに気付けたのに、気づいた瞬間に手から零れ落ちる。

 心にポッカリ穴が空いたような虚無感が、フレイティアの全身を突き抜けた。

「くそォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!」

 地を這う『南』の人間を見下ろし、マルセルは高笑いをする。

「やはり僕たちの研究は間違ってなかった! 『才能』など他愛もないッ! 精霊なんてものは存在しないんだッ!」

「何なんだッ! 何なんだよォ! お前はいったい、この『南』で何がしたいんだッ!」

 激昂するフレイティアに対して向けられたのは冷たい一言と、剣先だった。

「僕たちの、研究の証明さ」

 そして何の躊躇いもなく振り下ろされる、距離を無視した絶対的な刃。

 確実に命を奪える。そんな強烈な斬撃がフレイティアを断絶する。――するはずだった。

「それは何だ?」

 フレイティアよりもまず、マルセルが現状に対する疑問を口走る。それはフレイティアの目の前に浮いている直径二メートルほどの光の輪を見た、率直な感想だった。

「そういえばまだお前には見せてなかったよなぁ。私のジーニアスが具現化した姿を」

 嘯くアイシャの表情は暗闇に紛れて読めない。

 直後だ。フレイティアを切り裂くはずだったマルセルの見えない斬撃がアイシャの後ろの地面をガガガッ!! と大きく削り取った。

 その音に反応し、放心状態だったフレイティア、呆気にとられていたエレクやリナリアが後ろを振り向いて、アイシャに集中する。

「マルセル、やっと分かったぜ。お前の『才能』が。お前の『才能』の本質は立体把握能力だったんだ。平面の図を立体化させ、形を与えてから把握するのではない。平面を立体的に把握してから、それに形を与えていたんだ」

 表情は分からなくても、彼女の一言一言から伝わるのものがある。

「お前がただ剣を振るだけで距離を無視した攻撃を放つことができた理由はそれだ。つまり、平面を切り裂く剣の動き、つまり空中に存在する『面』を斬る動きだ。それに立体としての形を与えた。形を与えられた『平面』をなぞる斬撃はそのまま軌道となり、直線状のものすべてに干渉する斬撃となったんだ」

 拳や剣による攻撃は、どうしてもその攻撃範囲はある『一面』に限定される。人間の身体の一部を行使する技である以上存在する、物理的な制約だ。しかし、『一面』にのみ干渉する攻撃が物理法則を無視した軌道を持ち、『もしもその攻撃が伸びるとしたら、どのような軌跡を描くだろうか』という可能性をあらかじめ脳で構築、そのう上で『面』の延長としての『軌道』、すなわち立体としての形を与えていたのだ。

そして、『軌道』を与えられた攻撃の後には、『軌跡』が残る。

ピクリと、マルセルの肩が震えたように見えた。彼はアイシャの分析を聞いても何も言わない。ただ無言のまま剣を振るう。

「無駄だ」

 マルセルの剣が空中の平面をなぞりきらないうちにアイシャが右手のひらを正面にかざす。ブオンという空気を振動させる音とともに、光の輪がルーシーやエレクとリナリアの正面にも発生した。

「私の『転移領域(ループ・トリック)』は軌跡を断ち切るジーニアス。普段はそれを瞬間移動として活用しているに過ぎない。皮肉な話だな。私の『才能』だけがお前の天敵になりうるのだから」

 アイシャは大きく息を吸う。

「フレイティア! ルーシーは大丈夫だ。その程度で死ぬ可愛げのあるやつなら、とっくに男つくって遊んでるぜ! だから安心してお前のやるべきことをやるんだッ! その輪をくぐって(ループして)マルセルの野郎をぶち抜けッ!!」

 アイシャの言葉が引き金となり、ゴウッ!!と、フレイティアを中心とした半径二メートルほどの水分が瞬時に蒸発する。

 アイシャの思いを一身に背負い、そのすべてを握りしめる右手に込める。

リナリアとエレクが寄せる期待に応えるため、その足を踏み出す。

 自分の欲望を満たすためだけに暴力を振るっていたかつての面影は、彼には存在しない。

 フレイティアには、拳を振るう理由があるのだ。

 同じ拳でも、重みがまるで違う。

 次の瞬間、光の輪をくぐった彼の姿が唐突に消失した。

「甘いッ! なぜ俺がお前たちの攻撃を躱せていたと思う? 俺の体表という平面に干渉する物理攻撃の軌道は、それが俺に接触する前に全て立体として俺の脳内に構築される。どんな軌跡を描くかが分かる! 動きが読めるんだよッ!」

 そう言うとマルセルは首を横にひねり、その擦れ擦れをフレイティアの拳が通過した。

「俺の攻撃が無効になったとしても、お前たちの攻撃もまた当たらない。無駄なんだ」

 そう言って、今度こそ赤髪の半ジーニアスを完璧に殺しつくすために手にした刃が振り下ろされる。が、何かに躊躇したように振り下ろす手の動きが鈍る。

(まずい。この至近距離、フレイティアに腕を掴まれるッ!?)

