二章 『南』の守護者
1
ジーニアス・ホルダーレイアクール支部。
都市の中心地から少し離れたところに位置する建物の廊下をリナリアは歩く。『花見』機関とは違い、王権からの影響が弱いため建物自体はかなり簡素化されているが、それでも二百人以上の人員と、新たに採用された五十人の候補生を収容する宿舎を兼ねているため、そこそこの規模を誇っている。
彼女は昨晩アイシャに連れられ、専門家による精密検査をフレイティアと共に受けた後、そのままそこで一泊した。他人とほとんど免疫のない彼女にとって、男と同室で寝るというのにはかなり緊張したが、フレイティアがベッドに入って十秒で寝るという荒業を見せたため、杞憂に終わった。
検査結果。
フレイティアの身体には心臓がない。彼の心臓は今リナリアの身体の中にあり、それによって彼女は生かされている。
本来、人間とジーニアスの契約は互いの心臓を交換することによって成立するのだが、彼らの場合は片方にしか心臓が入っていない。それによる弊害はこうだ。
二人は十メートル以上離れられない。
離れた場合、フレイティアの生命活動は停止。しかし、すぐに距離を縮めれば回復する。
そして彼女はもう、人に触れてもジーニアスを消すことはない。
リナリアはアイシャが自分の検査を担当した医師に対して言った言葉を思い出す。
『先生よ、そんなに怖がるこたぁねーさ。リナリアはもう無害だぜ。この私が保証する』
そう言って、隣に立つリナリアの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ふふふッ」
その感触を思いだし、リナリアの顔が自然とニヤける。
(最初は怖い人だと思ったけど、すごく優しい人だったなぁ)
「おいリナリア、よそ見して歩いてんな。危ねェぞ」
不機嫌そうな顔をして、フレイティアはリナリアの数メートル後ろを歩いていた。
「そんな事言わないでくださいよ。私、ほとんど教会から出たことがなかったので、見る物全てが初めてなんです」
リナリアは目を輝かせながら、広い廊下を歩いていた。すれ違う人々の奇異な視線を気にすることなく、高揚感に任せて闊歩する。
「ったくよォ。こちとら肉が食えなくてナーバスだっつーのに、いい気なもんだぜ」
ブツブツ文句を言いながら、フレイティアは再び彼女の後ろ姿を捉える。リナリアとフレイティアはお揃いの赤い服に金の刺繍が入った服を着ていた。それは支部長アイシャと、その部下ラルフが着ていたものとは少し異なるものの、ジーニアス・ホルダーとしての制服である。小柄なリナリアは手の八割が袖に隠れてしまっており、すこし大きめだったのではないかとフレイティアは思う。
「おいッ! 前、前ッ!」
「え?」
フレイティアの警告も虚しく、リナリアは前から歩いてきた自分より少しの背の高い少女とぶつかる。その少女尻餅をつき、持っていた書類やカバンの中の物を勢いよくぶちまけた。
「ごめんなさい! 私、よそ見してて、本当にすみません」
必死で頭を下げるリナリア。その姿を見て眼鏡を掛けて同じ制服に身を包んだ少女は、はにかみながら応える。
「いやぁ、私もボーッとしてて。ごめんね」
眼鏡の少女はチロッと舌を出し、せっせとぶちまけた物を拾い始めた。リナリアも慌ててそれを手伝う。
「ったくよォ。付き合ってらんねェぜ」
悪態をついたフレイティアは、大股で二人を置いて先に進む。
「あんまり離れないでくださいね」
そう流して、リナリアは回収にいそしむ。拾い集める物の中には、たくさんのフィルムや映像を記録するディスクがあり、機械に疎いリナリアは素直に感心した。そして全て拾い集まったところで、リナリアはビデオカメラを大事そうに抱える眼鏡の少女に声をかける。
「本当にごめんなさい。その、壊れませんでしたか?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「ええと‥‥‥その――」
手をモジモジさせて、下を向きながらリナリアは言葉を絞り出そうと努力する。
「ん? なぁに?」
「ええと、ええと‥‥‥カメラとか、お好きなんですか?」
眼鏡の少女は微笑み、手にしたカメラを愛おしそうに撫でる。だがその顔は、すぐに曇った。
「うん、私にはこんな『才能』しか無いから。でも変だよね。こんな人の役に立たない才能でジーニアス・ホルダーを目指そうなんて」
そう伏し目がちに言う。
「そんな事ないと‥‥‥思います」
その言葉を受けたリナリアは、弱々しくはあるがはっきりと意思を示した。
「すごいと思います。私なんかより、その‥‥‥上手くは言えないけど、尊敬します」
その言葉を受け、眼鏡の少女は目を丸くする。そしてリナリアの両手を握った。
「そ、そうかな? えへへ、そんな事言われたの初めてかだよッ!」
そう言って、眼鏡の少女は少し照れた様子で親指を立てる。
「制服を着てるってことは、君も候補生ってことよね?」
「は、はい!」
「そっか。私はライカ。それじゃあ、また後でね」
そう言い残して、眼鏡の少女ライカは軽く手を振り、去る。自分も名乗ろうとしたが、あと一歩が踏み出せないリナリアは弱い自分に憤りを感じる。
「あ、あのう――」
彼女の背中に手を伸ばすも、虚しく空を切る。
人は簡単には変われないことは理解しているつもりだが、それでもリナリアの口からは深い溜め息がこぼれた。しかし、そんな落ち込んだ気持ちを打ち消すように、前方からの悲鳴が聞こえる。女性の甲高い叫び声から男の野太い声まで混じったものが、前方の人ごみから轟いたのだ。リナリアは驚いてビクッと身体を震わせ、音源の方に視線を走らせた。
人ごみの隙間を覗くと、そこには見覚えのある赤い髪があった。
(え、え? まさか!?)