 読めてしまうからこそ、動けないことがある。

あらかじめ分かっているからこそ、覚悟が現実に追いつかないことがある。

「お前は今、俺を殺し損ねた」

「?」

 手を振り下ろしあぐねているマルセルに対して、挑発じみた一言が吐かれる。いつでも殺せると高を括っていた彼は、フレイティアの発言の意図が分からなかった。直後、マルセルは背中にドクンドクンと波打つ暖かな血流を感じる。

「な‥‥‥ぐッ‥‥‥がぁッ!」

 なまじ切れ味がよすぎるあまり感覚神経まで切断され、痛みが脳に達するのが著しく遅れた結果の反応であった。

「マルセル。お前の『軌跡』、使わせてもらったぞ」

 遠くでポツリとそう呟いたアイシャ。マルセルにその言葉が届いたかどうかは分からない。しかし、マルセルには分かっていた。

相反する力。『軌跡を生む才能』と『軌跡を断ち切る才能』。自分を傷つけることができるのは彼女しかいないことを。アイシャのジーニアスが自分の斬撃の軌跡を断ち切り、背後に出現させたのだ。そう、無意識のうちに悟っていた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」

 フレイティアの拳の『軌道』が読める。フレイティアはマルセルの顔面をぶち抜いたあと、その勢いで背後に倒れるまでの『軌跡』が確定していた。

 大量の出血で薄れゆく意識の中、分かっていても避けられないマルセルは思う。

(奇跡は、起きないのか――)

 直後、鈍い音を放ちながら、マルセルの顔を覆い隠していたヘルメットが砕かれる。誰もが息を呑んでその光景を見つめ、同時に彼らを包んでいた異様な緊張感から解放される。『北』の男はそのまま仰向けに倒れ込んだ。


          4


「おい、いくらなんでも実験のために胎児の遺伝子を組み替えるなんて‥‥‥優生学が一般的に認知されて倫理規定による縛りが緩くなってきているとはいえ、さすがにそれはやりすぎじゃあ――」

「お前は何も分かっていない。今の状況が分かっているのか? 『北』はジーニアスの存在を科学的に証明することをほとんど諦めている。それは俺たち『北』が負けていると認めていることと同じなんだぞ! そんなこと俺はごめんだ。俺達が血反吐を吐く思いで手に入れた『技術』と同等の物を『南』の奴らは当たり前のものとして与えられている。同じ世界に住む人間として、そんなことを認められるかッ!」

「で、でも。お前の‥‥‥その‥‥‥お、奥さんはそれを認めたのか?」

「もちろん妻の賛同も得ている。ついにここまで来たんだ。俺はジーニアスの弱点ともいえる致命的な欠陥を見つけた。俺はやって見せる。必ず『南』の鼻を明かしてやるッ!」

「そうか。あいつが良いと言ったのか」

 それならば、自分が口を出すことではない。

「そうだ。できたらお前にも協力してほしい。俺達なら『北』を変えられる。そう信じてる」

 何年前のことだろうか。記憶が曖昧で、今では思い出すことすらできないが、当時はマルセル・オービットなどという名前ではなかった気がする。

 彼には当時、二人の親友がいた。同じ脳科学の研究者として切磋琢磨し、『北』の発展のために努めてきた戦友と言ってもいい存在だ。まだ若かった青年は、親友のうちの一人の女性に淡い恋心を抱いていたかもしれない。が、彼には分かっていた。彼女の心は自分には向いていないと言うことを。

 よって、青年は今では名前すら思い出せない彼女から結婚の知らせを受けたときは、心から祝福した。彼女のことは確かに好きだ、いや好きだったかもしれない。しかしそれでも、彼女の結婚相手であり、自分の親友でもあるあいつになら任せられるという思いがあったからだ。

 いつから間違ってしまったのだろう。

 気付いた時には、二人は研究に憑りつかれていた。『南』のシステム、しいてはこの世界が誕生した時から存在する不平等な構造。それは『南』が独占する、ジーニアスと呼ばれる才能を与える『精霊』の存在を暴くための研究だった。

 しかし、すでに暗黙の了解としてジーニアスの研究を禁止していた学会は、若い二人の研究者を見逃しはしなかった。万が一でも、二人がジーニアスを暴いてしまえば、自分たちの研究者としての地位が危ぶまれるからだ。

 結果、親友の男は殺された。

 公には、妻が夫の浮気現場を目撃し錯乱した挙句、持っていた刃物で一突きと言うことだったが、青年には分かっていた。全ては彼らを邪魔だと感じた学会の老害どもが仕組んだ罠だと言うことを。

 それを糾弾した彼はありとあらゆる手段を使い、彼女の命の保障までは取り付けることができた。しかし時はすでに遅く、彼女はすでに『北』にはいられないほど、情報が出回ってしまっていた。それでも『北』での暮らしを続けるというのは、彼女にとってもいいことではないだろう。

そこで、青年はある決断をした。彼女を『南』へ逃がすという決断だ。幸いと言ってはおかしいかもしれないが、『南』には『北』から派遣されたスパイが大勢身を潜めている。彼らは皆『北』で訓練を積み、独自のアイデンティティを確立した優秀な人材ばかりだ。『南』の『才能』にも劣らない彼らの『技術』は、そのまま『才能』として受け入れられるだろう。そして、優秀な科学者である彼女もまた、それが可能だと判断したのだ。

 『北』には葬儀などという文化は存在しない。どこか別の、彼らが知らない世界線にはあるかもしれないが、そのようなものは非効率的である。人間は死んでからエネルギーに転換され、資源の乏しい『北』の糧となるのが常だった。そして、青年の親友も例外ではない。

 彼女が『南』へ旅立つ当日、二人は男がエネルギーへと変換されるカプセルの前にいた。

「本当に、ごめん。僕が、あいつを止められなかったからこんなことに」

「あなたが謝る必要なんてないよ。彼もきっと覚悟の上だったんでしょうし――」

 彼女は、そこで言葉を詰まらせる。青年もまた、それ以上彼女に対してかける言葉が思い浮かばなかった。

「おい、早く用事を済ませてくれ。あまり時間が無いんだ。いくら逃亡が認められたとはいえ、公には彼女は犯罪者。万が一見つかってしまえば、独立した警察権力相手では学会の決定を覆されてしまうかもしれない」

 黒いスーツを着た男が後ろから急き立てる。

「ええ、分かったわ。ごめんなさい」

 それに静かに応える彼女。

「いいのか? 自分でスイッチを押さなくて」

「私に、それを押す資格なんてないよ。だって、彼は私が殺したんだもの」

「それは学会がが仕組んだ罠だっただけ――」

「いいのよ」

 静かではあるが、有無を言わせない彼女の口調に青年は黙る。

「‥‥‥‥‥‥、」

「それじゃあ‥‥‥ね」

 それだけ言い残し、青年を一人残して彼女は黒スーツの男とともに部屋から出ていく。

 数秒、数十秒、数分、数十分の沈黙が続く。青年は、自分でも何を考えているのか分からない。ただ、どうしてこうなったという状況に対する感想がグルグル頭を巡っていた。後悔とも違う、悲嘆とも違う。当時の彼には、それを表現する言葉を持ち合わせていなかった。

 そして一人で、静かに、スイッチを押す。

 ギャルルルと、カプセルの中が激しく回転し、親友が人間だったころの面影を消していく。親友だったもののタンパク質が分解し、骨が細かく砕かれ、水分が蒸発していく過程を青年は一人で見守っていた。やがて全ての工程が終了したのか、無機質な電子音が鳴るとともに、赤く灯っていたランプが消える。

「あとは、任せてくれ」

 どのような心境の変化があったのかは、彼自身にも分からない。思い出す手段もない。だがその瞬間、何かが変わったことは確かである。


数年後、青年は親友たちが残したデータをもとに独自に研究を進め、ついに仮説と理論の一致した論文を完成させた。その時にはすでに青年とは言い難い年齢に達していたが、アンチエイジング技術により、見た目の若さは保たれていた。しかし、このままでは親友たちの二の舞となって排除されてしまうことは青年も分かっていた。

革新的で確立的、尚且つ画一的なものを排除する決定的な『何か』が必要だ。

 ちょうどその頃、まるで青年の研究が完成するタイミングを見計らったかのように、『南』で起こったジーニアスの大量消失事件の情報が『北』に伝わる。

 学会の人間の誰もが、それを忌まわしき夫婦の研究の成果だと悟り、自分たちの過ちを隠そうと、公には発表しない姿勢を取った。しかし逆に、青年はそれを好機として捉えた。そして、事件の詳細を『南』に潜った人員に探らせ、自分の論文の関連付けを試みる。

 全てを知った青年は驚愕した。

「あいつらは、あの時点で既にここまで分かっていたのか――」

 事件は単純なものだった。『南』の中心地、王都レイアクールにそびえる『大樹アトラス』にて年に五回行われるジーニアスとの契約の儀式、その最中に一人の少女が触れる者すべてのジーニアスを消していったのだと言う。

 それを聞いた瞬間、青年もまたすぐにその少女が彼らの子供であることを理解していた。そして、それが遺伝子操作によってもたらされた彼女の能力であるということも。いや、能力と言うのは少し語弊がある。少女のそれはおそらく、二人の遺伝子操作によって植え付けられた『才能』でもなく『技術』でもない先天的なものだからだ。

「僕から言わせれば、『南』のジーニアスの仕組みとは、簡潔に言えば『集団催眠による意図的な脳の使用領域の拡張と、それに伴う能力の付加』だ。だが、少女の存在はこれに新たな要素を付け加えることになる」

 触れるだけで『才能』を消し去ってしまうという事実から分かることは、彼女の存在自体、より厳密に言うと、姿形が原因であるということ。

「『才能』も『技術』も持たない少女に、ジーニアスの消去など意図的に引き起こすことは不可能。と言うことは、彼女の姿形そのものが視覚的な作用を脳に及ぼしていると考えられないか?」