内心では結論が出つつあるも、受け入れたくない現実がそこにはあった。リナリアは目分量で倒れている物体との距離を測り、再び溜め息を吐く。
人ごみからチラチラと伺えるその男は白目を剥いており、デローンとだらしなく垂ら
らした舌にはヨダレが糸を引いている。
(うぅぅぅぅ、恥ずかしい――)
リナリアは他人のふりをしながら近づき、フレイティアの横を通り過ぎることで彼の回復を図った。そして突然カッ!!と目を開いた彼は、周囲に群がる人ごみをかき分けリナリアの姿を探す。
「おいお前! また俺死んでたじゃねェかよ! ちょっとこっち来いこらッ!」
途端にリナリアはダッシュで逃亡を図る。
「バ、バカッ! 殺す気かよッ!」
全力で走るリナリアを追って、フレイティアも駆け出す。
死ぬまいと、死ぬ気で追いかける。
2
「いいか、よく聞け? お前らは腐ったミカンだ。己の『才能』を伸ばし、希望に溢れた未来図を想像できる、そんなぬるま湯で育った甘ったるい精神を持つお前らだから、あえて『腐った』と言ったのだ。ここにいる候補生諸君はそこそこ優れた『才能』を持っているだろうが、その自信を失うであろうことは覚悟してもらおう」
(おいおい、あの女容赦ねェなァ)
壇上に立つ支部長、アイシャ・ラルクロエはさながらロックスターのようにスタンドマイクを持ち、パイプ椅子に腰掛ける五十人の候補生たちに向かって支部長様としてのありがたい言葉をかけていた。
「だいたい、私が若い時はもっとこう、シャキッとしてたもんだ。今のガキ共は口を開いては『疲れた』だの『あげぽよ』だの『もうマジ無理リスカしょ』だのたるんでいやがる。それにもっとこう‥‥‥ああいうのはなんつーんだっけ? おいそこのお前、言ってみろ」
「はい、分かりません!」
「お前の顔覚えたかんなッ! 覚悟しておけよ」
縦に五人横十列で並ぶ席の、一番右後ろの二席にフレイティアとリナリアは腰掛けていた。だらしなく足を組み、カクンカクンと首を揺らして今にも寝てしまいそうなフレイティアをリナリアはチラチラ覗く。
(もうフレイティアさん危ないですよ! 首がガクンガクンしてますよ)
リナリアは周囲の視線を気にしながら、眠れる変態と前で演説をするアイシャの間で視線を行ったり来たりさせ、時折彼の肩を揺すったりしていた。
「‥‥‥んだよ、人が気持ちよくウトウトこいてんのによォ」
「あの人にバレたら大変ですって」
フレイティアは眠そうな目を擦りながらあくびをし、横目でリナリアを見てから軽く舌打ちをする。
(ほんとにこいつは気楽でいいぜ。はぁ‥‥‥何で俺がこんなこと考えなきゃなんねェんだよ)
まったくもって俺らしくないと、フレイティアは思う。だが、時として隠しておいた方がいい事実というものが存在することも理解できるのだ。
彼はふと、昨晩の検査の結果について回想する。
3
検査の結果は、リナリアとフレイティアはそれぞれ別々に、アイシャと医師のいる個室に呼ばれ報告された。しかし、二人には十メートルという生命線があるため、一人が結果を伝えられている時、もう一人は部屋の前で待機。リナリアがなにやら嬉しそうな顔で部屋から出てくるのを見てから、フレイティアは床から立ち上がり、個室に入った。
部屋に入ったフレイティアの目に入ったのは、光を放つ大きなディスプレイ。その前に座る眼鏡をかけた白衣の医師だ。記憶に新しい、彼らの検査を担当した男である。そして、医師が腰掛ける大きな机に手をつき、もたれ掛かるようにして支部長アイシャ・ラルクロエは立っていた。
「来たね、フレイティア君。こう見えて僕は忙しい身でね。さっそく本題に移らせてもらう」
「その前にいいっスか? どうしてこんな回りくどい事したんだよ。別にあいつと一緒でいいじゃねェか」
まぁまぁ、とアイシャが水を刺す。
「まぁ聞け。それにはちゃんとした理由があるからよう」
その言葉の後、ディスプレイに画像が映された。医師は机の引き出しから指示棒を取り出し、画像の一部を指し示す。
「あえて言う必要もないほどハッキリ映っているが、これが君たちを別々に呼んだ理由だ」
医師が指示棒で指したのは、体内をスキャンした写真。
「いいかい? この白くボヤけた塊はリナリアの心臓だ。そして元君の心臓である。にわかに信じがたいがね」
医師は眉間にしわを寄せる。
「だが、問題なのはそこじゃない。見れば分かるだろう。心臓の背後と、心臓に巻き付いているこの黒い影。これはいったい何だ?」
医師は指示棒で強く黒い影を指す。そして、フレイティアにはそれが何なのか思い当たる節があった。
(あれは‥‥‥あいつとの契約のとき、心臓のトコにあったやつか?)
「ここからは僕の仮説だが、いやぁね、正直リナリアに触れられたとき、僕はかなりビビった。それはもう死ぬほど――」
医師はそう言ってアイシャを睨み、彼女はそれを笑いながらあしらう。
「お前ってば本当にねちっこい性格してんなぁ。いい加減直せよ。私が大丈夫っつたら大丈夫なんだよッ!」
アイシャは睨む医師の背中をバシッと叩いて、喝を入れた。医師は割と痛そうなリアクションを取り、眉間に皺を寄せながら目に少し涙を溜める。
「――話を戻すぞ。僕は思うんだ。この、何かは分からないが、この影が彼女の未知の力の源だったんじゃないかと。何か分からない力は、何か分からないものに由来しているものさ。この南大陸ではな。その上で、君に聞きたい。彼女と契約した君は、この黒い影を直接見たはずなんだ」
医師の言葉を聞き、フレイティアは生唾を飲む。リナリアを一緒に呼ばなかったということは、おそらくだが、この黒い影は彼女にとって悪いものだということ。そんな予想が立つ。
「それは、リナリアにとって悪いものなのかよ?」
悪い予想が立ってしまうからこそ、慎重にならざるを得ない。
「はっきり言って、悪い」
「はっきり言うねェあんた」
「僕の才能はね、こういった写真を立体で見ることができるんだ。だから、平面では見えない部分も見ることができる」
眼鏡の医師は、そう言って指示棒でトントンと写真を二回叩く。すると、その写真がジワリジワリと浮き出し始めた。初めは半透明、且つ輪郭があやふやな液体とも個体ともいえないものだったが、やがてそれは模型のようにくっきりとした実体になる。造形が整ったところで医師はフレイティアを手招きした。
「こうすれば、写真では映らなかった見えざる真実というものを浮き彫りにすることができる。そしてこれは、二次元ではただの黒い影にしか見えなかったものだが、こうして立体にするとどうだ?」
「花と、ツルだな」
アイシャが率直に医師の質問に応えた。その通り、と医師が言う。
「君は、これを実際に見ているんじゃあないのか?」
「‥‥‥お前すげェな。初めて見たときはただのガリ勉兄さんだと思ったけど、さすがはジーニアス・ホルダーが抱えるお医者様だぜ」
失礼なやつだなと、医師はジト目で呟き、それを聞いたアイシャは豪快に笑う。
「リナリアに俺の心臓を移す時だった。開いた胸から、いきなり黒い花びらが吹き出したんだよ。それでよォ、ツル? それが俺の心臓に絡みついてきて、花の中心部にぴったり納まったってわけだ」
「‥‥‥なるほど。心臓を絡め取るか」
医師はフレイティアの話を聞いてから、黙り込む。フレイティアは、自分の話に対する反応を求めて何度か声をかけたが、医師は下を向いて唸り続けるだけだ。
「フレイティア、諦めろ。こいつは一度考えだしたら何も聞こえなくなる」
「あんたさっきから、コイツのこと知ってるような口ぶりだけど、いったいどんな関係よ? もしかしてデキちゃってたりすんの? お熱いのですかな? けけッ!」
アイシャは無言の拳でフレイティアを沈める。
「ッ痛ェちくしょう!」
頭を抱えてうずくまる赤髪を尻目に、アイシャは懐かしそうに目を細めた。
「ああ。マルセルは、私がまだ支部長として日の浅い時に医師としてここに採用されたんだ。もう三年の付き合いになるな。まったく、時が流れるのは早い」
「それはてめぇがババアだから――」
「ああん!? なんか言ったかてめぇ」
暇を持て余した二人の雑談が二、三分続いたところで、マルセルが顔を上げる。
「ここを見てくれ」
「おおう!? 突然なんだよッ」
少し驚きながら、フレイティアはマルセルが指差す心臓と花の模型を見る。
「ここだ、ここ。このツルが心臓を圧迫しているここ。本当にわずかだが、この部分、ツルと溶け合っているように見えないか?」
フレイティアとアイシャは顔を見合わせ、微妙な反応をする。
「まぁ、専門家でも見つけられる者は少ないだろう。しかしこれは、君の証言を得るまでにあらかじめ得ていた情報だ。そして、たった今聞いたツルが君の心臓を絡め取ったということ」
ここで若干の溜めが入る。
「この二つを考えると、僕には、この『花』が生きているとしか思えない」
二人を置き去りにして、マルセルは熱説を続ける。
「君と彼女が契約したのは四日前だと聞いた。そして、現在の侵食面積を四日という時間で割る‥‥‥本当はもっと手間がかかっているが、まぁそこは省こう。そして『花』による心臓の侵食スピードが求められたわけだが――」
「ちょっと待ってくれ。話が急展開すぎっぞ。侵食ってお前‥‥‥何言ってんだよ。それじゃあまるで――」
「そうだ。このスピードで侵食が続けば‥‥‥そうだな。長く見積もって十年というところか。この心臓が保つのは」
つまりそれは、リナリアの中に入っているフレイティアの心臓の寿命が十年であるということ。頭ではそう理解できる。理解できるが――
「ということは、十年で心臓は完全に『花』に乗っ取られるってことだな?」
ずっと黙って話を聞いていたアイシャが、そこで口を開く。それに、首を縦に振ることで応えるマルセル。
「理解が早くて助かる。先ほども言ったが、僕はリナリアのジーニアスを消し飛ばす力は、この花のせいだったと思う。他の人間と比べても至って普通な彼女の、唯一の特異点がこの『花』だからだ」
そこで再び一拍溜める。自分の頭の中でまとめた結論を素人でも分かる言葉で表現するのは、骨が折れる作業なのだろうか。マルセルは、手元に置いてあるコーヒーを一口すすった。
「リナリアの才能を消してしまう現象は、十年後に再び戻るぞ」
「‥‥‥‥‥‥、」
フレイティアの握る拳が、力を失ったように解かれる。
医師マルセルが導き出した答えは、フレイティアの脳天から足の先までの筋肉を麻痺させていく。それほどまでの衝撃。それに伴う脱力感。
「‥‥‥んだよ。なんだよそれッ!! ふざけんなッ!! あいつは今までずっと苦しんできたんだぞ。誰にも触れられず、誰からも必要とされねェ。あいつの中に入ってるから、俺にはそれが分かんだよッ!」
その場に崩れてしまわないようにするためには、せいぜい怒鳴って無理やり気分を高めるしかない。怒鳴ってもしょうがないことはフレイティアも分かっている。しかしそれでは、この気持ちはどこへ放り投げればいいのか。
「クソがッ! お前がリナリアをこの部屋に呼ばなかった理由がようやく分かったぜ。どうせ薄々は分かってたんだろ? 俺との契約なんてその場しのぎの応急処置にすぎねェってことをよォ」
「おいフレイティア、落ち着け――」
「ババアは黙ってろ!」
「誰に向かって言ってんだこのクソガキが!」
アイシャはフレイティアの顔を思い切り殴る。
「君は本当に容赦がないな。昔を思い出すよ。主に悪い記憶だが」
アイシャの打撃で倒れたフレイティアは、仰向けの状態で吠える。
「だったら‥‥‥だったら、どうすればいいんだよォ!! あんた医者だろォが!! なんか解決策はねェのかよッ!」
アイシャのパンチで口の中を切ったのか、口から流れる血を手で拭いながら、フレイティアは立ち上がる。
「もちろんある」
「「なにッ!?」」
フレイティアとアイシャの言葉がハモった。それじゃぁ殴られ損だとか、こんなガキとハモるなんて腹が立つだとか、思い思いの言葉を口にしながら、二人はいがみ合う。
「聞いてくれ二人とも。確かにこのままでは、リナリアの心臓の主導権は『花』のものとなり、彼女の呪いとも言える力が戻るだけではなく、フレイティア、心臓を失った君は本当に死ぬかもしれない。彼女から十メートル離れた時に陥る停止ではなく、本当の死だ。そうならないための方法。いや、可能性が一つだけあるかもしれない」
うつむくマルセルの表情が、フレイティアには分からない。そのせいか、彼の心に渦巻く不安が限界まで煽られている。
「何だよッ! 勿体付けずに早く言いやがれッ!」
悔しさと焦燥感に任せて、マルセルの座す机を叩きつけた。
対して、落ち着き払っているマルセルは一言だけ嘯く。
「君は『北』へ行く必要がある」
今にも殴りかかろうとしていたフレイティアの拳がぴたりちと静止した。同時にアイシャが苦笑いを浮かべながら話す。
「‥‥‥おいマルセル、『北』って、北大陸のことか? お前、自分が何言ってるか分かってんのか? 冗談きついぜ」
「冗談など言っていない」
軽く笑ったアイシャに、大真面目で応えるマルセル。だが、医師が放った言葉に対するフレイティアの反応は、アイシャとは全く異なるものだった。
「詳しく聞かせろ」
藁をも掴む気持ちで、フレイティアはマルセルの話に耳を傾ける。
自分の命だけではない。
長く苦しい時を経て外へ出られた少女に対してこの仕打ちは、あまりにも酷いではないか。
「君たち二人は、『北』で新たな心臓を手に入れなければならない。『北』の技術なら、それが可能だろう」
4
「ったくよォ、お前のせいですっかり目が覚めちまったぜ」
そう言いながらフレイティアはあくびをしながら壇上のアイシャへと視線を戻す。
(十年か‥‥‥)
まだ若い二人にとっては長く感じられる時間。しかし、人生を決定づける時間としては短すぎる。ただでさえ緊張状態が続く『南』と『北』。いつ戦争が始まってもおかしくない状況で『北』に潜入し、さらには『北』の人間による治療を受けなけらばならない。いくらフレイティアがバカでも、これがあまりに現実的でないことくらいは分かる。
(現実的でない問題を解決できるのは、現実的でない手段だけ。なんとかやるしかねェが、どうしたもんか‥‥‥ずっとリナリアに隠しっぱなしってワケにもいかねェだろうしよォ)
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――」
「ちょっとどうしたんですか!?頭から湯気が出てますよ」
隣に座る変態の急変ぶりに驚くリナリア。それゆえ少し大きい声が出てしまい、ついにアイシャの目にとまってしまう。
「要するに私が言いたいことはだなぁ、食べ物は腐りかけが美味いって言うがそれは嘘だ! ガッハッハ――っておいそこッ、私語は禁止だっつってんだろッ!」
アイシャは頭を抱えて沸騰するフレイティアを確認してから、デコピンを空中に向かって放つ。すると、その瞬間フレイティアの身体が座っていた椅子を巻き添えにして吹き飛んだ。
「ッ痛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!? 何すんだこのやろう!」
ひっくり返ったフレイティアは目に涙を浮かべながらアイシャに向かって怒鳴る。そして当然、会場にいる候補生たちの視線は彼に集中する。それによって起こり得る自体は予測がつくだろう。
フレイティアと同じ列、最後列の左端で一人の男が立ち上がった。金髪碧眼のその青年はフレイティアを指差し、声高らかに叫ぶ。
「俺はこいつを知っているぞ。みんなも知っているはずだッ! おいバーニア、資料をッ!」
「はいエレクさん!」
差し出された手に、バーニアと呼ばれた隣に座る茶髪の少年が丸められた紙を手渡した。満足気な顔をして受け取った紙を、金髪碧眼の青年はみんなに見せるように広げる。