 だとしたら――

「少女の姿を見た人間は、意識と潜在意識の境界領域を刺激される。だがそれは無意識下の出来事ではない。実際に彼女のことが見えているのだから、似たような現象であるサブリミナル効果とは違っている」

 つまり、少女は意識できるレベルで自分の姿を見た者の脳を間接的に支配し、自らが契約した『精霊』を本人自身が無意識に消去することを促すというピンポイントな効果を生み出したのだ。

「あえて言葉で表現するなら‥‥‥そう、スプラリミナル知覚。二人はそれを自動的に引き起こす姿をした人間を作るために、胎児の遺伝子を操作したのだ。そして彼女に触れられることで、強制力はさらに増す。実際に触ったほうが、少女の姿だけでなく、質感や香りといったイメージまでもが具体的になるからな」

 ついに本質にたどり着いた青年に、自然と笑いが込み上げてくる。腹の底から、ふつふつと湧き上がるそれは、時間に比例して大きくなっていった。

「は‥‥‥はは。何だよこれ。ふ、は‥‥‥はははははははははははははははははははは――」


「こんなものか‥‥‥『南』は」

『南』に送った異端者の存在を知る学会は、青年の論文を認めざるを得なかった。なにせ、自分たちが邪険にし、追放した学者が現地で成果を修めたのだから。どれだけ我が身が可愛くとも、それすら否定してしまうほど彼らの誇りは落ちぶれてはいなかった。

その後、青年は親友が残した少女の遺伝子情報をもとに、わざわざ人間一人の人生を捨てずとも『ジーニアス消去』の効果を発揮するような形態のスーツの製作に取り掛かる。が、最後の詰めが甘いのか、どうしても少女がと同様の効果が得られなかった。実際に『南』の人間を実験として使ったわけではないが、そのスーツを着た人間を見た人間の脳波を計測しても、シミュレーション通りの結果にならなかったのだ。

そして彼は、現地での研究と更なる調査のために『南』へ足を踏み入れる決意をする。

親友が思い描いた平等な世界の完成まで、もう少しの所まで迫っていた。このスーツさえ完成すれば偽物の才能を片っ端から消し去ることができ、『北』の人々の努力の末に身に付けた『技術』を軽んじられることもなくなる。

 あいつと、あの人が掲げた理想。

全ては平等な世界のために。


 青年がマルセル・オービットとしての人生を手に入れたのはその時からだ。現地での調査をスムーズに進めるためにはある程度の地位が必要と考えたマルセルは、ジーニアス・ホルダーへの入隊試験を受けることを決める。のちにレイアクール支部長になるアイシャ・ラルクロエと出会ったのはその時だ。

 全てが順風満帆だった。まるで運命が自分に味方しているかのように、上手く物事が運んだ。ジーニアス・ホルダーでは医師としての地位を築き、『南』の人間の身体を隈なく調べることができたし、信頼を獲得したことで誰にも怪しまれず自由に動くことができた。

 そんな彼の人生の、二度目の転機は唐突に訪れた。

 何度も述べるが、『北』にはジーニアスの存在を暗黙の了解として受け入れてきた歴史がある。それはマルセルと彼の親友たちの手によって変えられたのだが、いつの時代にも革新的な人間がいれば、保守的な人間もいる。『南』には、そんな保守派の人間も派遣されていた。そして、ある人物との出会いがマルセルを狂わせた。


「ここは‥‥‥どこだ。僕は――」

 医師として任務に同行していた最中、テントで一人作業をしていたところまでは覚えている。後頭部に鈍い痛みがあるのは、何者かに殴られて誘拐されたということだろうか。

(そもそも今はいつだ。どれだけ時間がたった?)

手足を動かしてみるが、金具で拘束されているのか自由がきかない。目が覚めたマルセルは、我が身の状況を確認しながら、あらゆる可能性を模索していた。

 全体的に薄暗く、様々な機材がごちゃごちゃ所狭しと置かれたホコリ臭くて湿っぽい部屋。

(まさか、僕が『北』の人間であることがバレて――いや、身元に繋がるものは全て捨てた。だとすればやはり身代金目当てのゴロツキか?)

 ある程度自分の中で可能性を絞り込み、どうやってここから脱出するかを考え始めた時だ。コツンコツンと床を踏みしめる音に気付く。

(!?)

 マルセルはギクリとし、目を見開いて驚く。しかし、この場はまだ眠っている振りを続けるのが得策だろうと考え、再び目をつぶる。

「こんにちは。マルセル・オービットくん」

(僕の名前を知っている!?)

 少し目蓋を動かしてしまったかもしれない。

「‥‥‥まあいい。これから嫌でも目を開けることになるだろうからね」

 少し渋みのある声は、何か言葉以上の意味を含んだ言い方をする。

「マルセル・オービット。二年前にジーニアス・ホルダーレイアクール支部へ医者として配属。南大陸北東部の貧しい家庭で生まれ。母の死をきっかけに医者を志し、独学で王国の基準を満たす」

(個人情報をそこまで‥‥‥ジーニアス・ホルダーの関係者か?)

 男は話を続ける。

「支部内での評判も良いらしいじゃないか。知的な雰囲気は女性のウケも良いと聞いている。こんなんだったら私ももう少し『南』での立場を吟味すべきだったなぁ」

 快活に笑う見せる男。しかし、マルセルは笑えない。男の言葉の言い回しに、違和感を覚えざるを得ない。

 男の言動からは、自分はあらかじめ『南』での立場を設定したというようにも取れるからだ。

「なぁ、今のは私、かなり際どいコースを攻めたと思わない? それでも君はまだダンマリを続けるのかな?」

(‥‥‥何が言いたいんだ?)

「まったく、うまく戸籍を偽造したものだ。私の時は有無を言わさず放り込まれたのだぞ」

 男はマルセルの反応を伺っているのか、数秒の沈黙が訪れる。

 とりあえず男が何者であるかをマルセルは把握する。もっと取り乱すかと思ったが、自分自身驚くほど冷静だった。そして、マルセルは寝たふりをやめる。

「僕をどうするつもりだ?」

 顔を照らすライトに一瞬ひるみながらも、ゆっくりと目を開ける。

「『北』の人間であるあなたが僕のことを知った上で、尚且つ僕の任務を邪魔すると言うことは、それなりの理由があると言うことだ。さもなくば――」

「上に報告するかね」

「‥‥‥そうだ」

 男は『南』特有の文化である『宗教』に従事する者の服装をしていた。いわゆる神父なのだろう。より厳密には、神父の役を演じているが正しい。ライトが照らすのはマルセルの上だけのため、神父の顔までは把握できないが、声の質感からして四十そこそこだと予想ができる。  

あくまで『身体の年齢』だが。実際は分からない。

「まぁ、それはそれとして――」

 神父は話を逸らす。

「身体の具合はどうかな? 痛みはないかね? 特に胸のあたりだ」

「唐突に何だ?」

「いいから答えなさい」

 唐突でで不可思議な質問に、マルセルは眉をひそめる。

「いや、何も問題はないが」

「そうか、安心した。では第二ステップだ。君は、この絵が何に見える?」

 そう言って神父はマルセルの目の前に一枚の画像を差し出す。そこに映っているのは白い正方形だった。

「何だそんなもの。単なる直方体じゃないか(、、、、、、、、、、、)」

 自分でも言ってから気づいた。

 どうして平面の画像を見ているのに、立体が頭に思い浮かぶのだろう。

「すばらしい! 移植は見事に成功したわけだ。わっはっはっ!」

 無意識にできてしまったことの違和感に吐き気を覚え、マルセルの額に汗が滲む。そして神父。今彼は『移植』と言ったか。何を誰に移植したのだ。結論はすでに出ている気がするが、それを認めることができない。何を移植したかは知らないが、この違和感の答えになるとは思えないのだ。マルセルが焦りの色を表情に出すと、それに気づいた神父は笑いを止める。

「すまない。実は、君をここに‥‥‥まぁ言い方は悪いが拉致した目的はもう済んでいるんだ」

 言い方もなにも、どこから見ても純然たる拉致だが。

「君には『南』の人間、それも飛び切り優秀な人間だ。その心臓を移植させてもらった。こうでもしないと君は抵抗するだろう? 私は君の研究を知っているからね。本当に残念、いや実に喜ばしい」

(どういうことだ。こいつは何を言っている。心臓を移植? 僕に? それがこの違和感と何の関係がある?)

 ドクンドクンと、見知らぬ誰かの心臓の鼓動が急激に加速する。

「正しくは、『南』の人間の心臓ではなく、『彼と契約したジーニアスのもの』なんだけどね」

 刹那的時間を経ず、脳がフリーズする。

「実に喜ばしい。いや、残念かな。君にとっては。なにしろ、これでジーニアスの存在は実証されたわけだからな」

(この男はいったい何を言っている? ジーニアスの存在が実証された? この僕に起きた異変がそうだとでも言うのか?)

 己を台に固定する金具がギチギチと擦れる。真っ白になった頭と同じように、身体そのものがこの事態を受け入れる用意がされていないのだろうか。現実から逃げ出そうとするように腕が、足が、勝手にもがき始める。

 いや、用意もなにも。そもそもキャパオーバーな情報だった。

「‥‥‥‥‥‥違う。違う違う違うッ!! ジーニアスなどいない! これは‥‥‥そうだ、催眠だッ! お前、僕が寝ている間に何をしたッ!!」

(そんなわけがない。あいつらと僕が導き出した研究の結果が間違いだったはずがないッ! 認めてはいけないんだッ!)