「俺は候補生主席のエレク・デミオン。これを見てくれ! そこに寝ているいかにもガラの悪そうな赤髪チンピラは、あの『燃える変態』フレイティア・ヴェスタで間違いないッ!」
周囲にざわめきが広がる。
「今は小奇麗な格好をしているから分かりづらいかもしれないが、間違いなくやつだ! バーニア、もう一枚の資料を」
鼻息を荒げながらエレクは熱の入った演説を続ける。そして、手渡されたもう一枚の紙を見て、彼は口を歪めた。
「俺たちにとって、三年前の『悲劇』はまだ記憶に新しいと思う。そして、こんなこと思い出したくもないことなのだが、どうやらそういう訳にもいかないらしい」
エレクは縮こまって座っているリナリアを見る。彼女は目を合わせないように横を向いた。
リナリアは最初からきっとこうなるであろうことを分かっていた。元指名手配犯であるフレイティアのパートナーであるとともに、自分はあの『悲劇』の当事者。今まで教会で隠れて過ごしてきため、そのほとぼりは冷めたかもしれないが、人々に与えた衝撃と傷は簡単には消えない。
(分かってる。こうなることは全て分かっていたことだから‥‥‥)
握り締める拳に力が入り、プルプルと震えだす。
「そこにいる黒髪の女、どういうわけでジーニアス・ホルダーの候補生になったかは知らないが、そいつに触ると人間は契約したジーニアスを消され、才能を失うという。危険だから離れたほうがいい」
エレクは確信をもった発言によって、まず講堂内に静寂が訪れる。誰もがエレクの発言の真偽を確かめる情報を欲しているのだ。また、リナリアは今まで歴史の闇として葬られ、隠されてきたためその情報はかなり少ない。このまま金髪碧眼の勘違いという流れになって欲しいと、リナリアは切に願う。
「‥‥‥あ、あのう。僕、あの人のこと、知ってます」
一人の少年がおずおずと手を挙げながら、静寂を破った。
「ぼ、僕、ちょうど三年前にジーニアスと契約をし、したので、よく覚えています」
(そんな――)
リナリアにとって、最も都合の悪いこと。それはこの場に三年前の儀式の参加者がいることだ。実際の目撃情報は、彼女に対する恐怖心、嫌悪感などの負の感情を煽るのにちょうどいい材料となる。
「あれは、悪魔だ‥‥‥」
少年が放った言葉がリナリアの頭で反芻し、同時にその場から逃げ出したい気持ちになる。彼女が追い詰められている様子を見定めると、エレクは席から離れて同じ列の右端に座るフレイティアとリナリアに向かって指を指す。
「どうしてこんな奴らがここにいるのか? 俺は彼らを採用試験で見ていない。そこの説明を支部長、あなたに要求する」
そしてエレクは大きく息を吸い、
「これは民意だッ! 民意は何よりも尊重しなくてはならないッ!」
フレイティアとリナリア、二人が危険な存在であると認識するに充分な材料を手に入れた候補生たちは、徐々に思考による静寂から立ち戻る。そして、エレクに賛成する者たちがポツリポツリとにアイシャに対して説明を求め始め、それはしだいに数を増やす。
リナリアの周囲の席からはいつのまにか人がいなくなり、別の場所へ避難している。それを見たリナリアはついに限界を迎えた。自分の過去と決別できると信じていたがそれもここまで。
彼女の目には、この講堂が三年前の再現のように映っていた。
「いや‥‥‥いやだ。もう、一人ぼっちは――」
リナリアの足が自然と出口に向かう。今度こそ心が完全に壊れてしまう。そうならないための、自己防衛本能。
「おい待てよ」
アイシャのデコピンを食らって倒れていたフレイティアが、立ち上がりながらリナリアの手を掴む。
「優等生さんよォ。かーちゃんから習わなかったのか?――」
リナリアを手元に引き寄せならが、フレイティアは侮蔑の視線を向けるエレクに敵意丸出しの視線を送る。
「人を指差すもんじゃねェぜ! おら、行って来いリナリアッ!」
同時にフレイティアはエレクに向かって、リナリアを押し飛ばす。
「な、何をするんですかァァァァァ!?」
問答無用にエレクに直進するリナリアがいくら抗議をしても、それは後の祭り。目に溜まっていた涙をこぼしながら、彼女は上ずった悲鳴を上げる。
「ぎゃああああああああああ!! 来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
リナリアの悲鳴を打ち消すほどの絶叫。その発信源は彼女を追い込んだエレク自身だった。エレクは自分に向かって直進してくるリナリアを見ると、逃げるために後退しようとした。しかし恐怖で足がもつれ、仰向けに倒れる。そして、そこに倒れ込んでくるリナリア。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、この俺がぁぁぁ! おいそこのお前、何カメラ回してんだッ‥‥‥って、ぎょええええええええええええええええええええええ!!」
リナリアに怯えるエレクを録画しているのは、リナリアと廊下で会った眼鏡の少女ライカだった。
「これが私の仕事だもん」
そう言ってリナリアに向かってウィンクする。直後、バキィと鈍い音を立てながら、リナリアがエレクに覆いかぶさる形で二人はぶつかった。
「いてて。ごめんなさい。私‥‥‥その」
目を開けたリナリアの目の前にいたのは、白目を剥いて倒れるエレク。
「エ、エレクさぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
なにげに自分の身の安全だけはしっかり確保していたバーニアが遠巻きから叫び、エレクはその声でハッと目覚める。
「お、俺はどうして倒れているのだ‥‥‥」
二人の目が合う。
リナリアは謝りながら、彼の上からどく。彼女から解放されたエレクは自分の両手を見て、そして周囲を見渡した。彼の目から見た候補生たちの頭上には、赤色の上向き矢印、青色の下向き矢印、そして緑色のアンダーバーが映っている。
(い、いかん。せっかく上げた支持率が下がっている。どうにかしなければ――)
そこまで考えて、エレクは「ん?」と思う。駆けつけたバーニアに起こされながら、エレクはフレイティアの胸をポカポカ殴るリナリアを見た。
「あれ、『才能』が消えていないぞ」
そこでようやくアイシャが口を開く。
「お前ら、静粛にしやがれ! まぁ生意気だが、そいつが言うのも最もだ。そこにいる二人は私がスカウトした。リナリア・シュガーロットは確かに三年前の『悲劇』を引き起こした張本人。だが、実際に触れられて、醜態を晒した主席くんは理解できたろ? そいつはもう無害だってことをな」
エレクは苦い顔をして、アイシャの言葉を聞く。
(クソッ! みんなが支部長の話を聞いてるせいでどんどん支持率が下がっている。俺としたことが――)
彼の目にだけ見える頭上の矢印。先ほどの演説中は全体の八割が赤色の上向き矢印、つまり『あなたを支持します』状態だったのにも関わらず、現在では『無投票』のアンダーバーがかなり増えてしまっている。且つ、『支持しません』の青色の下向き矢印の数も若干増えたため、その支持率は五割程度にまで落ちていた。
「そして、フレイティア・ヴェスタはリナリアのパートナーとしてここにいる。まぁ、そういうわけだ。詳しいことは支部長権限で話さないから諦めな。そんでもって、こいつらは支部長である偉い私が選んだやつらだ。仲良くするように。以上」
(まずいぞッ! さらに俺への支持率が減ってしまった。候補生たちは完全に支部長の言うことを信じている。だからもう、リナリア・シュガーロットを貶めることでの得票数を稼ぐのは難しい。どうすればいいのだ)
支部長アイシャの言葉で、リナリアへの恐怖はかなり薄まっていた。時折、怖いもの見たさの興味でリナリアの方をチラチラと振り返る人はいるものの、講堂内は完全に落ち着きを取り戻し、オリエンテーションは進行する。
そして最後に、司会のラルフが質疑応答の時間を設けた。
(これだッ!)