「僕の、僕たちの研究は間違ってなどいないッ! ジーニアスなどという精霊はまやかしだッ! 心臓の移植も、催眠効果を強めるための外部要因に決まっている! それかただのハッタリ。そうでなければいけないんだッ!」

 マルセルとは対照的に、落ち着き払った神父の声。

「君はもう気付いているはずだ。君が『南』に派遣されたのは、単に君が邪魔だっただけだ。たまたま君たちが精霊のシステムに綻びを見つけ出しただけで、それだけではジーニアスの否定にはならない。聞くところによると、君が開発したスーツはまだ例の少女と同じだけの効果を発揮していないそうじゃないか。それはなぜだろうね」

「黙れ黙れ黙れッ!」

「ひょっとして彼ら‥‥‥君の友人も気づいていたんじゃないのか? ジーニアスと呼ばれる精霊の『本質』を、その『神秘』を。そして、それを理解していたからこそ精霊のシステムに致命的な欠陥を見出した。だから、それを理解しえなない君にはできないのだ」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!」

「何か分からない力は何か分からないものに由来している。彼が辿り着けて、君が辿りつけなかった理由はそこだ。君には『神秘』が欠けている」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

その時だ。マルセルは首筋にチクリと鋭利な感触を覚える。何か針で刺されたような、神経に触る痛みだ。そして、首筋から冷たいものが流れていく。興奮状態の彼は気づかなかったが、薬物を投与されていたのだ。

「く‥‥‥そ――僕、は‥‥‥」

 まるで血管の中を鉛が流れているように全身が重く、目蓋が自然に閉じていく。

 これが夢で、起きたらすべてが何もなかったことになっていればいいのにと。そんな甘えた幻想にでもすがりたくなる。彼にとっては、この強制的な眠りこそが救いだったのかもしれない。さもなくば、マルセルの精神は完全に崩壊していた。

「いいか? 『精(、)霊(、)』は(、)、ジ(、)ー(、)ニ(、)ア(、)ス(、)存(、)在(、)す(、)る(、)の(、)だ(、)」

 神父の発言の直後、コンコンと、唐突に部屋をノックする音が聞こえる。

「神父様ぁ‥‥‥神父様ぁ。ここにいらっしゃるんですか?」

 まだ幼さが残る少女の声は、意識が朦朧としていたマルセルの耳にも届いた。神父は少女の声を聞き、面白い物を見るような目でマルセルを見る。するとドアがゆっくりと開き始め、光が漏れ始めた。

「紹介しよう。彼女は二年前、君が『南』へやってきた年から保護している子でね、名前はリナリア・シュガーロットという」

 少女はドアのを少しだけ開け、薄暗い部屋が怖いのか恐る恐る覗き込んでいた。

「ああリナリア、私はここにいるよ今そちらへ行きますからね」

「あ‥‥‥え、その。どなたかいらっしゃるんですか? 」

「はい。この台には昨晩埋葬を依頼された御遺体があるのですよ」

「そ、そうですか。私も神父様と一緒にお祈りさせてください」

「リナリアは本当にいい子ですね。それでは行きましょうか。お祈りは明日行いましょう」


「いいですか? これは命令です。『南』の人間の心臓を集めなさい」

神父は最後に、マルセルのそう耳元で囁いた。閉じられる視界のなかで、マルセルは必死に遠ざかる神父の背中を追った。そして、彼の視線は少女の黒い瞳とぶつかる。

まるで水晶のように透き通って美しい瞳だった。

しかし、マルセルはその目に見覚えがあった。毎日鏡を見れば映っているものと同じだ。少女の瞳は自分のそれとよく似ていた。

暗くて、深くて――何もない。

そんな少女の瞳から目が離すことができなくなったが、マルセルの意識はそこで途絶えた。


          5


「う‥‥‥ぐッ、あ――」

 口の中に広がる血の味を確かめながら、マルセルは目の前に広がる黒い空を仰ぐ。

「分かっていた。分かっていたさ。ジーニアスが本当はいるってことくらい。でも、それを認めるわけにはいかねぇんだよ! それを認めちまえば、あいつは何のために死んだ! あいつは、何のために故郷を追われたッ! 僕は、どんな手を使ってでもジーニアスを‥‥‥『南』の人間をぶっ殺すと誓ったんだッ! 奇跡を願うのは自由なはずだッ!」

 先ほど見た過去の光景。あれが走馬灯と言うものだろうか。未知の体験に動揺しながらも、マルセルはのそのそと重い身体に鞭を打ち、目の前に立つ赤髪の半ジーニアスの青年に立ち向かう。

「フレイティア・ヴェスタ。確かにお前は何もしていない。これが僕の逆恨みだってことも分かっている。それでもッ! お前と言う存在が、そのままジーニアスの存在を証明してしまうんだッ! だから殺すしかないんだッ!」

「マルセル、ちゃんと事情を説明してくれッ! お前がやったことは絶対に許されねェことだが、それでも話さねェと本当に何も分かんねェぞッ!」

 フレイティアは上ずりながらも、精一杯の声で叫ぶ。

「僕はどんな手を使ってでもジーニアスを否定する。『南』を否定し尽くす。今日と言うこの日、お前たちを殺すお膳立てのためだけに大規模火災までも引き起こした僕の気持ちなど、分かるはずもなかろう。最初から話すだけ無駄なんだ」

 フレイティアはどこか悲しい顔をする。リナリアと出会うまでずっと一人で生きてきた彼だからこそ、マルセルの孤独が分かる気がするのだろうか。

「確かによォ。俺を殺すっていう、そんなちっぽけなことのためにお前は多くの罪を重ねすぎた。人を殺しすぎた。俺は全く理解できねェ。でも、頭で理解するのと‥‥‥そのなんつーか、心で分かろうとすることは違うんじゃねェか?」