エレクが、支持率アップの方法を閃く。
(少々賭けになるが、結果的に俺が勝てばいいのだ)
邪悪な薄ら笑いを浮かべながら、彼は手を上げて立ち上がる。
「先ほどはすみませんでした。確かに、シュガーロットさんが無害であることは身をもって理解し、同時に先ほどの無礼をお詫びします」
(いいぞいいぞ。殊勝な態度を見せることで支持率が少し上がった)
「ですが、納得ができないこともあります。俺たちはみんなテストをクリアし、互いの実力を認めた上でここにいるわけですが、彼らの力は分からない。共に戦っていく仲間として、これでは背中を預けられません」
「ああん? 何だてめぇ、ケンカ売ってんのか!」
フレイティアが今にも殴りかかろうとする剣幕でエレクに吠える。そして、エレクの意見に応えるため、アイシャが席を立つ
「まったく、今年の新人は態度がデカくていけねぇ。要するにお前は、二人の実力が見たいってことか?」
「はい、彼らが信用に足る人物であるかどうか、ともに戦える仲間であるかどうか見極めたいのです」
アイシャは司会席のラルフとアイコンタクトを取り、再びエレクに向き直る。
「いいだろう。では、急遽プログラムの変更を行う。このあとはジーニアス・ホルダーによる一対一のデモンストレーションを計画していたが‥‥‥フレイティアいいか? お前が代わりにやれ」
「ああん!? なんで俺が金髪ヘタレの意見に従わなくちゃいけねェんだよ」
「いいな?」
「わ、分かったから! 振り上げた手を下ろせバカッ!」
結局、一発殴られるフレイティア。アイシャは話を続ける。
「対戦相手はこちらで用意しよう。それでいいかな、デミオンくん」
(これを待っていたのだッ! この脳筋女なら俺の誘いに応えると思っていたッ! こいつらチョロイぜ)
エレクは必死に笑いを堪えて、アイシャに応える。そしてすごく嬉しそうな主人の顔を見て疑問に思うバーニア。
「俺は彼の力を直接見たいのです。だから、相手は俺がします」
アイシャは一瞬目を丸くし、その後豪快に笑い飛ばす。候補生たちは、なにやらすごいことになってきたぞという興味主体の感想を各々こぼした。
「本当に今年は面白い奴が多いぜ。まぁ、せいぜい火傷には気をつけろよ」
5
そこは四方が厚い壁で囲まれた、縦横三十メートルほどの部屋。その中心に用意されたステージを囲むように候補生とジーニアス・ホルダーが各々の姿勢で二人の姿を眺めている。フレイティア・ヴェスタとエレク・デミオンがラルフを挟んで睨み合う姿がそこにはあった。
リナリアは十メートル以上離れないように、一人体操座りをして契約をした精霊の姿を見る。彼女に危険性がないことは証明されても、それが受け入れられるのにはもう少し時間がかかりそうだった。
「一人で何してんの?」
そこに、リナリアの肩をポンと叩いた少女が一人。突然のことだったので、リナリアはビクッと身体を震わせて驚く。
「ライカさん」
「ライカ・ハッセル。ライカでいいよ。君にはこれを見せようと思ってね‥‥‥えへへ、よく録れてるでしょ?」
ライカがリナリアに見せたのは、先ほどの講堂での騒ぎ。リナリアがフレイティアに押し飛ばされてエレクを押し倒し、彼が恐怖のあまり白目を剥いてしまった映像だった。
「こ、これは‥‥‥こんなの怒られますよッ!」
「君は物事を深く考えすぎ。もっと気楽に生きようよ。そこの彼みたいにさ」
ライカは笑いながらフレイティアを指差す。が、リナリアは不思議に思った。それは疑問というよりは違和感に近い。
(どうしてこの人は、私に優しくしてくれるんだろう)
初めて会ったときは、自分のことを知らなかっただけかもしれない。でも、こうして全てが明らかになった今でも、ライカは普通に接してくれる。
「あのう、ライカは‥‥‥その、どうして私をかまってくれるの?」
ビデオカメラに新しいディスクをセットしているライカに、リナリアは勇気を振り絞って聞く。質問を受けたライカは、心底不思議そうな顔をした。
「そりゃ私もね、三年前の事件は知ってるよ。でもリナリアを初めて見たとき、その当事者だとは思わなかった。後からその情報を聞かされたときは少し驚いたけどさ、私は私の直感を信じる。君が良い人だっていうね」
それに、と彼女は付け加える。
「私はこうやって、ありのままを撮るのが仕事でさ。ありのままの君は、とても記録として残っている人物には思えなかったんだよ。だからあなたは良い人。私の『才能』に誓って‥‥‥って、なんで泣いてるの!? ごめん! ごめんよ!」
おろおろと手のひらを見せるライカに対し、リナリアは首を横に振る。
「ぐす‥‥‥えっく、そんな事言ってもらったの、初めてで。その、嬉しくて」
「え!? あの恋人くんはそういうこと言ってくれないの?」
「恋人じゃありません」
エレク・デミオンは周囲を見渡す。
このシミュレーションルームには六十三人の傍観者がいる。彼の目は、自分を支持するもの、支持しないもの、無関心の三つを見分けることができ、その支持率を計算していた。
(さすがはジーニアス・ホルダー。俺とあいつを公平な目で見ているな。『無投票』だ。しかし、それにしたって候補生たちの支持率が思ったより低い。約六割といったところか。これでは俺のジーニアス、『民意召喚』が力を発揮しきれない。もうひと押しってところだな)
「みなさん、俺は新たなる仲間フレイティアを歓迎しようと思う。過去に何があったかは、今は水に流そうではないか。こうして拳を交えれば、情報以上の何か、そう友情というものが生まれるだろう。俺は、それを期待する」
そう声高らかに宣言し、エレクはフレイティアに握手を求める。
周りの反応としては、
「さすが候補生主席だ、懐の深さが違うぜ」「あの人と一緒のチームになれたら素敵よね」など。
(きたきたきたきたきたァァァァァァァッ! 俺の支持率が伸びているッ!)
エレクは顔がニヤケそうになるのを必死でこらえる。
「フン、スカした野郎だぜ。ぶっ飛ばしてやるから覚悟しろ。つーか真っ先に俺らの過去に食いついてきたてめぇがよく言うぜ」
そう言ってツバを吐き捨てる。
エレクの握手に応じなかったフレイティアに対する周りの反応としては、
「あいつ、主席が仲良くしようと言ってくれているのに!」「しょせん変態ね」など。
(馬鹿めッ! かつて『最強の食い逃げ』と呼ばれていたお前の実力を知る者はお前に期待をしていたのに、今の態度で一気に支持率が下落したぞッ!)
エレクが下準備を済ませたところで、ラルフが開始の合図をする。
「それではお互い十歩下がって‥‥‥始め!」
合図と同時に飛び出したのはフレイティア。得意の炎のブーストで急加速し、エレクが振り向くと同時のタイミングで顔面に拳を叩き込もうとする。
「なかなか速い‥‥‥が、今のお前の支持率では、この俺には遠く及ばんッ!」
「ああん!? 止めやがるだと?」
紙一重のタイミング、エレクは片手でフレイティアの拳を受け止める。
(今の状態は、無効票十三、俺が三十九票、お前が十一票。少々得票数は少ないが、八割近い支持率を得た俺の身体能力はお前ごとき敵ではないのだッ!)
彼は受け止めたフレイティアの右手首を掴み、そのまま片手で一本背負いに入る。予想外の腕力に振り回され、フレイティアは受身を取れない。そして次の瞬間、大きな弧を描いて彼は思い切り硬い床に叩きつけられた。
意外と早く着いた決着に、多くの人間が落胆する。所詮は犯罪者。本物のエリートの敵ではないと罵る声も多い。が、一部の人間はある違和感を覚えていた。
音がしないのだ。誰もが想像した、骨が砕ける鈍い音がしないのだ。
代わりに聞こえるのが、ゴォォォという空気の膨張音。
「おお! この服、思い切り炎を噴射しても燃えねェんだな。すげーじゃん」
エレクは掴んでいたフレイティアの手首を思わず手放す。彼は二メートルほど後退し、右手を見た。すると手のひらが焼け爛れているではないか。
「少し驚いたぞ。支持率八割弱の俺の手を焼くほどの熱だとはな。二つの意味で」
(今日の俺はギャグも光っているぜ)
得意顔のエレク。
「ああん? 支持率? 何言ってんだてめぇ。そういう小難しい話はナシで行こうぜッ!」
フレイティアは背中から炎を噴射し、激突の勢いを殺したのだ。つまりはホバリング。床から数センチ上で彼の身体は浮いていた。
そしてフレイティアは背中からの噴射の勢いで一気に立ちあがり、再びエレクに向かって突進する。
「お前が強ェのは分かった。どんな才能か見当もつかねェ。でも、俺の炎が効く。それだけ分かれば充分だぜ」
フレイティアは拳や足を使い、目に止まらぬラッシュを仕掛けた。だが、エレクはそれを冷静に回避してみせる。
が、心中ではこうだ。
(まずい。民衆に弱みを見せては支持率がッ!?)
エレクは動揺を人前に見せてはいけない。困難な状況でも弱みを晒してはいけない。人々が自分に抱く期待、声援、それらが彼の身体能力や強度を増幅させるのだから。。
「素晴らしいぞフレイティア、見事だ!」
(こいつに直に触れれば焼かれてしまう。ならば、制服の上から殴ればよかろうッ!)
あくまで余裕の、人々の上に立つ存在として振舞うエレクの支持率は落ちていない。それは攻撃を交わしながら確認した。
「おやぁ? 主席様が防戦一方のようだぜ。早く負けを認めちまえよ」
フレイティアは笑いながら、皮肉を込めた言葉を放つ。
(俺の『民意召喚』は相手の自分自身に対する『支持』を奪うことで真価を発揮する。つまりは、心をへし折ればいい! 俺に立ち向かう心をな! そのためにはやはり、顔面をブチ抜くのが手っ取り早かろうッ!)
結論を出したエレクはフレイティアのラッシュから逃れるように後ろへ跳ぶ。そして彼は着ていた制服の上だけを脱ぎ、それをバカ正直に直進してくるフレイティアに向かって投げつけた。それはエレクの思惑通りフレイティアの顔に覆いかぶさり、彼の動きを止める。
「うおわッ!? てめッ、何しやがるッ!」
予想外の方法で視界を封じられたフレイティアは足を止め、顔に張り付いた服を剥がそうともがく。しかし、エレクの目的は視界を封じることではない。あくまでフレイティアの顔面を殴り、心を折ること。服は炎を阻害するためのものだ。
「見つけたぞ、お前の隙をッ!」
雄叫びを上げながらエレクがフレイティアに突進する。そして彼の拳が伸びる先は、『燃える変態』の顔面。柔軟な戦い方に会場が沸く。その甲斐あってか、現在会場のエレクの支持率は八割を超えていた。フレイティアに攻撃を避ける気配はない。これで決まりだと、誰もが思った。
結論から言うと、フレイティアは首を捻ることで間一髪攻撃を避けた。
では、なぜ避けられたのか。
決着を確信したエレクは、自らの拳が空を切ったことに驚きを隠せない。そして、彼は気づいた。フレイティアの外周を囲むように炎が半径一メートルの円を床に描いていたのだ。
(だからといって、それが何だと言うのだッ! そんなものが躱した理由になるとでも!?)
勢いを殺しそこねたエレクはそのままフレイティアを通り越したところで、立ち止まる。
「なぜだ! どうして避けられた!?」
フレイティアは顔に被さったエレクの制服を床に投げ捨てながらポツリと呟く。
「上昇気流――」
その言葉を聞き、エレクは再びフレイティアの足元の炎を見る。そしてハッとした表情を見せた。
「足元の円上の炎は、俺の周囲を取り囲むように上昇気流を発生させた。そして、その高温に熱せられた空気を冷やしたのはお前の腕だ。炎は酸素を燃焼する。炎を操る俺はそういった空気の動きにちょっとばかし敏感なんだぜ」
「こいつ‥‥‥」
決して侮っていたわけではない。
決して油断していたわけでもない。
ただ、この赤髪の男の潜在能力が予想を上回っていたのだ。
エレクはオーディエンスを見渡す。二人のデモンストレーションを見守る候補生たちは、主席が予想以上に手こずっている姿を見て、戸惑いの色を隠せないでいた。そしてそれは、彼への支持率に顕著に現れている。
(まずい。今ので俺の得票数が減ってしまった。数は‥‥‥三十二だと !?くそッ! 人心掌握の天才、政治家の息子であるこの俺がッ!)
「面白い! 面白いぞッ!」
しかし、それでもエレクは弱みを見せるわけにはいかない。あくまで余裕の表情で、あたかも計算通りだという態度をとり続ける。
「ねぇ、彼、フレイティア君だっけ? 君のパートナーすごいじゃん。主席と互角に渡り合ってるよ」
「そう‥‥‥ですね」
歓声や野次といった様々な声が飛び交うシミュレーションルーム、その特設ステージのそばで、リナリアとライカは二人の一騎打ちを静観していた。
「フレイティアくんって本当に何者? ただの『変態』には見えないね」
「私も、その‥‥‥フレイティアさんのことはよく分からなくて――」
言葉を詰まらせながら、ライカの質問に応える。そして今更気づく。自分はあまりに彼のことを知らないのだと。
「――でも、いいんです。言葉では上手く言えないんですけど、その‥‥‥なぜかあの人のことは信頼できるんです」
(あの人は私の一部であり、全てだから‥‥‥)
そう、心の中でひっそりと思う。
リナリアの反応を終始ニヤニヤしながら見ていたライカはフフンと思わしげに微笑み、そしてリナリアに対して難題を押し付けた。
「だったらさ、彼のこと応援してあげないと、ちゃんと聞こえるようにね」
「聞こえるようにって‥‥‥そんな――」
言葉に詰まる。
(そんな恥ずかしいことできるわけない)
「でも彼、このままじゃちょっとキツイんじゃないかな?」
そう言って、ビデオカメラを回しながらリナリアに忠告する。確かに、フレイティアは先程から防戦一方だ。意外な方法で攻撃を避けたとはいえ、その後はずっと主席の攻撃を躱し続けるだけである。このままではやがて押し切られ、痛恨の一撃を食らうだろう。主席の才能がどんなものかは分からないが、ピンチであることは素人目にも分かる。
(応援‥‥‥しなきゃ――)
トクントクンと、心臓の鼓動が早まる。自分の中で動く彼の心臓が、熱い血液を全身に運ぶ。
「なぁアンタ、さっきより動きのキレが落ちてるぜ。主席さんよォ」
「お前こそ、そろそろ限界なんじゃないのか?」
フレイティアの身体のあちこちには、エレクの拳による擦過傷ができている。エレクの腕や顔にはいくつもの火傷の痕が伺える。お互いの力量はほぼ互角。一歩も退かない攻防戦は、少しずつ二人の体力を奪っていた。そこから読み取れることは、決着のときは近いということ。
それを本能で感じ取った二人は、一旦距離を取る。
(あともうひと押しなんだ。あと少し得票数を伸ばすことができれば、決定的な差が生まれる。これが最後のチャンスだ)
エレクは距離を取った隙に大きく息を吸い、最後の演説を試みる。
「フレイティアくん、君のおかげでとても良いデモンストレーションになった。俺の身勝手な提案に協力してくれて、本当にありがとう。君の力は、今ここに証明されたッ!」
「余裕ブッこいてんじゃあねェぞ! 早いとこ続きをやろうぜ」
フレイティアはまたしてもエレクの言葉を無下にし、ヘラヘラと笑いながら軽快なステップを踏む。
「いいだろう‥‥‥では行くぞッ!」
(もはや俺の勝利は疑いようもない。今、会場は俺の人間性に感動しているッ!)