(こいつ、この期に及んでまだそんなことを――)

「それに女子寮を襲撃したあのマスクの男、お前の部下なんだろ? 実際に拳を交えて分かったんだ。あいつにだって戦う理由があった。手段は間違ってるいるけど、自分の命を犠牲にしてでも実行するほど強い思いがあったんだ。こんなこと言うのも変かもしれねェけどよォ、あいつに殴られたとき、拳以上に痛いくらいの感情が伝わってきたんだ。それを、お前はなにも思わねェのかよッ!」

 マルセルは見たまま感想を心中で呟く。

(この目の前の男は、なぜ自分を殺そうとした者のために涙を流している? 僕には分からない)

「アイシャとのことだって! あんなガサツで乱暴な女でも、お前のことを信頼していたんだぞ。本当に、何とも思わねェのかッ!」

「ああ。何とも思わない」

 フレイティアの言葉を遮って、マルセルは冷たく言い放つ。その答えを受け、フレイティアは言葉を失った。

「もういい、うんざりだ。この傷ではどちらにせよ長くは保たない。だが、これでいい」

(ああ、なんでこうなってしまったのかなぁ)

「精霊の存在の証明を消すには、どちらにせよ、僕は死ななくてはならないのだから。ようやくここで運が味方をしたな‥‥‥ゴホッ、うぐッ」

(結局俺は、あいつらが辿りついた『精霊』の本質は分からずじまいか)

「ほら、早く僕を殺しに来い。そうでないと、うっかり僕の『軌道』がリナリアをぶち抜いてしまうかもしれないよ」

 マルセルは落ちている剣を拾い上げ、振り返ることなく後ろに彼の後ろに控えるリナリア達に切っ先を向ける。

「やめろッ! もういいだろマルセル! ‥‥‥もう、充分だ」

 アイシャは涙を滲ませながら膝を突き、声を枯らす。それを庇うようにリナリアは彼女の肩を抱き、エレクは重傷を負ったルーシーを支えながら静観していた。

(そもそも『才能』とは何だ? その源は何だ? 基準は? 意味は? 何を媒介にして表現し、それを認識する? 努力では才能に勝つことができないのか? そんなことないと否定したいが、今の僕には分からない)

 マルセルはぼやけた視界で迫ってくる赤髪の男を捉える。

「なぜだッ! なんで何も話さねェんだマルセル! お前をそこまで突き動かすものは何なんだッ! 言えエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!」

「‥‥‥‥‥‥、」

(どうしてこの男は涙を流している? 何のために? 誰のために? ‥‥‥本当に、この世界は分からないことだらけだ)

「‥‥‥う、がッ、お、おぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉぉおぉおぉおぉお――」

 どこかうっすらと笑みを浮かべながらマルセルは剣を捨て、右手を後ろに大きく引く。ヘルメットがない今、彼の表情はフレイティアにだけ伝わっていた。

(こいつ、どうして笑って――)

 二人がぶつかる直前、フレイティアにだけ見せた最後の表情。しかし、それが意味することは彼には分からない。ひょっとしたら、マルセル自身も気づいていなかったのかもしれない。

「どうしても止まらねェんなら、俺が止めてやるッ!」

 フレイティアの肘や背中から噴出される炎のブーストはさらに勢いを増し、振りかざす右手に纏う炎は槍のような形状に変化している。

マルセルが思い描いた目的、手段。それらは全てが間違いで、一個人の手に負えるレベルではなかった。しかし彼は、人生を賭して向き合うことができた研究に対して、そこに彼は喜びを見出したのだ。どこまでも純粋な、研究者としての喜びだ。疑問を感じたこと、興味を持ったことを追求する好奇心。そんな人間の原初的欲望のままに行動できた彼の人生が、灰色だったはずがない。

 結局、マルセル・オービットは『南』の人々に才能を与える精霊であるジーニアスが何であるか突き止めることはできなかった。それでも、何も変えることができなくても。

 それでも――

(意外と、悪くない人生だったかもな)