満面の笑みを浮かべ、エレクは赤のシルエットに圧倒的な民意を振りかざす。
リナリアは会場の空気で悟った。流れは完全にエレクに傾いていると。先程までの拮抗状態は、たった今砕かれたのだ。
会場が、その場にいる全ての人が、エレクの勝利を望んでいる。
(私は何を‥‥‥フレイティアさんの味方は私しかいないのに――)
リナリアは口をパクパクさせる。緊張で口の中が乾燥する。「がんばれ」の、たった一言が言えない。キュッっと目を閉じると、涙が滲み出た。
(違う。泣いても何も変わらない)
そして、相対する二人は動き出す。エレクはさらに鋭い動きを見せ、フレイティアは右肘、背中、両足から炎のブーストを噴射して急加速した。
二人の掛け声が重なり、それは会場内の喧騒を打ち消す。もうこのシミュレーションルームには、フレイティアとエレクの二人しかいない。それは二人の決着を付けるためだけの世界と化していた。
だがしかし、そんな二人だけの世界に介入するものが一つだけあった。
「が、がんばれぇぇぇぇぇぇぇ‥‥‥フレイぃぃぃぃぃ!!」
裏返った声は、その場の人々の視線を一斉に集める。隣にいるライカは依然としてカメラを覗きながら、口角を釣り上げる。
とても細く、鼓膜をくすぐるような声は、しかしフレイティアにしっかりと伝わった。
「おうッ! もっと頑張る!!」
フレイティアはエレクに向かって突進しながら、そう応えた。
対するエレクは、また違った反応を示す。彼は予想外の事態に苦悶の表情を浮かべていた。
(何ィィ!? 一気にアンダーバーが増えている!? 俺への視線が、支持が薄れている!!)
エレクは迫り来るフレイティアを視界に捉えながら、『無関心』の理由を考える。
(まさか、あの女‥‥‥あの女の声が民衆の注意を引いたのか? バカなッ! 俺の演説より心を打つものがあってたまるかッ!)
フレイティアとリナリアは二人で一つの存在。しかしそれは、偶然が重なって生まれたとても歪な関係だ。まだ互いのことを何も知らず、一方通行の感情が螺旋状に交差しているに過ぎない。
おそらくこの時。フレイティアとリナリアは初めて通じ合った。
心臓で繋がる二人は、その胸に熱い炎の胎動を感じたのだ。
「おらァァァァァァァァァァァァァ!!」
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
一瞬が永遠にも感じられる濃密な時を経て、二人の拳が交わる。
その光景はリナリアの水晶のように透き通った瞳にもはっきりと映っている。教会に通う子供たちが遊びでつくった擦り傷を見ることさえ怖がるほど、このような暴力の世界に縁のなかったリナリアだったが、不思議と二人から目が離せなかったのだ。
会場の全員が息を呑んで見守る中、望む望まないにかかわらず結論は訪れる。
「おいお前ら、やりすぎだ。相手を殺す気か?」
しかし、そこにはバシィと言う乾いた音が響いただけだった。
少し離れた場所で喋るのは支部長のアイシャ。彼女は今、目の前で腕を交差させながら立っている。その行動の意味することは一つ。
離れた位置から二人の拳を受け止めている。
よく見ると彼女の手は、手首から上が消えていた。そして消えた部分は現在、フレイティアとエレクの拳を受け止めているのだ。
「いいから、早く手を下ろせ」
有無を言わせないドスの効いた口調にたじろぎ、二人は思わず拳を引く。そしてエレクはフレイティアから目をそらし、アイシャと向き合う。
「支部長‥‥‥あなたの『才能』って――」
「てめぇ、この野郎! 今いいとこだったのによォ! どうして止めやがった!」
エレクの言葉を遮って、無謀なる変態フレイティアがアイシャに食ってかかった。
「お前よォ、あのままやってたら俺が勝ってただろォ‥‥‥ごふぇッ!?」
その結果、もちろん支部長に叩きのめされるわけで。
「生意気言ってんじゃねーぞクソガキ! ラルフ、早いとこバカ二人を医務室に連れて行ってくれ」
同時に耳に付けている通信機のスイッチを入れ、医師のマルセルにも指示を出す。
「マルセル。今からバカ野郎どもが向かうから、手当てをしてやってくれな」
アイシャからの命令を受けたラルフは床にうずくまるフレイティアの首根っこを掴み、ずるずると引っ張り始めた。
「ちょッおまッ‥‥‥放せこらァァ!!」
暴れるフレイティアをものともせず、ラルフは無言で歩き続ける。しかし、ドアに向かう過程で、彼はふと歩みを止めた。
「どうしましたか、リナリアさん?」
少し俯きながら、手をもじもじさせているリナリア。
「あの、少しお時間いいですか? それにあの、十メートル以上離れたら‥‥‥」
ラルフはその言葉で、ふと思い出したように引きずっているフレイティアを見る。すると彼はたった今目を覚ましたかのように目をパチパチさせ、周りをキョロキョロしていた。そして、自分が死んでいたことに気づくフレイティアは、同時にリナリアの姿を見つける。
「‥‥‥何の用だ?」
首根っこを掴まれ、引きずられている状態の精霊と人間のハーフの男は、自分のパートナーを見上げる。するとリナリアはしゃがんで、目線をフレイティアに合わせた。
「その‥‥‥あの‥‥‥」
「ンだよ。言いたい事があるならはっきり――」
「お疲れ様です」
その言葉に虚をつかれ、フレイティアは思わず吹き出す。が、その後はっきりと、力強く応えた。
「おうッ!! 疲れたからメシを食わせろッ!肉だ肉だ」
「あはは‥‥‥」
その反応を確認すると、リナリアはほっとしたような呆れたような反応を示す。が、どちらにせよ顔は緩み切っていた。そこで彼女はラルフに提案する。
「彼は私が連れて行きます」
そうですか、とラルフは一言だけ事務的に応え、「医務室の場所はわかりますか?」と念を押す。
「はい、大丈夫です‥‥‥フレイ、肩を貸してください」
「お、おう‥‥‥悪ぃな」
エレクはその姿を、離れたところから見ながら思う。あの時、自分とフレイティアの最後の一撃が交わる時。結果的にそうはならなかったがエレクには引っかかるものがあった。
(あの時、他の候補生たちの俺への支持を奪ったのはおそらくあの女、リナリア・シュガーロットだ。しかし、そうだとしてもそれでも俺の唯一無二の『才能』が敗れるなど――)
それとも何か? リナリア・シュガーロットとフレイティア・ヴェスタには何かしら人を惹きつけるものでもあるというのか。
(まさかな)
エレクは気づいていない。自分もまた、肩を抱き合って出口へ向かう二人の姿を自然と目で追ってしまっていることを。
南大陸においては、精霊との契約によって得る『才能』こそ全て。しかし、二人はどこか違うのだ。彼らの強さの源は『才能』ではない。そんな気がするのだ。
エレクは大きく息を吸い、演説に備える。
「みなさん、ありがとうござ――」
「よーしお前ら、デモンストレーションはこれで終了だ! いい刺激になったろ? お前らの今後には期待している。しっかりと励めよなッ!」
アイシャに演説の邪魔をされたことでエレクはムッとする。同時に会場を見渡すと、人々の頭上に浮かび上がる赤色の上向き矢印が激減していた。理由は簡単。アイシャに支持率を持って行かれてしまったのだ。
(俺もまだまだってことか‥‥‥)
しかしながら自分の未熟さを嘆くよりも、得たものの方が大きい。臭いセリフではあるが、『世界の広さ』を実感したことに喜びを感じていた。
(いつかあの女への支持率を全て俺に向けさせてみせる)