そして、真紅と白の影が一点で交差する。

 その場にいる者全てが息を呑み、ただ二人のやり取りを見つめ、やがて訪れる静寂を受け入れることしかできなかった。

 今までその場に張りつめていた緊張の糸が切れる。

 それは確かな、一つの戦いの静かなる終幕だった。

 フレイティアは自身の右腕の先を見る。彼の右腕からはポタリポタリと、暖かな雫が絶えることなく地面を濡らしていた。

 フレイティアの拳はマルセルの身体を貫いていた。血に染まった自らの腕を見つめ、フレイティアは一つの命を奪ったのだと思い知る。

「どうしてだ。どうしてお前はこうなるまで止まれなかったんだ」

 奪ったものの重さに押しつぶされ、その声は震える。

「この期に及んでまだそんな甘いことを‥‥‥」

「甘いのは――」

 マルセルの言葉を遮る。

「甘いのはどっちだッ!」

 マルセルを貫く右手が、彼の体温が徐々に低下していく過程を直に伝える。

「お前、俺を殺す気なかっただろうがッ! 本当にその気だったら、どうして俺は無傷で立っていられるッ! 畜生がッ!」

 それが分かっていたなら、話してくれさえすれば、こんな結末を迎えることはなかっただろうに。フレイティアはキュッと目を閉じ、血の気の失せたマルセルから目を逸らした。

 その時だ。ガシッとフレイティアの腕が掴まれる。それに反応し、彼は閉じた目を開け、潤んだ瞳をマルセルに向ける。

「この僕を見くびるんじゃない。お前は僕に勝った。その事実があれば十分だろう。これ以上その薄汚い手で『北』を貶めるな」

 口から大量の血液を垂らしながら、か細い声でマルセルは言う。フレイティアは何も返す言葉が見つからなかった。

「一つ、いいことを教えてやろう――」

直後、マルセルはフレイティアの肩を押し、自らと引き離す。マルセルのどこにそんな力が残っていたのだろうか。すでに満身創痍だったフレイティアは足の踏ん張りがきかず、さらに極度の緊張から解放されたことで意識が明滅していた。甚大なストレスを癒すために、身体が本能的にシャットダウンされようとしているのだった。

 視界が暗くなり意識が沈んでいく最中、彼の鼓膜が心地よい、温かい声を捉える。

「フレイィィィィィィィィッ!」

 フレイティアの背後で、アイシャが生み出す光の輪から出てきた少女の声だった。

「リナ‥‥‥リア?」

 フレイティアは倒れながらも首をひねり、声の主を本能的に求める。手を伸ばして彼女に触れたいと、思うが一ミリたりとも動かせない身体に歯がゆさを感じる。

 そんな時、フレイティアは背中に全てを包み込むような温かい体温を感じた。それは凍り付いた身体をじわじわと溶かす穏やかな炎。そんな炎に抱かれ、フレイティアはどこか懐かしい感覚を覚える。

「あッ、わわわ――」

 眠りかけている男は意外に重く、リナリアは倒れるフレイティアを背後から支えようと全身で受け止めに行くも、そのまま一緒に仰向けに倒れてしまう。

「フレイ‥‥‥フレイフレイフレイッ!!」

 土埃を巻き上げながら、リナリアは受け止めたフレイティアをヘッドロックする勢いで強く抱きしめた。

「死なないでフレイッ! 目を開けてくださいッ! 目を開けないと許しませんッ!」

 赤髪の男の身体に顔を擦りつけるようにして、リナリアはその存在を確かめる。

 一方フレイティアは必死に目を開けてと訴えるリナリアを尻目に、この心地よい温もりの中で寝付けたら幸せだろうと感じていた。目を開けたくない。このままリナリアに抱かれて眠りたい。絶対に目を開けない。いや、そもそも最初から開けるつもりなどなかった。

 決めた。このまま寝る。

「すぴー‥‥‥すぴー」

「フレイィィィィィィィィィ!! フレイが死んじゃったよぉぉぉッ! いやぁぁぁぁぁ!!」

「何言ってんだお前は」

 背後に現れたアイシャがリナリアの頭を軽く小突いた。

「良く見ろ。こいつは寝ているだけだ‥‥‥まったく、タフなやつだよ」

 そう空を見上げながら言う。

アイシャの言葉で落ち着きを取り戻したリナリアは、ふとバツが悪そうな顔した。

「支部長‥‥‥あの、その。マルセルさんはどうして――」

「ん? そうだなぁ‥‥‥」

 アイシャの反応はリナリアにとって意外なものだった。何が意外であったかはうまく言葉では表現できないし、そもそも他人の心を覗けない以上、全ては憶測にすぎないのだから大した差はないのかもしれない。

 だとしても、もっと取り乱すと思っていた。

 それでもあえてマルセルのことを持ち出したのは、フレイティアと自分が奪ってしまった命と、後に残された者に向き合わなければならないと感じたからである。

「あいつのことはよく分からん」

「‥‥‥、」

 あまりにもあっさりとした返答に戸惑いすら覚える。

「お、おい。何でお前が泣いてんだよ? 私、何かマズったか?」

「だって‥‥‥だって私」

 はにかみながら話すアイシャは、リナリアにはどことなく無理をしているように映る。

 それが、悔しくてたまらなかった。

「でも、それでも。私は、あいつを分かってやりたかった」

 悔しくて、悲しくて、切なくて。

言葉にしようとするとすぐに霧散してしまうほど曖昧な感情ではあるが、リナリアは必死にその思いに形を与えようとする。

「‥‥‥支部長はバカです」

「ああ、知ってる」

 リナリアは思った。こんなにも強くて、優しくて、でも不器用な人は見たことがないと。しかし、それは範囲を女性に限定した場合の話だ。

 リナリアはそんな人物をもう一人だけ知っている。

 膝の上で呑気に寝息を立てる男の赤髪を、そっと撫でた。


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ファンタジー 異世界 能力バトル
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