エレクはガッハッハッと豪快に笑いながら話を続けるアイシャを見ながら内なる炎を燃やす。
その後、彼は一度頬の火傷跡後をなぞり、ジーニアス・ホルダー候補生たちの歓声を浴びなが
らフレイティアとリナリアの去ったシミュレーションルームを後にした。
すると、アイシャがふと思い出したように言葉を付け加える。
「それとだ。お前らが生活する部屋番号は宿舎の玄関に張り出してあるから見ておけ。私物もすでに搬送済みだ。今日はもう休め。では解散ッ!」
6
遅かれ早かれ、この問題に直面することは分かっていたのだ。だから、無意識のうちに考えることを放棄していたとしか言い様がない。リナリアは目の前の光景を受け入れられるほど達観した精神を持ってはいないのだ。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ、ふっかふかじゃねェかよ! ヒャッホー」
バフンバフンと、ベッドの上で飛び跳ねるフレイティア。リナリアは思わず持っていたカバンを床に落とす。
「おーいリナリア、お前もやってみろよ! おもしれーぞ!」
「嫌です」
「‥‥‥、」
「‥‥‥、」
「‥‥‥‥‥‥うぇっへーい!!」
リナリアの冷たい反応にもめげず、フレイティアはベッドの上でバフンバフンと跳ね続ける。
(ああああ‥‥‥みんなの変な視線はそういう意味だったのか――)
宿舎の玄関で自室の部屋番号を確認している時も、廊下を歩いている時も、すれ違う人はみんなどこか不審な目で自分たちのことを見ていた。リナリアとフレイティアは互いに十メートル以上離れられない。厳密に言うと離れられるのだが、そうするとフレイティアは機能停止に陥ってしまうからだ。
リナリアは床にしゃがみこみ、絶望の呻き声を上げる。
「ううううう、どうして気づかなかったんだろう。私、完全に常識が麻痺してるよ」
「きゃはははははは、リナリア早くお前もやってみろって! 騙されたと思ってッ!」
「ちょっと黙って」
にわかに信じられないといった感情を表に出し、顔面蒼白でフラフラと立ち上がたリナリア
は落としたカバンを手に取り、部屋に二つ用意されている机の一つに置いた。そして、一枚の
紙切れが置いてあることに気づく。何だろうと不思議に思い、リナリアはそれを手にとって読
み始める。そこにはこう書かれていた。
『まぁ、よろしくやってくれや。 アイシャ』
紙切れを持つリナリアの手がプルプル震える。
「そりゃ私たちだげ特別扱いってわけにはいかないにしても、この人完全に楽しんでる」
この宿舎は基本的には二人部屋で、トイレ、お風呂、食堂などは共同のものを使うこととなる。いろんな事が起きたせいで身も心も疲れ果てているというのに、現実はそこに追い討ちをかけた。リナリアは深い溜め息を吐く。すると、突然ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。
「フレイティアさん、人が来たみたいなので、少し静かにしてもらえますか?」
「うひゃひゃひゃひゃ‥‥‥へいへい」
ノックの音はだんだん大きくなり、少し耳障りになるほどけたたましくなっていた。
「はい、今開けますね」
さすがのリナリアもノックの仕方に少し腹を立てながら、ドアを開く。そこには髪を縦に巻いている高身長の一人の女性が立っており、(ここは女子専用の宿舎なのだから当たり前だが)彼女はいきなり眉を釣り上げて話し始めた。
「あなたね、ここが宿舎であることをお忘れではないですか? いくらなんでもはしゃぎすぎですのよ! 隣の部屋の人のことも考え――」
縦ロールが目を丸くして言葉を詰まらせる。かと思いきや、今度は口を歪めてニヤリと笑った。そんな彼女の視線の先にいたのはフレイティア。
ジーニアスと人間のハーフであり、決定的且つ絶望的に『男』である。
「なるほどねぇ。あなたたちのことは支部長が認めていらっしゃるから何も言いませんが、まぁせいぜい『お楽しみ』になってくださいませ。でも、隣の部屋のことも考えてね」
「え、お楽しみ?‥‥‥」
数秒の思考の後、リナリアは金髪縦ロールが言った言葉の意図を悟る。
「ち、違います、私たちはそんなんじゃ――」
「あら、幼い割に耳年増なこと。おほほ」
リナリアは顔を真っ赤にして抗議する。しかし、縦ロールはそんな事お構いなしに、今度はターゲットをフレイティアに変えて話し続けた。
「そしてあなた、いくら許可が下りていると言っても、この女子寮で男が好き勝手することは許しません‥‥‥ちょっとあなた、聞いていますの?」
「ああん? なんだって巻貝女」
「ちょっとフレイティアさん、なんて事言うんですか!」
「お前、さっきフレイって呼んだじゃん。長いからそっちでいいぜ」
鼻をほじりながら気だるそうに応え、指に付いた内容物を無造作に弾き飛ばす。
「そんな事今はどうでもいいんです! と言いますか、私も暮らす部屋でなに晒してくれてんですかッ!」
必死に食い下がるリナリアの努力も虚しく、フレイティアはまったく悪びれない。それどころか、彼は挑発するかのように縦ロールに近づいてきた。
「よォ巻き貝女、なんか用かよ?」
「またしてもそのような侮辱を‥‥‥いったい何のマネですの?」
「いや、頭に二つも大きい巻貝くっつけて、重くないかなぁって思ってよォ」
「‥‥‥許さない。許しませんわ。一度ならず二度までも、名家の生まれであるこのトーリ・メルトレットをコケにするなんて――」
「ああん? 豆腐メンタル?」
「いい加減にしないとブチ殺しますわよッ!」
「やれるもんならやってみろよ」
怒った猫のように全身の毛を逆立てるトーリに対し、高圧的な態度で上から話すフレイティア。最近は黒星続きだったが、彼は実はけっこう強い方であることを思い出して欲しい。周りが化物ばかりだっただけなのだ。
「うぐぐ――」
本当は騒いでいたフレイティアが悪いのに、完全に主導権を奪われてしまったトーリ。彼女は分かっている。主席と互角の勝負をしてみせたこの男には勝てないことを。よって、下唇をキュッと噛み締め、悔し涙をこらえることしかできない。プライドの高い彼女にとって、まるで拷問のような仕打ちだ。
(何でなのよ! 候補生次席である私がこんな屈辱を‥‥‥)
「この屈辱はいずれ必ず返して差し上げますわ。せいぜい首を洗って待っていることですわねッ!」
せめてもの威厳を保ちたいのか、人差し指をビシィとフレイティアに差しながらトーリはベタなセリフを気丈に叫び、くるんと身を翻して去っていった――
――と言ってもすぐ隣の部屋なので、彼女が部屋に入るまで見送るリナリア。
「あの、すみませんでした。彼には強く言っておくので、どうか許してください」
トーリは一度振り向いたかと思うとフンッと鼻を鳴らし、そしてバタンと強くドアを閉める。
「誤解を解けなかった上に、嫌われちゃったらどうしよう」
リナリアはその場にしゃがみこむ。部屋に入ってきてからまだ十分とたっていないのに、もう二回目の絶望である。
「まかせろ! 嫌な奴がいたら俺がぶん殴ってやる」
「そのガキ大将的な発想はやめてください。今度こそ怒りますよ」
たまに見せるリナリアの強気な一面に押され、フレイティアは黙る。
「わ、悪い」
(くそ、調子に乗りやがって‥‥‥俺を舐めるとどうなるか、分かってねェみたいだな)
リナリアがベッドに倒れこむ動作を目で追いながら、半ジーニアスの男の頭はフル回転していた。それは当然のごとくくだらないこと。
彼の頭では、ある計画が着々と練られていた。